キミのスイッチ
キミのスイッチ(5)



「椿、飯いかないのか」
「え?」

 先輩に声をかけられて、ハッと時計を見る。既に昼の十二時を過ぎていた。

「いえ、俺今日弁当買ってきてるんで」
「ふぅん、珍しいな」

 先輩社員が食堂に行くのを確認すると、潤は大きく伸びをした。昨日、昼ご飯は赤澤と一緒に食べる事を約束した。お昼の約束だなんてまるで高校生の頃の恋愛みたいだ。
 ふと赤澤の席を見やると、赤澤も潤に気づいたようだった。

「談話室予約したからそこで食べようぜ」

 赤澤も潤と同じように弁当を取り出すと、部屋に誘った。潤ははにかみながら、部屋に入った。パタンと部屋の扉を閉じると、談話室は二人きりの空間へと変わった。
 二人して弁当を食べ終わると、赤澤は潤の隣に間を詰めて座ってきた。

「なぁ、椿。 今日もうち来る?」

 潤はカッと顔を赤くした。
 昨夜、結局潤は赤澤とは何も無いまま家に帰ったのだ。けれど、潤だって男同士の仕方を深く知っているわけではなかった。
 自分の家に帰ってから調べてみたのだ。『男同士 エッチ』と検索して。マッチョな男同士でそんなことをしている動画を見た日には青ざめてしまったが、それを赤澤に置き換えるだけで頭が沸騰するほど熱くなった。あれを赤澤とするなんて頭が変になりそうだ。いや、でも何事もやってみないと分からない。
 潤は戸惑いながらも答えた。

「い、行く」

 その瞬間。

(え……)

 カチッ、

 と音がしたのだ。

 ゆっくりと赤澤の方を向いた。赤澤は眉を寄せて、潤を見ていた。

(え、なんでそんな目で俺を見るの)

 まるで何かを非難するみたいな視線だった。
 そして、潤は気づいてしまった。
 サーッと血の気が引いていく。

(え!? 嘘だろ? 何これどうゆうこと)

 赤澤のスイッチが切り替わっていた。耳の裏にあるスイッチのトグルが向こうを向いていた。

「あ、あの、そのスイッ……」

 潤は何かを言いかけた瞬間、口ごもった。どうせ赤澤に分かる話ではないだろう。

 祖母のスイッチを思い出す。
 祖母は祖父を亡くして長かった。いつも遺影を前にきちんと正座して手を合わせては何かを語りかけていた。
 祖母はきっといつまでも祖父を好きなのだろうと思っていたのだ。
 けれど、自分がスイッチを押してしまったあの時、全てがガラリと変わった。
 祖母は突然外によく出るようになって、外の世界に目を向けるようになった。母も父もそんな祖母を困った目で見ていた。「お母さん、そんな恥ずかしいことはやめて」と。
 けれど、祖母は新しい恋人を早々に見つけて、毎日楽しそうに日々を過ごした。前の静かに余生を過ごす老婆という雰囲気なんて一つも残っていなかった。
 潤は祖母が楽しそうにしていたのを見るのは決して悪くは無かったが、その一方で祖母が父や母に非難されるのを見ているのは心苦しかった。
 自分が押したスイッチは。

 『恋するスイッチ』だったのだろうか?

 それとも。

 『祖父を好きではなくなるスイッチ』だったのではないだろうか?

 ずっと思っていたことだった。それがどちらのスイッチであるかなんて判断は誰にも下せなかった。そもそもスイッチが見えるのは潤だけなのだから。
 潤は赤澤をジッと眺めた。赤澤は見た感じではあまり変わったところが無かった。それが潤を一層怖がりにさせた。

「あの、赤澤。 俺」

 赤澤は不思議そうに潤を眺めた。
 ドクンと心臓が鳴る。こんなのは初めてだ。潤が押すよりも先にスイッチが自動で切り替わるなんて。何も考えられないようなくらい頭がパニックになる。潤は頭をブンブンと振った。

