キミのスイッチ
キミのスイッチ(4)



「おはようございます」

 潤が職場に着くなり挨拶をすると、返事がぱらぱらと帰って来た。朝八時半きっちりから会社に来ている人は少ない。
 しかし、ふと赤澤の席のPCがついているのに気がついた。

「あれ、赤澤もう来てるんですか? 珍しい」

 庶務の女性が「ああ」と声をあげる。

「赤澤さん、昨夜泊り込みで企画のパネル作ってたんですよ。 多分今は仮眠室で寝ておられます」
「え……」

 驚いて、仮眠室の方を見やる。確かに昨夜は赤澤が突然「うわ、良い事思いついたかもしんね!」だなんて深夜に陽気な声をあげているのを聞いた気がする。
 まさか、あのテンションのまま、会社にいたとは……。まるでランナーズハイみたいだ。というか学生のノリだ。

 仕事をそこまで楽しめるのは良い事だよな、と思いながら仮眠室に潤は向かった。足を忍ばせて入ると、確かに潤がすやすやと安らかな顔をして寝ている。

「うっわ……無防備……」

 まさに『ザ☆無防備』という名前で売られていそうだ。疲れきった顔は寝ると少し幼く見える。口は少し開いていて、目は頑なに瞑っている。

「へへ、なんか可愛い」

 我ながら気持ち悪いと自覚しながら、赤澤の顔をまじまじと見つめる。

「あ、そうだ」

 思えば、今こそが絶好のチャンスじゃないか。そう、スイッチを押すチャンスである。
 潤は赤澤の耳の後ろに手を忍び込ませた。レトロなスイッチだ。トグルのような切替棒があって、それを向こうに圧力をかけてやればきっと簡単にスイッチは切り替わる。
 そんなスイッチのフォルムを手で撫で回しながら、潤は笑みを浮かべた。

(押しちゃおうかなぁ〜、でもまだもったいないよな〜)

 自分で自分を焦らして楽しんでいる。いつもの一人遊びだけれど、今日も今日とて楽しくて仕方が無い。
 何度かスイッチを撫で付けたり、耳元に触れたりしてから、不意にあれっと気づく。耳たぶが赤い。寝てる時にこんなに赤くなるだろうか。

「そんなに見られてると恥ずかしいよ」

 いきなり声が降ってきた。わずか拳一つくらいの距離で寝ているはずの赤澤が目を開けた。くすぐったそうに笑みを浮かべている。

(わっ)

 あまりにも距離が近くて潤は声も出せなかった。口を開けたまま、目をぱちくりすると、スッと赤澤の目が細くなった。
 潤は目を見開いた。
 え。そんな、まさか。嘘でしょう。
 そう思ったのに、赤澤はとまらなくて。

 キスをされた。

 ついばむように唇に何度も口をつけて、吐息をかけられる。唇が離れていっても指が残って潤の唇に触れて残っている。
 赤澤の手も視線も熱かった。

 呆然としたまま、赤澤を見ていると赤澤はやっと体を起こして、潤を真正面から捉えた。赤澤は首をかしげて、口の端をあげた。

「あれ? もしかして俺の勘違いだった?」

 ハッとして、言葉の意味を考える。もしかして潤が誘ったと誤解をして……。

「かかっかんちがいにきまって」
「っていうか勘違いでも、責任とってね」

 え、と赤澤の顔を見上げる。赤澤は溶けそうな表情で潤の肩に顔を乗せた。

「だって、俺もうかなり前から椿にメロメロ……」

(うっわ、ずるっ!)

