キミのスイッチ(1) 椿 潤(つばき じゅん)に突然変なものが見えるようになったのは彼が小学生三年生の時だ。公園の階段から転げ落ち、運悪く頭を三針縫った。そして、麻酔から目を覚ました潤が見たものは……。 スイッチ。 潤の頭を縫った医者の額についたスイッチだった。 「先生、それどうしたの?」 「ん?」 それは例えば家の照明を切り替えるようなスイッチだ。医師はまるで平然とそれを顔に引っ付けている。 「それ」 指を指すと医師は不思議そうに手でスイッチに触れた。 「なんかゴミでもついてるかい?」 ゴミなんてついていないけど、今まさに手で触ってるだろ? スイッチだよ、スイッチ。 医師も看護婦の様子を見ててもどうやら自分の方がおかしいのだと気づくのにそうはかからなかった。スイッチは自分にしか見えないのだ。おそらく頭を打ったせいでどこかの回路が壊れてしまったのだ。当時小学生だった潤はひどく冷静にそれを理解した。 スイッチは何もその医師にだけついているわけではない。いろんな人につき一つ体のどこかについたスイッチが潤には見える。スイッチの種類にもいろんなものがあり、ボタン型のものもあれば、切替式のタイプもある。 そして、それはどうしようもなく目を惹くようにできている。 スイッチというもの。どうしても押したくなる。 潤は昔からボタンやスイッチがあればとにかく押したがる人間だった。一度、地下鉄で非常停止ボタンを押してこっぴどく叱られたこともある。 何故押したと言われても、答えなんていつも一緒だ。 「そこにスイッチがあったから」 そんなわけでひょんなことから、人の体にスイッチがついているのが見えるようになってしまった潤にとって、それは無限に提示されたゲームのようだった。目の前に山があれば大人は登るんだろう? 自分はそれがスイッチなだけだ。スイッチがあれば誰でも押すだろう? なぜならスイッチの存在は押される事によって発揮するからだ。潤はただそれを活用したいと思っているだけだ。 その医師のスイッチを押す事に成功したのは、次の回診の時だ。人差し指でそれを押すとそのスイッチはいとも簡単に切り替わった。 その瞬間。 「まーちゃん、もうちゅかれた」 その場の空気が凍った。医師の下の名前は政人(まさと)である。その場にいた看護婦は光の速度で医師の顔を確認した。 「まーちゃん、もうだめ。 今日は帰りたいでちゅ。 病院大嫌いでちゅ」 「先生!? どうされたのですか」 三十路を過ぎた医師の口から出てくる幼い言葉の羅列。それを見ながら、潤はそれが彼のスイッチを押した事によって生じた事だと理解した。 (何これ、おもしろすぎる) まだ小学生だった潤は驚くよりも悪戯心が刺激された。その医師の変貌振りも見物だったが、周囲の驚いた顔もなかなかのものだった。 その後も潤はいろんな人のスイッチを押し続けた。スイッチを押す事で人間は変わる。いつもは優しいのに怒り出す人、いつもきちんとしているのにやたらと面倒くさがりになる人。 おそらく、だ。 スイッチは隠している自分を引き出すものなのだ。 そう気づいたのは、おそらく祖母のスイッチを押した時だ。 *** そんな潤の特殊性はさておき、潤だって大人に成長する。今ではれっきとした社会人で今年度で今の会社に勤めるのも三年目となった。 潤は一見目立たない容貌だ。眼鏡をとると存外幼い顔になるのは自覚していた。だから、前髪と眼鏡で童顔を隠して生活している。 「よぉ、椿」 社員食堂でカレーを食べていた潤は顔をあげた。 「杉下課長」 営業課の杉下課長だ。まだ二十代であるのにそこそこ大きいこの会社で課長に昇進するのは珍しい。鋭い目線で物事を言う様子は同僚、上司、部下を怖がらせている。だが、仕事に対する評価は公平かつ妥当な為、部下に関しては杉下課長を慕っている者が多い。 とはいってもシステム課の潤とは本来なら縁の無い人物だ。 「向こうで食おうぜ」 杉下課長はクイッと視線を奥のボックス席に向けた。 (またか……) と思いつつも潤は頷いた。 杉下課長は潤がこの会社でスイッチを押した最初の人物だった。 この年になって、潤も不用意にはスイッチを押す事はなくなっていた。例えばあの医師のようなことになると、スイッチを押された当人が世間様に白い目で見られる危険性があるからだ。もちろん潤には影響は無いが、それでも良心の呵責がある。 だからといって好奇心もそれなりにあるわけで。 