キミのスイッチ(2) 「おい、椿。 飯食うぞ」 杉下課長のいつものお声がかかり、潤はしぶしぶと席を立った。杉下課長は先日、デジタル一眼レフのカメラを買ったらしい。それも愛すべきペットの姿を永遠に残す為とのこと。携帯のカメラではついに欲求がおさまらなくなってしまったらしい。 今日も長話を覚悟しないとダメだな、と潤はため息をついた。 「ほら、見ろよ。 この写真」 食堂の奥のボックス席に隠れるように座るなり、杉下課長は胸元からドサっとそれを取り出した。 予想通りの写真。しかも枚数がめちゃくちゃ多い。凝りだすと切りが無い杉下課長の性格を物語っている。確かにそれはポスターやパズルとかで売っていてもおかしくない写真の出来栄えだった。 「わぁ、すごいですね。 プロみたいです」 思わず本音が出てくると、杉下課長は誇り高く胸を張った。 「可愛いだろう〜この次郎坊なんて、特に!」 と指差したのは茶色の毛並みをしたハムスター、通称次郎坊がひまわりの種を銜えて振り向いた瞬間の写真だった。 「へぇ、本当可愛い」 だろう? だろう? とせっついてくる杉下課長はまるで子供のようだ。頭のボタンスイッチがピカピカと光っている、彼のスイッチは電源が入ると赤く光るのだ。 潤からしてみると例えばパトカーの真似だとかをする子供のように見えてしまう。思わず、フフッと潤は笑いをこぼした。 杉下課長はそんな潤を見て気を良くしたようだ。 「そうか、お前も気に入ったのか」 「え」 「仕方ねーな。 一枚やるよ。 ほら、この一番可愛い次郎坊の写真」 胸元に押し付けられた上で、杉下課長はにっこりと笑った。そうやって上司とも渡り合ってきたのだろうか。有無を言わさない威圧感を感じた。 「あ、じゃ。 ありがとうございます」 写真を神々しいもののように頭の上に上げてお辞儀をするフリをすると、杉下課長は楽しそうに目を細めた。潤は写真をポケットに入れると、「あ、そうだ」とある事を思い出した。 「ん?」 杉下課長が訝しがる中、潤はポケットの奥に手を伸ばした。 ちょうど同じポケットに入っていたのだ。先日、量販店で見つけたボールペン。ボールペンの頭にはのんびりやのハムスターと怒りっぽいひよこのフィギュアが乗っかっている。 「はい。 これ、お礼です」 そこそこ有名なキャラものらしい。ハムスター好きな課長はさぞかし好きだろうと思ってその場で購入してしまった。杉下課長は目を一瞬だけ見開いた。 「これ……を、俺が使うのか?」 杉下課長はまじまじとボールペンを見つめる。好きだろう。好きだろうとも。目は輝いてるし、全神経がそのペンに行っているのが潤には分かる。 それでも躊躇するのはキャラものなんて皆の前で使いたくないなんていう葛藤だろうか。 「是非、使ってください」 潤はにっこりと笑った。できるだけさっきの課長の笑みを真似て。課長は、小さくため息をついて、「……ありがとな」と呟いた。 *** それから翌日、潤に忍び寄る影が。いや、影じゃなく、髪だろうか。 髪の正体である加村本体はツカツカと潤の席まで来ると、切羽詰った様子で「椿さん、ちょっと」と話しかけた。 何かと思って、潤は眉をよせた。加村の様子を察して、打ち合わせスペースに場所を移すと、加村は小さく息をついた。 「どうかしたのか、加村……」 加村は潤の顔を恐る恐る見上げてから、ごくりと唾を飲み込んだ。 「あの、椿さんって杉下課長と付き合ってるんですか?」 「ハ?」 「皆噂してますよ。 だって、課長が椿さんにもらったペンを今までにない優しい顔で眺めてるって……」 おい、杉下。 思わず課長を心の中で呼び捨てにしたまま、潤は硬直した。硬直したまま、加村の目を凝視すると、加村は突然震えた声を出した。 「ひどいですよ、椿さん……課長は俺のヒーローだったのに」 髪の毛の間から覗く赤くなった目元と高くなった声にやっと潤は気づいた。 もしかして自分は間違っていたのかもしれない。自分が押した加村のスイッチは「ミーハーになる」スイッチなんかじゃなくて。 「加村って、……男もいけたのか?」 潤の言葉に加村はカッと顔を赤くした。震えは大きくなって、体が決して大きくない加村を余計小さく見せる。 「ごめん、加村。 俺、課長とはそういう関係じゃないんだ。 本当だよ」 潤のゆっくりと発した言葉に加村はすがりつくように潤を見上げた。 (ああ、俺が押したのは恋するスイッチだったんだ。 また俺は押してしまったんだ、あの時と同じように) 胸に重いものがのしかかって来るのが分かる。それはジワジワと重みを増していって潤の胸を締め付ける。 「なぁ、加村」 加村はピクリと瞬きをした。 「お前は人と接するのが苦手だと言うけれど、想いが強いなら髪の毛を切ろうよ。 一緒に髪屋行こう。 知らない奴らと距離を置く為にその髪はいいかもしれないけれど、それってお前のヒーローとも遠くなっちゃうんだぞ?」 語りかけるように言うと加村は小さく涙声を放った。 大丈夫だよ、加村。だって恋するお前はすごく話しやすかったし、面白い奴だったのだから。 背中を摩ってやると、加村は何粒か透明な涙を落として、深く頷いた。 そんな中潤は加村をみつめながら、心にある情景と照らし合わせていた。潤は昔に恋するスイッチを押した事がある。それは誰よりも近い人のスイッチだった。潤を小さい頃からよく世話してくれた祖母のスイッチだ。 *** 会社というところは情報網がどのように繋がっているか分からないというものだ。その事はある時には恐怖すら与える。 普段、しゃべったことの無い同期の椎木真樹(しいぎ まさき)がまさに今潤の前に立っていた。 給湯室の自販機でジュースを買おうとしたところ、呼び止められたのだ。 曰く。 「椿ってうちの会社の注目株三人を手玉に取っているんだって?」 椎木の言葉に潤は瞠目した。 椎木は同期の中でおそらく一番赤澤と仲が良い奴かもしれない。目つきの悪い奴で普段からして睨みつけているようなので、今は一層怖い。 潤の沈黙を見て、椎木を指折り数えた。 「まず杉下課長との噂がたっただろ? こないだは加村とただならぬ雰囲気でしゃべってた。 最近は赤澤にも手出ししてるなんて。 全くの節操なしだな」 「ちょっとまてまて! なんでそうなるんだ」 まるで潤が男好きで淫乱だとかそんな風に聞こえる。冗談じゃない。 赤澤の友達だからだろうけど、言い方もきつい。本当にこっちが悪い気がしてくるじゃないか。 「俺はただ……杉下課長も加村も前から仲良くなりたくて、自分からしゃべりかけただけだ。 二人とも変な感情なんて無いし、単純に興味本位で話しかけただけだ」 「へぇ」 嘘は言っていないと思う。潤は臆しながらも真っ直ぐと椎木の目を見た。椎木は潤を見おろしながら腕組みした。 「で? 今、赤澤の名前が出なかったのはなんでだ?」 「え」 息を吸って、思考をめぐらす。 しまった、無意識だった。だって、赤澤とはまだそこまで仲良くなっていないし、まだ言わば攻略中というか。 それに、赤澤は二人とは少し違う。杉下課長の時も加村の時も比較的簡単にスイッチが押せたのだ。悪いが少しだけゲーム感覚だった。けれど、赤澤としゃべっていると、会話に翻弄されてしまう。でも嫌な気持ちにはならなくて。 とにかく、先の二人とは何かが違う感じがした。 その事にたった今気づいて潤は首をかしげた。 「……ふぅん、ちょっと安心した」 そんな椎木の言葉が降って来ると、椎木はくるりときびすを返した。給湯室から去る姿を目で追いながら、やっと潤は息をついた。 椎木がこんな風な話題を持ちかけるなんて少し意外だった。普段は無愛想であまり口数の多いタイプではなかったはずだ。友達想いな奴なのだろうか。見かけにはよらないものだ。 そうだ、最初は椎木のスイッチも潤は気になっていたのだ。馬鹿みたいにはしゃいで何もかも口に出すタイプの人間のスイッチは押したいとは思わないけれど、普段から思慮深くしている人間のはどうも押したくなる。心の奥底で何を考えているのかが知りたくなる。 けれど、そんな気持ちも隣にいる赤澤を見て自然と収まったのだった。そうだ、潤は最初に赤澤を見た時からそんな気持ちだった。 その人間のスイッチを押したいという気持ち。 それは、例えばカメラマンが絶好の被写体を見つけたときとか監督が自分の台本にぴったしとあった俳優を掘り出すのに似ていると言った。けれど、最も似ているものが他にあるかもしれない。 今までの人生で一番押してみたいスイッチは赤澤のものだ。 このウキウキもワクワクも高揚感も。全部恋愛に似ている。 next いろんなスイッチがあります。ミステリー。 written by Chiri(12/20/2010) |