いたいのいたいのとんでけ
いたいのいたいのとんでけ(6)



 おはよう、ジャパン!

 アルクの今日の朝は目覚めから軽快だった。思わず太陽に挨拶しそうになったくらいだ。
 いつも友康はアルクを起こしてから学校に行くのだが、今日起きた時は友康が学校に行った後だった。

「ふふ、照れ屋さーん!」

 昨夜のことを思い出し、頬を染める。
 こんなところ兄ちゃんに見つかったら、きっとキモイと一喝されそうだ。

(でもいいんだ! 僕は友康と一緒に日本で生きていく)

 昨日のことがあってから人生薔薇色だ。今まではアルクの世界、友康の世界とどこかで一線を引いて考えていたけど、もうそれもやめだ。アルクの世界は、アルクの世界。友康の世界もアルクの世界。
 スキップしたい気持ちでアパートを駆け出して、公園に遊びに行く。
 これで四葉のあいつを見つけたらさぞかし楽しいだろう。なんてニヤニヤした顔でいると、ふと視線に気がついた。

(誰だろ、あの人)

 車道の向こうから女性がアルクを見つめていた。少し驚いた様子で、固まってしまっているようだった。

「知り合いなんていないのにな」

 この世界に来て、知っている人なんて友康と榊と小学生くらいだ。アルクは気にせず、公園へのスキップを続けた。

 いつものようにクローバーが一面に広がっている辺りに腰を下ろす。最初の20分間だけクローバー探しをすると、四葉を見つけていないのになんだか満足してしまった。
 幸せな時って何をしてても満足してしまう。
 ごろんと寝転がりながら、昨日の出来事を思い出してにやけてしまう。
 クローバーの良い匂いに囲まれて、少し昼寝をしてしまった。しかし、草に埋めていた鼻に異臭が突如襲った。

(なんだこれ。 鼻がひしゃげる臭いがする)

 パチッと目を開くと、辺りが丸く燃えていた。ジュジュジュと焦げる匂いをさせて、円が描かれていく。

「何これ……。 魔方陣」

 魔方陣はひとりでに草を焼いて、線を描いていく。
 驚きながらそれを見守ると、やがて魔方陣の中から見知ったシルエットが現れた。

 それは。

「兄ちゃん!」

 久しぶりに見た兄の姿にアルクは大声で叫んだ。
 本来のアルクと同じ青い髪にきらりと虹彩が艶めく。顔はアルクよりもずっと鼻が高くて、目元も鋭い。高貴な紫のローブは特Sクラスの魔法使いにしか身につけてはいけない衣装だ。
 兄は目をそろりと開けると、不機嫌そうにアルクを睨んだ。

「アルク、お前……世話やかせやがって!」

 アルクが抱きついた瞬間に、両側のこめかみを拳でグリグリとされた。

「いたたたた、兄ちゃん、やめて」
「やめるか! 人の苦労も知らず」

 苦労は知らないが、大変さは知っていた。違う世界に召喚される事例なんて殊更に少ない。数少ない文献を読んで、アルクの気配を探って、兄は寝ずにアルクを探し続けたのだろう。
 グリグリグリグリ。攻撃は10分くらい続いた。
 やっと兄がアルクは開放すると、アルクは虫の息で地面に倒れこんだ。
 兄はそんなアルクなどお構いなしに言い放った。

「ほら、帰るぞ」
「え? でも、僕……」

 兄の言葉にアルクは言葉を詰まらせた。

(友康のこと……どう言おう)

 アルクが無言でいると、兄は眉を顰めた。

「なんか問題でもあるのか」
「兄ちゃん……僕、こっちで好きな人ができた」
「はぁぁぁあ!?」

 いつもの物静かな公園に兄の怒号が響き渡った。
 兄の顔が烈火のように赤くなる。こんな事もアルクの世界では日常茶飯事だ。アルクはいつもこの面相の兄に怒られ続けていた。
 へらりと笑うと今度は頬を掴まれた。兄は加減も知らない力でアルクの頬を横にグイグイと引っ張った。

「いていていていて」
「どういう事だ、アルク!」

 グイグイグイグイ。攻撃は10分くらい続いた。
 やっと兄がアルクは開放すると、アルクは今度こそ地面にへたれこんだ。涙目になった状態で、説明する。

「友康って言うんだ。 僕の事召喚してくれた人」
「……男か?」
「うん、男」

 兄は面倒そうに片方の眉を少し上げた。アルクはもの知った兄と話すのも嬉しくて、終始しまらない顔で笑っていた。

「……お前がそいつを好きだってのは分かった」
「うん!」

 アルクは頬を桃色に染めて、答えた。兄は目を細めて、腕を組んだ。

「……だが、そいつはお前と同じ気持ちなのか」
「え」
「お前はそいつの邪魔になってないのか」

 アルクは初めて聞いた話のように目をパチパチとさせた。

「もちろ」

 ん、と答えそうになった時にあれっと頭をよぎる。
 昨日の出来事が蘇る。榊を好きなわけではないといった。友康はアルクにキスをした。アルクを抱きしめた。
 けれど。

(……僕、友康に好きって言われてない)