 体温が二度くらい上がった気がした。
 ずるいずるいずるい!
 こっちがそうなりたいわけでもないのにまるで喜ばせる術を向こうが持っているようだ。そんな抗えない欲求に涙が出そうになる。
 潤は真っ赤になったまま、その涙を散らした。

「うぅ……くそたらし」
「つばき可愛い」

 もう一度キスをされると、もうわけが分からなくなった。
 もしかしてそんな気はしていたかもしれない。多分、自分だって赤澤と同じくらい好きになっていた気がする。そして赤澤のそれが本気かは分からないけれど、自分は翻弄されてしまうと分かっててもそれでもやっぱり本気な気がする。

 かなわない。きっと何も彼にはかなわないだろう。
 まるで踊らされているようだ。掌で楽しく一人で踊らされている。赤澤も同じように向こう側で踊ってくれているのなら良いのだけど。

「おい、椿ー!」

 ハッと我に返った。執務室で自分を呼ぶ声がする。あれは上司の声だ。
 そそくさと桃色の空気に染まったこの部屋を出て行こうとすると、「待って」と赤澤が呼び止めた。

「今夜、うちにおいでよ」

 ピューっと湯気の立つやかんのように頭が沸騰した。潤は赤澤の顔を見てから、小さく頷いた。
 赤澤も赤い顔をしていてちょっとだけ安心した。



***



 空を見上げると、星が落ちていくようだった。聳え立つビルが放射線状に見えて、ぽっかりと夜空に浮かぶ月を示しているようだ。

「何してんの」

 声をかけられてハッとした。
 会社の玄関入り口前にある花壇に腰掛けていた潤はやっと我に返った。それまで潤は赤澤を待つ間、夜空を見ながら「どうしよう」だとか「これからどうする」だとかをグルグルグルグルいったりきたりして、思考の坩堝にはまっていたのだ。
 堂々巡りから救ってくれたのは椎木だった。

「いや、あの……赤澤を待ってるんだ」

 嘘をついても仕方ないと思い、本当の事を言うと椎木は口元だけで笑った。

「へぇ、くっついたんだ?」
「え」

 早速バレている事実に潤は真っ青になった。平常心を取り戻そうと、外気を深呼吸で取り入れる。
 なんだか近頃の自分はまるで自分じゃないみたいだ。こんなワタワタしたり、赤くなったり突然恥ずかしくなったり、こんなのまるでおかしい。
 自分の最近の所作を思い出して、潤はワッと顔を隠した。

「椎木! 椎木! 今日、一緒に赤澤ん家に行かないか!?」
「はぁぁぁ!?」
「そうだ、皆で鍋しようぜ。 鍋! 皆で楽しい鍋!」
「お前、俺が赤澤に殺されちまうぞ!」

 椎木は口を曲げて反撃した。
 だって、赤澤と二人きりなんておそらく呼吸が続かないと推測する。

「なぁ、お願いだよ。 な?」
「って言われてもなぁ」

 椎木はぽりぽりと首筋をひっ掻いた。
 あれ? 自分は何を懇願してるのだろう?
 手を合わせながら潤はまたグルグルしだした。
 ここ最近の所作が恥ずかしいものだと思ったが、これもそれはそれで恥ずかしいのでは?

 そう思った瞬間、椎木の視線は潤を超えて遠くに投げられた。心なしか椎木の顔が強張っていた。

「……って椿クン? まさかそれ本気で言ってないよね?」
「へ」

 背後から声がしてゾクッと背筋がのびた。潤がそろりと振り向くと、案の定、赤澤が怖い笑顔で潤を見つめていた。

「さぁ、二人で仲良く帰ろうね。 椿」

 にっこりと笑われ、「……はい」と答えるしかなくなる。首根っこを掴まれて運ばれる子猫のように赤澤は潤を彼の住むアパートに連れて帰った。
 赤澤は家の扉を開けると、問答無用で潤を家の中に押し込めた。

「俺からしてみたら椿の方がよっぽど小悪魔だけどね」
「え?」

 言った瞬間、振り返ると、紺色の布が振ってきた。それが赤澤の着ていたスーツだと気づくと、わわっと潤はあとずさった。けれど、あとずさる体ごと赤澤に捕まった。
 潤の顔が赤澤の首元に埋まる。

(あ、スイッチ)