「お、俺。 仕事残してきちゃったから、先戻るわ」

 平静を装いながらそう言うと赤澤は「そう? 分かった」とすんなり潤を帰した。そんな赤澤にも少しだけ不安になりながら、潤は足早に部屋を出る。
 扉を出た瞬間、倒れるかと思った。息ができないほど苦しくて、心臓が波打つように激しく鼓動していた。
 ごくりと唾を飲み込むと、よろよろと自分の席に戻った。その後に、赤澤が談話室から出ていき、赤澤の席に向かうのも見えた。赤澤は口元に手を置き、やはり厳しい顔をしていた。

「うわーあいつ、スイッチ入ってんじゃん」

 ふとすぐそこにいた椎木がそんな赤澤を見て発言した。何かの比ゆだろうが、潤はものすごい勢いで反応してしまった。椎木の方を振り返ると、椎木は潤を見て口角を上げた。

「お前、あいつのこと刺激しただろ? 今、あいつすげー顔してた」

 何が。

 聞きたくても聞けない。怖いから聞けない。
 意味が分からなくて泣きそうになる。
 刺激なんてしていない。何か自分は赤澤を怒らせたのだろうか。そもそも椎木には分かる赤澤の顔の変化が潤には分からないのだ。
 赤澤が今潤をどう思っているかさえも不安になる。

 カチッとした音で世界はひっくり返る。
 そんな瞬間を何度も見てきた。
 潤は椎木から顔を背けると、パソコンへと向かった。カタカタと無意味にキーボードを鳴らす。仕事をしようにも頭が動かないし、余計なことを考えてしまう。

(いやだ、今夜会いたくない。 なんか変な事いわれてしまいそう)

 自分の鳴らすキーボードの音にさえいらつく。周りの音が聞こえなくなっていく中、心の奥底でグルグルと考える。
 赤澤のスイッチは何だったのだろうか。
 それは赤澤と潤を遠ざけるものではないのだろうか。

(やだ。 絶対やだ)

 涙目になるのを堪える。業務中だ。けれど、どうしても。どうしても、無理だった。
 潤はダンと机をうち、立ち上がった。周りの視線が集まる。

「すいません、体調悪いんで帰ります」

 潤はそれだけ告げると、荷物をまとめてオフィスを後にした。それを赤澤は少し驚いた顔で見ていたが、その視線を振り切って出た。
 しばらくして、赤澤からメールが発信されていた。

『どうしたの? 風邪?』

 潤は息をのんで、携帯をパタンと閉じた。その瞬間、ぶわっと脂汗が出てくる。

 嫌われてはいないだろう。
 じゃなきゃこんなメールは来ない。
 そうは思うけれど。
 思うのだけれど。

 こんな事は初めてなのだ。スイッチが勝手に切り替わるなんて今まで一度もその瞬間を見たことなんて無かった。
 潤は真っ青の顔のまま、家路についた。



***



 これは悪戯少年への罰なのだろうか。
 今まで、スイッチを娯楽にしてきた。ゲームだと思って、押しまくったり、はたまた押さないでいたりしてきた。
 まるで全ての権限は自分にあるかのように。

 けれど、そんなことは無かったのだ。
 赤澤のスイッチは勝手に切り替わった。
 スイッチの権限が自分だけにあるわけではなかったのだ。

 あれから赤澤からいくつかメールが来た。

『病院行った?』
『どうしたの? なんで返事くれないの?』
『俺、なんかした?』

 何故か返事ができなかった。携帯を持つ手が震える。
 次の日も会社に行けなかった。
 そうこうしているうちに潤は自分が今まで一番臆病になっていることに気づいた。
 次の日に学校で注射がある日だってこんなに怖かったことは無かった。
 高校受験だって、大学受験だって、こんなには怖くなかった。
 そういう類の怖さは誰かが一緒に分かち合ってくれたのだ。
 けれど、スイッチ関連の話で分かち合える人間はいない。