『この人のスイッチを特別押したい』と思った人物のみ潤はスイッチを押すようになっていた。 杉下課長は会社でも悪名高く、敏腕課長と称されていた人物だ。潤はついつい興味をそそられ、頭のてっぺんにあったそのボタンスイッチを押してしまった。 それ以来。 「もう、本当可愛いんだよ。 うちのハムハム!」 ボタンを押すとその人物の隠れた本性が出る。杉下課長の場合、それは『かわいいもの好き』だった。一度ボタンを押されるとスイッチは緩くなる。潤の前だとおのずと切り替わるようになるのだ。 今も杉下のスイッチは押された状態になっている。 「写メ見るか? 写メ?」 携帯を取り出し、潤に突きつける。 特に見たいものでも無いが、潤はニコニコしながら笑みを浮かべた。 「可愛いですね〜」 「だろ? 右から、太郎坊、次郎坊、三郎坊だ」 「へぇ〜そうなんですか」 「性格もちょっと違うんだぞ。 太郎坊は活発的だし、次郎坊は大飯ぐらい、三郎坊は消極的で触るとプルプルするんだ」 誇らしげに言う杉下課長を見て、潤は心の中で小さくほくそえむ。 (どれだけデキる人間だって人には隠している部分があるんだから) 外見が大人になってもいつまでたっても悪戯心はなくならない。それは人間が誰しも秘密にしている部分を必ず持っているからかもしれない。 「こんなんお前にしか自慢できないからな。 なんでだろうな、俺お前の前でアホみたいに本音言っちゃって」 杉下課長のデレーっとした顔なんてそうそう見られるものではない。そんなのひとえに潤のスイッチを押せる能力のおかげだ。それ以上のものは無いだろう。 潤は自分の能力を嫌った事は無かった。 それは不思議な縁を結び付けてくれる。元来、地味で目立たない潤に不思議な縁を。 「椿さん!」 その後、杉下課長と別れた食堂から戻る階段で不意に大きな声が響いた。潤は心の中で、 (きた) と思った。 潤が振り向くとそこには髪の毛……ではなく、人間が潤のスーツの袖を掴んでいた。 風貌はさながら日本の有名な妖怪漫画の主人公だ。長い前髪から伺うようにのぞくつぶらな瞳。 「何、加村?」 加村真人(かむら まこと)はシステム課、つまり潤の一年後輩だ。内定を打診された時は確かに小奇麗な格好だったと言うが、入社時には既にこの髪型だった。内向的なその性格は悪く言えばメガ暗く、社内で打ち解けた人間もいない。そのせいで加村の素顔を見た人間はこの会社にほとんどいない。 「何、今の? もしかして加村の声?」 「加村の声なんて聞いた事無いって。 知るかよ」 階段周辺にいた社員が加村の出した言葉に反応してざわつく。加村は視線を感じて潤を階段の隅に引っ張った。 加村が声を発する事はめったに無い。それでも加村が潤に話しかけるその理由は。 「今日、杉下さんと何話してたんですか? ねぇねぇ、教えてください」 ああ、やっぱりとため息をつく。 加村は杉下課長の大ファンなのだ。同じ大学出身で五年違う。院生の杉下と少しだけ大学生活を共にしただけの間柄。 そもそもそんなことを知ったのは加村のスイッチを潤が押してしまったせいだ。 加村の背中についていたスライド式のスイッチは大層魅力的だった。普段は何もしゃべらず、素顔さえ見せない加村の隠された本性を知りたかった。顔は長い髪の毛で隠されていても、背中のスイッチは丸見えだ。潤からしてみれば、『頭隠して尻隠さず』状態だった。 スイッチを押してみたら、加村は意外と普通の『ミーハー男子』だった。本当はおしゃべり好きだし、性格も人見知りなだけで接してみるとそんなに困った所は無い。ただ、少し周りが見えなくなることはあるが。 「別におもしろいことはしゃべってないよ。 仕事の話をちょっとしただけ」 「えー、そうなんですか」 がっくしとする加村に杉下課長は本当は無類の小動物好きなんだよと教えたくなる。それでも、言いふらさないのは自分の中の良心がうずくからだ。 スイッチを押すのは自分が知りたいだけのことで、周りに言いふらしたいわけではない。 ただ。 「そんなに好きなら、紹介するのに」 実際システム課と営業課の接点なんてほとんど無い。杉下課長は元はシステム課希望で入社したが、面接の賢い切替しで営業課へと配属された。 「いいんです。 俺、見てるだけで幸せなんで。 ヒーローってそういうもんでしょう」 加村は小さい頃はアメリカで育ったらしい。アメコミが大好きで、スパイダーマンやスーパーマンに憧れて育った。そんなところがきっと根底にあるからミーハーになってしまったのだろうな。 