 すぐそこにスイッチがあった。潤は鼻を埋めて、スイッチに近づいた。トグルの金属が冷たくて気持ちが良い。

「ちょ、椿。 くすぐったい」

 本当にこれは何のスイッチなんだろう。
 でももしかしたら。これを押したら赤澤も変わっちゃうかもしれない。

 加村のスイッチを思い出す。あのスイッチは押してよかったのだろうか。もしかして自分があのスイッチを押していなかったら、加村は杉下課長のことを好きにならなかったかもしれない。
 そして、祖母のスイッチ。
 おばあちゃんは、変わってしまった。
 自分がスイッチを押した後、世界が変わったように彼女は変わってしまった。

 スイッチは本当はとてもリスキーなものかもしれない。
 何故なら加村や祖母の反対のスイッチがあるのかもしれないのだ。
 例えば、それは人を嫌いになるスイッチかもしれない。そのスイッチが仮に赤澤の耳の裏についていたら、潤はそのスイッチを決して押してはいけない。

(ああ、でも押したいのに)

 そこにスイッチがあるということは、赤澤は潤にまだ見せてない一面があるということなのだ。それもまた悔しい。何でも知りたいって思うのは何なんだろうか。

(支配欲? うざいよな、こんな奴)

 もやもやとお腹に何かが溜まっていく。

「どうしたの、しかめっ面」

 赤澤に聞かれて、首を振る。
 赤澤は潤の気持ちとは裏腹に潤の肩に顔を乗せると、至福のため息をついた。

「いやー俺今こうしてられるだけで幸せかも」
「お、おまえ……」

 素面でそんなこと言うなんてなんて恥ずかしい奴なんだろう。
 潤が赤い顔で俯いていると、急に体が浮いた。

「ちょ、やめ」

 赤澤は楽しそうに潤の腰を抱きかかえた。折れ曲がった体を子供を持つように抱きかかえるとそのまま部屋の奥に入る。
 赤澤のベッドに乗せられると、流石の赤澤も重かったのか、少し大きく息を吐いた。
 そして、次の瞬間。

「ハッ、男同士ってどうすんの」

 赤澤は至極真面目な顔で潤に聞いた。

「え……いやいや」
「え、どうすんの? まじでどうすんの?」
「って天然かよ」
「だって今まで知らなかったから」
「いや、俺だってそんな知らないよ」
「えー……」

 いやいや、ベッドに乗せられてから考えられても。たらりと冷や汗を感じながら、潤は目を泳がした。
 ちょうどベッド脇にある机にはノートパソコンが乗っていた。潤はそろりとそれを指差した。

「じ、自分で調べろよ」
「え、一緒に調べようよ」
「はぁ!?」

 赤澤はまた潤の体を簡単に抱きかかえた。よいしょ、と椅子に座らせるとノートパソコンを起動した。検索サイトを立ち上げて、ご丁寧に潤の指をキーボードの上に添える。

「ほら、パソコンに文字打って。 『男同士 エッチ』って」
「何考えてるんだよ、やだよ!」

 ぶったたいてやろうと思って、振り返ると赤澤がニヤニヤと親父くさい顔で潤を眺めていた。

「クソ。 とんでもない奴だな、お前!」

 ハハハッと赤澤が声をあげて笑った。
 セクハラされたことに気づき、頭の中まで茹で上がった。それでも楽しそうにしている赤澤を見ると、怒りっぽい気持ちもしゅるしゅると萎んでいく。
 潤は赤澤の耳元を見た。相変わらず外側に倒れているスイッチを見て、少しだけ残念に思う。

 二人きりで楽しくて嬉しいのになんだか微妙な心地がした。
 あのスイッチがなければ、今頃普通に恋人同士をできたかもしれない。けれど、スイッチがあるとほんの少しだけ心に引っかかる部分があるのだ。
 初めて、スイッチなんてものが見えなければ良かったな、と潤は思った。





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赤澤のスイッチが暴かれること無く、カップル成立。
written by Chiri(1/2/2011)