 何もしないまま一日が過ぎようとしていた。
 ベッドの上で布団をかぶったまま、部屋を真っ暗にしたまま、膝を抱えて震えていた。まるで子供が空想で描いた化け物に震えるように。
 何に怖がっているかも分からないのような震えだった。

 ピンポーン

 不意に呼び鈴が鳴り、震えが一瞬だけ止まった。
 時計を見ると、夜の七時だった。もしかして、と心が冷える。もしかして、赤澤が家まで来たのだろうか。
 死刑宣告を受けるような心地で玄関を開けると、加村が心配そうにこちらを眺めて立っていた。

「椿さん」
「加村……」

 赤澤でない事に安堵しながら、加村を部屋の中に招き入れる。
 その時、自分がひどい格好をしている事にやっと気づいた。上は昨日のシャツのままだったし、下はスーツのズボンを履いたままだった。髪の毛はくしゃくしゃに乱れていて、目元もクマだらけだ。
 加村は一瞬眉を顰めてから、部屋に上がった。

「どうしたんですか、いきなり」

 昨日、なんだか様子がおかしかったから、と加村は言葉を足した。

「いや、大丈夫だから……」

 ゴクリと潤は唾をのんだ。
 潤は加村に対しても小さな罪悪感を持っていた。潤が押したスイッチのせいで加村は杉下課長を好きになったのかもしれない。そんなスイッチなんて押さなければ良かった。こんな風に加村と潤を繋ぎとめる糸はスイッチを押したところから繋がっただけのものだ。
 加村は口元を締めると、潤を真正面から見た。

「椿さんは俺の事信用してないんですか? 悩みがあるなら俺に言ってください。 俺だって椿さんにいろいろ話して楽になったんだ。 椿さんがいなかったら今の俺は無い」
「お前……」

 真剣な加村の言葉に思わず涙腺が緩んだ。

「いや、俺はお前にそんな風に思ってもらえるほどお前に対していいことをしていないよ」

 もしかして潤がいなかったら、加村はこんなに変わらなかったかもしれない。
 髪を切り、人とよくしゃべるようになり、杉下課長を好きになった。そんなもの、もしかしたら加村は望んでいなかったもしれない。閉鎖的な空間でずっと一人で居たかったかもしれない。

「椿さん。 そんなこと言わないでください」

 加村は潤の手をとった。

「俺、本当はずっと一人は嫌だったんです。 本当はずっと誰かとしゃべりたかった。 誰かを好きになりたかったし、なってほしかった」

 加村の顔は真剣だった。髪を切った加村の目を見ると、それだけで心が少し伝わるようだった。

「こうなれたことを俺は後悔してない」

 加村の言葉に潤は涙を一つ落とした。
 救済されたかのように真っ暗だった心に一筋光が植えつけられた。潤は掠れた声で「……ありがと、加村」と呟いた。

 そして、次の瞬間。

 ピンポーン

 潤は耳をぴくりとさせてから、立ち上がった。今度こそ、もしかしたら赤澤かもしれない。赤澤が来て、潤を怒鳴りにきたかもしれないと情けない顔をした。

 しかし、扉をあけると、そこにいたのは杉下課長だった。
 杉下課長は潤を見るなり、目を見開いた。

「椿、お前大丈夫か」

 潤が力なく笑うと、杉下課長は「馬鹿、無理して笑うな」と潤を小突いて、部屋に上がってきた。部屋に入ると、先にいた加村を見て杉下課長は一瞬だけ驚いた顔をしていた。

「加村、なんだ来ていたのか」
「はい」

 杉下課長は加村の隣に座り、その後で潤の顔をもう一度見た。

「お前がそんな風にオロオロしているのは初めて見たな」

 潤は己をあざ笑うかのようにして、息を吐いた。 自分はいつの間にか傲慢になっていたのだろう。
 スイッチが見えるだけだというのに、人の弱みや本音を知った気でいた。それがおそらく潤をいつでも強気に見せていただけだ。