「お前普通にしゃべってるとほんと普通なのにな。 髪の毛切ったらもっと周りと打ち解けるんじゃねーの?」 「えーやですよ。 俺、そういうの本当苦手ですもん……」 髪で隠されている加村の表情に尖った口だけ浮かび上がる。 苦手といいつつも、潤と普通にしゃべれているのだから大丈夫だと思うのだが。勇気を出して杉下課長ともしゃべればいいと思う。杉下課長はできる男は評価するし、加村は人見知りだけれど実績はずば抜けている。 (単純にもったいないと思うんだけどな) 二人のどちらもを知る潤にとってはじれったい話だ。 昼休み後の始業チャイムが鳴り、潤も加村も自席へと戻っていった。 杉下課長と加村。この会社で潤がスイッチを押した人間はこの二人だけだ。 けれど、もう一人。どうしても押してやりたい男が本当はいる。 「椿、こないだ言ってた次期案件の課題洗い出し、今からしようぜ。 会議室とったから」 タイミングよく、声をかけられて潤は頷いて立ち上がった。予約した会議室に潤とその男が二人きり。 赤澤 健(あかざわ たける)。 潤と同期で入社した男だ。 「椿、今日も杉下課長と昼飯食ってたんだって?」 「あ、うん」 「不思議だよな、椿って。 杉下課長にしろ加村にしろ。 椿って目立つ奴を寄せ付けちゃうパワーがあるのかな?」 ぎくりとしながら、赤澤の顔を潤は下から伺った。目があった瞬間、屈託の無い笑顔を向けられる。爽やかだ。爽やか過ぎる。 「さーって、まず課題整理なんだけど」 特にそれ以上その話題を追求するわけでもなく、赤澤は印刷した資料を読み上げ始めた。 もともと営業課で働いていた彼だが営業とシステム課で新しいプロジェクトを立ち上げる際に一時応援という形でシステム課に籍を置いている。同期といえども研修も無くOJTで仕事を覚えるこの会社では、赤澤と接する機会なんて今までほとんど無かった。 最近、潤はじっと彼を観察している。 奴は……。 とにかく何でもできるのだ。 見た目は爽やかだし、身長も高い。スーツはオシャレだし、シャツはいつもピシッとアイロンがけられている。人とのコミュニケーションが上手く、上には謙虚で、下にはリーダーシップがあるように見せている。実際話してみても本当にいい奴で、いやみが全く無く、恋人が現在いないのが不思議なくらいだ。もちろん、彼の残業量を見る限り、プライベートが縮小されてしまうのは仕方ないことかもしれない。 (でも、だからこそ。 押してやりたい) 完璧な人間なんてこの世の中にはいない。誰しも隠したい本音があるはずだ。それを自然と引き出すスイッチ。 赤澤のスイッチは耳の後ろにあった。 最初はどこにもスイッチが無いのかと思って、内心驚いたのだ。耳裏の奥にスイッチを見つけたときはひどく安心したものだ。 それからは、奴のスイッチの虜だ。実際、スイッチを押すまでの日々が一番楽しいともいえる。 それは引越す前に部屋のレイアウトを決めたり、旅行する前に旅行の日程を考える事と似ている。とにかく妄想が先立って、いろんな可能性を見出すのが楽しくて仕方ないのだ。 もしかしたらマザコンかもしれない。いやいや、ロリコンだったりショタコンかもしれない。普段はあんな澄ました顔なのに、家では赤ちゃん言葉を使っているかもしれない。 ニヤニヤ笑いながら妄想していると、不意に手を翳された。 「おぉーい、聞いてるか? 椿?」 ハッとして顔をあげる。 引きつった顔で「聞いてた」と言うと、「嘘付け」と額を叩かれた。胸のうちを暴かれて内心舌打ちをする。 だってこんなにも心魅かれるスイッチなんてめったに無いのだ。 それは、例えばカメラマンが絶好の被写体を見つけたときとか監督が自分の台本にぴったしとあった俳優を掘り出すのに似ているかもしれない。 無意識ににんまり笑うと赤澤がいきなり噴出した。 「ちょ、まじで笑えるんだけど。 言った傍からまた妄想かよ」 「え、は? も、妄想!?」 「違うの? ……やらしー顔してたよ?」 赤澤は潤と目を合わせて、口の端をあげた。少し意地悪な顔はきっと女子たちには逆効果だ。余計にモテる要因になるのだから。 (何コイツ、もうやだ、本当。 男相手にフェロモン出しすぎだろ……) 冷静になろうと心の中で呟くが、動悸は止まらない。ああ、だって好奇心が。すぐにでも押したくなる。そこのスイッチ。手を伸ばせばすぐそこに。手が勝手に触りたいとうずいてしまう。 「なんか椿っていつも楽しそうだよな」 赤澤は手元の資料に手を伸ばした。