 しかもそういえばよく分からない長考タイムもあった。
 サーっと血の気が引いていくと、兄はより眉間に縦皺を一本増やした。

「お前いつもみたいにまた突っ走ったんじゃないだろうな」
「え?」
「お前はいつもそうだ」

 兄が魔方陣から足を一歩踏み出す。魔方陣から出た瞬間、髪の毛はアルクと同じ茶色へと変わる。それをアルクは目だけで追いかける。

「ちゃんとトモヤスに聞いておけ」
「え? 何を」
「お前が元の世界に帰るべきか、帰らなくていいかを」

 兄はアルクを立たせると、膝についた土を払った。そしてアルクを自分の腕の中に抱きしめた。兄はアルクよりもずっと背が高いので、アルクの首の辺りで兄の下ろした腕の先が交差する。
 そんなの、とアルクが呟いた。
 そんなの帰らなくて良いって言うはずだよ、兄ちゃん。
 兄は目を細めると、ぎゅっとアルクを抱く手に力を入れた。

「アルク、俺はお前に会いたかった」
「え、僕も」

 兄ちゃんを想って、一回泣いたよとアルクが笑うと、兄は「一回だけか」と不満げに呟いた。

「また来る。 次までに聞いておけよ」

 神妙な顔で頷くと、兄はまた魔方陣の中へと消えていった。
 公園がまた静かに鳥のさえずりを響かせている。
 なんだか朝の歌いだしたい気分が嘘みたいだ。
 ぼーっと足元に生えるクローバーを見つめる。

(大丈夫だ、友康は僕の事好きだ)

 自分に言い聞かせるとそれが正しい気分になった。
 しばらくすると、いつもの時間に小学生が来て、焼けた魔方陣を見て「ミステゥリーサークル!!」と叫んでいた。興奮する小学生を尻目に、アルクは頬杖をついて思った。

(いいな、小学生は能天気で)

 いつも能天気だったアルクに言われたくは無いかもしれないが。



***



 夕方5時。玄関から足音が聞こえる。極限まで磨り減った靴を履いている友康の足音は特徴的だ。

「おかえり、友康」

 扉が開き、ただいまを言われる前にアルクは友康に言った。友康は何故か顔を赤くして、「ただいま」と返事した。
 あれ、とアルクは友康の後ろを覗いた。

「今日榊いなかったんだ」
「ああ。 昨日でそれは終わりだ」

 友康は穏やかに笑いながら部屋に入る。その笑顔でノックアウトされそうになるところをどうにか保つ。友康が荷物をしまい、畳に座るとアルクもその横に座った。友康は愛しげにアルクの髪を撫でた。くすぐったいよと笑うと友康も笑みを浮かべた。

(……うん、これなら大丈夫だよね)

 アルクは心の中で思った。

「あのさ、友康……」

 心を落ち着かすために一呼吸した。友康が不思議そうにアルクを見た。

「今日、兄ちゃんが来たんだ」

 友康の表情は変わらない。
 ほら、大丈夫じゃないかとアルクは心の中で勝利を確信した。

「そうか」
「うん、でさ」
「じゃ、自分の世界に帰るんだな」
「え」

 ピンと空気が凍った。
 今、言った言葉をアルクは理解できていない。

「え?」

 聞き返すと、友康は目を背けた。

「アルク、帰れよ。 お前は自分の世界に」

 槍みたいに冷たい言葉だ。頭が真っ白になって、救いを求める顔になる。けれど友康はこちらを見ようとはしなかった。
 アルクは無理やり友康の懐に入って、服を掴んだ。

「なんで? 友康は僕の事好きでしょ」
「好きになりかけてた」

 なりかけてた?嘘だ、好きになっていたはずだ。さっきの自分の顔鏡で見てみろよ。
 ぐるぐると口に出したい科白がめぐりめぐる。
 友康は痛ましそうに目を伏せた。

「お前には分からないかもしれないけど、家族は一緒にいるものなんだ。 それが普通なんだ」
「え?」
「俺はホモだと言った時、家族に捨てられた。 知らないだろ、今まで信じてた人たちの手で暗闇に崖から落とされる気分なんだぜ」

 初めて聞いた話だった。友康が家族と離れて暮らす理由。友康は家族に捨てられたのだ。ホモだということだけで。

「ごめん、俺にはお前が家族や自分の世界を捨ててまで一緒にいる価値なんて無いんだ。 お前は自分の世界に帰れ。 帰ってくれ、お願いだ」

 いつの間にか懇願のような言葉になっていた。まるで心臓を一掴みにされて、ブスブスと細い金属で刺されているようだ。
 友康に触れようとすると、友康はアルクの手を振り払った。

「良かった、お前のこと抱いてなくて」

 そう言う友康はまるで独り言をしゃべるようだった。

「恋人にしてなくて良かった」

 友康は決してこちらを見ない。

「でもこんなことになるなら後戻りできないくらい突っ走ってればよかった。 昨日の自分をぶっ飛ばしたい」

 昨日が友康にとってのその境界線だというのだったらアルクももっと上手に誘えばよかった。
 アルクはとっくの昔に境界線の向こうに渡ったつもりでいた。「僕、もう後戻りできないんだけど」って言いたいのに今は言えない。
 まるで友康は見えないバリアを張っているようだ。アルクの姿なんて見えていないし、見ようともしない。それだけ家族に捨てられた事に友康は傷ついていた。
 当たり前だ。友康だってまだ高校生なのだ。
 友康の本当の痛みにアルクは気づいてさえもいなかったのだ。
 それがただ悲しかった。アルクはその時、憔悴しきった友康に罪悪感すら覚えた。





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据え膳はすぐにいただくべきという教訓。
written by Chiri(3/30/2010)