「だが、その方が人間らしくていいな」

 杉下課長はフッと笑った。
 潤は目をぱちくりと開いた。まさかそんな風に言われるなんて思っていなかったのだ。

「椿、いつもお前は俺の戯言につきあってくれてるからな。 お前も何でも言っていいぞ。 それくらい受け止める度量はあるつもりだ」

 杉下課長はそう言って潤の頭をぽんぽんと撫でた。それはおそらく彼のペットにするような手つきだろう。身近なものにするような温かさだった。

 何故こんなにも。

「二人ともなんでそんなに良くしてるのか俺には分かんないです」

 二人はぱちくりと目を合わせた。

「お前は本音で話せる数少ない友人だと俺は思っているが」
「俺もそうです」

 潤は俯いた。

「その本音だって、ちゃんとしたきっかけがあったわけじゃないじゃないですか。 ただ、いつもあなたたちがしゃべっていた事を俺は聞いていただけです」

 きっかけはスイッチを押したことだ。けれど、二人にはそんな事は分からない。
 潤は二人が意気揚々と自分の好きなものを語るのを聞いていただけだ。自分がスイッチを押す事で彼らにそうやって変化をもたらす事が面白かった。そんな最悪な人間だ、自分は。

「馬鹿だな、椿。 きっかけなんてどうでもいいんだ」

 潤は顔をあげた。

「お前は聞いていただけだというが、お前はいつでも馬鹿にしないで人の話を聞いただろう? それで十分だ」

 杉下課長はまるで子供に言い聞かせるように潤に言った。
 こんな風に杉下課長がしゃべられるなんて潤は知らなかった。高圧的に、そして攻撃的に人と話すことは得意だと思っていたが。
 まだまだ、潤にだって知らないことはあるのだろう。
 スイッチはその人間のほんの一部の本心しかあらわさないのだから。

 不意にスッと心が和らいだ。
 張っていたものが突然柔軟に伸びる素材に変わったようだった。

「すいません。 俺、もう大丈夫です」

 顔をあげると、杉下課長も加村もホッとした表情で潤を見ていた。
 杉下課長はきっかけなんてどうでもいいと言った。

 そうだ、スイッチなんてどうでもいいんだ。

 自分は人生の重きをスイッチに置き過ぎていたのかもしれない。けれど、人は本来そんなものなど無くても、人と本音で語り合える。
 聞いて、受け取って、また聞いて。
 それを繰り返して、本音で語り合える人を見つけていくのだろう。

「俺、赤澤としゃべります」

 潤がそう言うと、加村は不思議そうな顔をした。「なんで赤澤さん?」と聞こうとしたのだろうが、杉下はそんな加村の口を塞いで立ち上がった。

「月曜は会社に来いよ」

 杉下課長がそう言うと、潤は強く頷いた。その瞬間、呼び鈴が鳴った。

 ピンポーン

 三度目の呼び鈴。もう潤を訪ねてくる人間の心当たりなど一人しかいなかった。

「お? 先に向こうから会いにきたみたいだぞ?」

 杉下課長は悪戯っぽく笑った。
 潤は困ったように笑ってから玄関へと向かった。潤がパタパタと走っていく中、杉下課長はかばんを持って、加村を引き連れる。
 潤が玄関の扉を開けると、そこには案の定、赤澤が立っていた。
 赤澤は潤を真正面から睨み、潤が何か言うより先に「入るぞ」と靴を脱いだ。

 赤澤は一歩中に入ると、杉下課長に気づいたようだ。「なんであなたが?」と聞くと、杉下課長はフッと高圧的に笑った。これぞ杉下課長の本領発揮と言った笑い方だった。

「本人に聞けばいいじゃないか」

 目を細めて笑う杉下課長を赤澤は睨みつけた。
 火花がバチッと鳴ったかと思いきや、杉下の後ろから加村が顔を出すと赤澤は顔を緩めた。

「なんだ、加村もいたのか」

 杉下課長がプッと笑うのを赤澤はじろりと睨む。加村は杉下課長の横に並ぶと赤澤の目を見た。

「赤澤さん、椿さんをよろしくお願いしますね」

 加村がそう言うと、赤澤は口を尖らした。

「……分かってるよ」

 一呼吸置くと、杉下課長がやっと足を動かした。
 課長は加村の背を押して、そのまま玄関から出て行った。加村が一度だけ、潤の方を振り返ってお辞儀をした。
 潤は加村に小さく笑みを浮かべて一度頷いた。