それを机でコンコンと整える。 潤は目をぱちくりさせて、聞き返した。 「はあ?」 「こう一人でウズウズしてる感じ」 それは潤の真似なのだろうか。赤澤は楽しそうに口を尖らせて、体を左右に揺らす。 「椿って一人っ子だろ? 一人遊びが上手そうだもん」 思わず。 ズガーン! と梵鐘かゴングか何かが頭の中で鳴ったような気がした。 自分はいつでも観察者だった。他の人には見えないスイッチという存在はいつでも潤の妄想を引き立てた。そうこうしているうちに人の仕草や言動を観察して、それを材料に想像するのが潤の趣味になっていた。 けれど、それを……まさか自分がされる方になるなんて。 「そんな風に思われてたなんてな……。 ふぅ、やだな。 そんなことないよ」 取り繕おうとした瞬間に手の内のボールペンが転がる。ゲッと心中で思いながらそのボールペンが転がる先を眺める。赤澤はフッと小さく音を立てて笑った。 「しかもさ、椿ってさ、俺の事よく見てるよね?」 「え」 更に手が固まる。追い討ちをかけている自覚はあるのか、赤澤は楽しそうだ。 「なになに、俺でいつも想像してんの? やーらしー」 「ち、違う」 「やーらしー」 二回も言った! わなわなしながら「やらしくない!」と潤が自分で強く否定するとついに赤澤は声をあげて笑いだした。 (くそっ) 真っ赤に顔の染まった潤はとうとう観念して開き直った。 「赤澤……、そうだよ、俺はお前の事ずっと観察してるんだ!」 会議室で二人きり。涼しい赤澤とやけっぱちで語気荒い潤。 「断言してやる! お前には他の誰にも見せていない恥ずかしい一面がある!」 何よりもそこにスイッチがあるのだからな。 ビシッと赤澤を指差してやる。赤澤はへぇ〜っとくすぐったい返事しか返さない。 「ってか、椿って本当に俺のことそんなにも見てたんだ? なんか嬉しいな」 パカン、と潤の口が開く。それはまるでくるみ割り人形の口が重力でポトンと落ちるよう。 何このやりとり。さっきから負けてばかりではないだろうか。 「べ、別にそこまでちゃんと見てるわけじゃ」 「へぇ、そうなんだ?」 にやにやと笑う赤澤に自分の前調査が間違っていた事を知る。爽やかで言う事なし? そんな馬鹿な。こいつは相当な曲者だ。 潤はずり下がる眼鏡を上げると、ハァっとため息をついた。 「あ」 ふと赤澤の吐息が近くに聞こえる。 「っていうか俺も椿の意外な一面見つけちゃった」 顔をあげた瞬間に、顔から五センチの距離に赤澤の顔があった。赤澤の手が潤の頬に触れる。と思ったら、眼鏡を上に外された。 赤澤は潤と顔をあわせて、目を細めた。 「眼鏡とったら学生」 「ちょ、返せよ!」 これ以上辱めを受けてたまるか、という勢いで手を伸ばす。けれど悲しいかな。手足の長さも奴の方が一回り上だ。 「あれ? 何これ伊達じゃん」 「返せってバカ!」 わざと地味で目立たなくしているんだよ。 ペシッと音がして、眼鏡を取り戻す。無理やり奪ったせいでフレームがちょっとだけ曲がった。 「くそ、お前の裏の顔絶対暴いてやるからな!」 まるで負け戦だ。しかもこの負け犬の遠吠えは赤澤には心地よい歌にしか聞こえないようだ。赤澤は楽しげに口元に笑みを浮かべたままだった。 絶対ああいうのに限ってマザコンとかなんだからな! 「俺には秘密兵器があるんだからな! 覚えてろ」 「ふふ、なんだかんだいってさっきから椿の方が裏の顔を暴かれてるんじゃないの?」 完全に舐めた口調だ。『潤にしか見えないスイッチ』という秘密兵器の存在を赤澤は知らないだろう。気になるだろうに。潤のボルテージは上がるばかりだったが、そこで突然ドライな一言が降って来た。 「さて、仕事やりますか」 「へ」 仕事モードを完全に逸脱していた潤は思わずとぼけた声を出した。赤澤はぷはっと小さく噴出して、その後は何とも無かったように資料を説明しだした。一変して真面目な顔になり、こちとら緊張してしまう。 (え、何今の切り替え。 スマートすぎだろ……。 俺、今最大のヒント出したのに。 いいのかよ、本当に。 会話終了? 後から痛い目見るぞ、おい) まるでスイッチを押したような変わり様だ。けれど、赤澤の耳元のスイッチが切り替わった様子は無い。 そしてそんな風にブツブツ心の中で呟く潤は、なるほどやはり赤澤はできる奴だと改めて思ったわけだった。 next いや、お前仕事ちゃんとしろよ。的なね。 written by Chiri(12/15/2010) |