 そして。

 残った赤澤と潤。二人だけで対峙する。
 赤澤はまるで金剛力士像のような顔で潤を見つめていた。

「椿、なんで俺の事避けてたの」

 長い沈黙の果てにそう言われて、潤は目を俯かせた。けれど、先ほどの杉下課長との言葉を思い出して、もう一度顔をあげる。
 自分は赤澤と本音で語り合わないといけないのだ。

「ごめん、俺……赤澤の本音が分からなくなって。 というか、本音が分からないことが怖くなったんだ」

 言葉を選びながら、それを告げる。
 赤澤は潤の言葉にいらついた様子で眉の端を吊り上げた。

「はぁ? お前ってなんなの、一体。 人の本音なんてそんなすぐに分かるもんじゃないだろ。 目に見えるもんじゃないんだから」
「……そうなんだけど」

 今まで潤はそれをスイッチで判断していたのだ。けれどスイッチがいつもと違う動きをした時、全てが疑わしくなってしまった。
 赤澤ははぁっと長いため息を吐いた。その様子をビクビクしながら潤は赤澤の表情を伺った。

「俺は正直お前の本音なんて分からなくてもいいよ」

 赤澤はそう言ってのけた。
 潤が赤澤を不思議そうに見つめると、赤澤は挑戦的に潤に視線をぶつけてきた。

「だってまずは俺の気持ちが先なんだから」

 潤が意味が分からないといった表情で見つめると、赤澤は続けた。

「お前が俺の事嫌いって言っても、俺は好きだって言い続ける。 俺の気持ちが先っていうことはそう言うことだ」

 赤澤ははっきりとした物言いをする。潤は心臓を掴まれているような気分になった。

「お前はどうなんだよ」

 赤澤は潤を促した。

「お前の気持ちはどうなってるんだよ」

 真っ直ぐと目に力を入れてそれが潤に届けられる。言い換えれば、脅されているような目つきだった。人が人と真剣に向き合う時、人はこんなにも力強い。
 そんな風に自分も赤澤に本心を伝えられたらどれだけいいのだろう。
 スイッチとか他のものにすがらないで本心を伝えると言う事がどれだけ難しいか。

 そんなことを考えながら、潤は必死に言葉を紡いだ。

「赤澤、俺、お前の事が好きだ……」

 必死の言葉はそれでも小さかった。赤澤にちゃんと届いたか不安になるほど。

「……だから俺のこと、これからも好きでいて」

 そう言った瞬間、潤の目から涙がこぼれた。

 スイッチが見えない人たちはこんなにもまぎらわしくて面倒なことをしているのか。本心が分からずに苦しい霧の中を進みながら、それでも自分の気持ちを伝え続けるのか。
 それってどれだけ難しく大変なことなのだろう。
 けれど、それ以上にどれだけ尊いことなのだろう。

 赤澤は今日一番のため息を吐いた。そして、しゅるしゅるとしゃがみこみ、顔をその大きな手で覆った。

「もう、なんなんだったんだよ。 昨日と今日のお前は。 本当に小悪魔だな、お前」

 言われて申し訳なさが募ると同時に言い訳がしたくなった。

「……お、俺だってこんなになったことないんだからな。 こんなにこれに惑わされる日が来るって思ったことも無かった……」

 言っていて分からなくなった。
 『これに惑わされる』の『これ』って『スイッチ』のことだろうか。それとも『恋愛』のことだろうか。自分でも分からない。
 赤澤はしゃがみこんだ姿勢のまま、潤を見上げた。顔はもう笑っていた。

「はは、椿って意外とチキン?」

 意外も何も、今回すごいチキンぶりを発揮してしまった気がする。それも自分と言う人間を失うくらいの勢いで。

 潤は赤澤に近寄り、自分も同じようにしゃがみこんだ。
 赤澤は口を開けて笑った。そして、肩を引き寄せるとそのままキスをした。

 潤は息をとめながら、その口付けを享受した。息が苦しくなり、やっと唇を放す頃には顔が真っ赤になっていた。
 そんな潤を見て赤澤は声をあげて笑った。

「なんかここってスイッチみてえ。 チューすると椿、真っ赤になるんだもん」

 指先で唇を撫ぜられる。潤は少しだけ口を尖らした。
 人様のスイッチを幾千も見てきた潤だが、自分のスイッチのことは考えたことが無かった。潤に自分のスイッチは見えないけれど、自分だってきっとスイッチはあるのだろう。
 それを皮肉のように言い当てられて、やはり赤澤はすごい奴だと改めて考える。

 けれど、だ。

 スイッチを気にする事はもうやめよう、と潤は思った。

 きっとスイッチは自動で切り替わる事もあるのだろう。今回の赤澤のスイッチだって潤が触れずとも勝手に変わったのだから。自分が彼らの本心を操れるなんて本当にただの勘違いだったのだ。

 祖母だって恋する相手がいなければスイッチが変わらなかったかもしれない。加村だって杉下と出会っていなければスイッチはきっとあんなに簡単に切り替わらなかった。その杉下さえも誰かに彼のペットのことを話したいと思っていなければ、スイッチを押す事はできなかったはずだ。
 結局、スイッチは「彼らの」スイッチなのだ。
 所有権は自分にあるわけじゃなくて彼らにあったのだ。

 だからそんなもの気にして生きていくことは馬鹿馬鹿しいことだ。
 やっとそれが分かったのだ。

「へへ」

 潤がはにかんで笑うと、赤澤は目を瞬いた。数日振りになんだか安心できた気がする。緊張が緩んできた、その瞬間。
 あ、と潤は声をあげた。

「あ、触らないで。 俺、今くさい」

 昨夜、風呂に入っていないのだ。大体服も昨日から同じだし、到底恋人と会うような格好ではなかった。
 潤が赤澤を遠ざけようと掌で赤澤を押した瞬間、赤澤はより近くに潤を抱き寄せた。

「じゃ、一緒に風呂入ろうか?」

 赤澤がにやっと笑った。潤が「えっ」と声をあげると、赤澤は一層楽しそうに笑い始めた。その時、である。

 カチッ

(え?)

 確かに音がしたのだ。
 赤澤のスイッチが切り替わる音だ。
 赤澤の耳元を覗くとやはりスイッチは切り替わっていた。

 もうスイッチの事は気にしないことに決めたのだ。けれど。けれど、だ。

(え? あれ? これって、もしかして……)

「ひゃ!?」

 いきなり赤澤に担ぎ上げられて、潤は妙な声を出してしまった。赤澤は潤を抱えているのにも関わらず、足取りは軽く、真っ直ぐに風呂場の位置を当てて向かっている。

「俺、ちゃんとお前が帰った日、調べたんだぜ? 『男同士のエッチ』」
「は?」
「会社でも我慢するのこらえてしかめっ面だったもんな」

 そう言われてやっと思い当たる。
 赤澤のスイッチの正体。

 それは……。

 潤は顔を真っ赤にさせた。赤澤は鼻歌を歌いながら、潤を脱衣所に降ろした。「俺が脱がしてやる」と言って潤の服に手をかけるのを潤は赤い顔のままポカンと見つめていた。
 ボタンをいじるよりも先に乳首をいじられて、潤は「あ、赤澤」と小さく泣いた。赤澤はそれはそれは楽しそうに耳元で囁いた。

「つばき、本当可愛い」

 赤澤のスイッチの正体。やっと分かってしまった。
 そして分かった所でどうしようもない。

 潤は風呂場でそれを強く思い知ることであった。





おわり



まさかのヤる気スイッチだったっていうオチ。(酷)よくこれで五話かけたな!
written by Chiri(1/5/2011)