死んじゃえばいいのに(6) 自分のアパートの部屋で俺は大の字になって寝転がっていた。 学校を、やめた。バイトもだ。 眞澄さんの所に身一つでいけばいいといわれた。それが今の俺に唯一求められていること。 (ああ、そうだ。) その前に胃潰瘍を治せ、とだけ言われていた。 今の俺の体は眞澄さんのものだ。だから言われたことは全て従うしかない。 アパートは今引越しの準備をしているところだ。 眞澄さんの高級マンションで世話になることになったから、そこが次の俺の住処になる。持っていくものは最小限にしなくてはならない。だから大概のものは捨てることになるだろうが。 ズキン 胃が痛くなって、俺は寝転んだ。 動きすぎると痛くなる。だからこうやって休んでは起き上がって、起き上がっては休んでいる。部屋はもう半分くらいは片付いていた。その代わりにダンボールが積み上げられていて、いかにも出て行きますという様子だ。 ピンポーン 突然、呼び鈴が鳴って、俺は体を起こした。 (誰だろう…) 俺を訪ねる人間なんてそうはいないはずだ。大学でもなんだかんだいって親しい友達もできなかった。バイトの人たちは親しげに話しかけてくれるが、まだ家に呼んだことは無い。 家に呼んだことがある人間…それは。 そうだ、逢坂美鶴だ。 「…よぉ。」 一週間ぶりにあった逢坂は、なんだか蒼白だった。 いつもの自信たっぷりの顔はどこにいってしまったのだろう。そう思いながら、俺は逢坂の顔をジロジロ眺めていた。 逢坂は居心地悪そうに「入れてくれないのか?」と聞いた。 俺はハッとして、 「どうぞ。もうほとんど何もないけど。」 と答えて、逢坂を中に通した。 逢坂は部屋に入るなり、更に青ざめた表情で俺を見た。 「…引っ越すのか?」 その通りだったから頷くと、逢坂はくしゃっと顔を歪めた。 「どうかしたのか?」 いつもの逢坂とは違う様子が不安になって、問いかけた。逢坂は俺と顔をあわせようとしなかった。地面を見たまま、呟くような声量で答える。 「…バイト、やめたって聞いた。…学校も。」 ああ、と思う。 きっとフルール・エ・ショコラに行ったのだろう。 俺はもう既にあそこをやめている。急で申し訳なかったが、学校も退学した、と言ったら向こうもなんとなく察してくれた。 きっと逢坂は店長にでも聞いたのだろう。 俺はハァ、とため息をついた。 何でだろう。俺は逢坂に知られたくなかった。 いつのまにか消えていなくなりたかった。 だって…。 会ってしまうと、とまらなくなる。 感情が、とまらなくなる。 逢坂は相変わらず静かに床を見ていた。 けれど、不意にその顔を上げて俺を正面から見てきた。 「…お前はっ!!俺のこと、好きだったんじゃないのかよ!!」 今にも泣きそうな顔をしていた。 「なんでお前、俺とのつながりだったはずのバイトとか学校とかやめちゃうわけ??俺に会えなくなっていいのかよ!!俺のこと、嫌いになったのか!!?なんなんだよ!!」 「なんなんだよって…。」 俺は苦笑した。 なんという自己中な発言だろう、と思った。その反面、そこがこの男の良い所になりうるのかもしれない、とさえ思う。 「借金があるんだ。」 俺の静かな声に逢坂がハッと目を見開いた。 俺はまっすぐ逢坂を見ていて、逢坂も俺をまっすぐに見ていた。 「四千万くらい。結構な額だろ?」 本当は最初、その倍近くあった。けれどそれは母が一生懸命に返してくれたのだ。その身を犠牲にして。 母はいつも父親をゴミクズと呼んでいた。 けれど、実際はゴミクズ以下だったのだ。 ゴミならまだ何も害のあることはしない。捨てられた場所で横たわっているだけだ。けれど、父親は借金を作ってきた。 会社を作る、とかなんとかいって一気にたちの悪い金融で金を借りたまま、すぐにその会社を倒産させた。 そして俺たちに借金をなすりつけて、自分はドロンだ。 最悪な父親だった。 けれど。 「…だから、アンタは…あんなに頑張ってバイトも…。」 合点がいったというように逢坂は呟いた。けれど、逢坂の目は開いたまま動かない。 きっと信じられないんだ。 「大学受けたのは俺の我儘だったんだ。俺もお前と一緒。成瀬教授に憧れてて。でもやっぱ世の中そんなに甘くなかった。借金抱えながら大学に通うなんて虫が良すぎたんだ。」 毎月の借金の利息分、母の入院費、大学の授業料、そして自分の生活費。それらを稼ぐにはバカみたいにバイトを増やすしかなかった。けれど、そのせいで一番したかった勉強が疎かになってしまった。 逢坂は何も言えない様子で俺を見つめていた。俺は口元を軽く上げた。 「…お前に言われて気付いたんだ。こんな、体調壊してまで俺は何していたんだろうって。勉強も大切だけど、結局授業を聞けなかったら意味がないよな。」 一度目は、居眠りをして逢坂に怒鳴られた時。二度目は、倒れたのを助けてもらい心から心配された時。二つあわせて「ああ、そうだな。」と思った。すとん、と意固地になっていた部分がどこかの穴に落ちてピッタシはまった気がした。 無理しすぎたんだ。無理して、本末転倒になっていた。そう気付いた。 「だから、学校はもういいんだ。」 だから…、俺はあきらめることにしたんだ。 ポタン 何かが床に落ちたと思ったら、堰を切ったようにそれが次々とポタポタと落ち始めた。 見上げると、逢坂が涙を滝のように流していた。 「…逢坂?」 俺は焦って奴の名前を呼んだ。 逢坂はこの世と思えない顔でグスグスと泣いていた。 「逢坂!何泣いてんだよ!!」 逢坂は自分の右手で涙を拭くと、未だ潤んだ瞳で俺を見てきた。 「お前は…俺のこと好きじゃないんだな…。」 言うに事欠いてそれか、と思う。 今までの話を聞いていて、そこに帰結してしまう逢坂に笑えてしまう。 (お前って本当すごいな…。) いろんな意味で。 俺が心の中で苦笑している内に、逢坂はますます小さくなっていった。 「俺、ずっとお前は俺のこと好きなんだと思っていた。お前みたいな綺麗な奴が俺に惚れているって事でいい気になって、浮かれてて。お前がそんなに大変だなんて気付いたことなかった。」 逢坂はまるで風船みたいな奴だ。 膨らんだり萎んだりするのがすごく激しい。 この間まではいっぱい空気を詰めて、空に飛んでいってしまいそうなくらいだったのに。 それが今になって、どこかに穴が開いたようにどんどん小さくなっていく。 「俺は最悪だ。俺なんか死んじゃえばいい。いなくなっちゃえばいい。」 逢坂とは思えないような科白だ。 ピューっと穴があいたところから空気が抜けて、抜けて。 最後には抜け殻しか残らない。 それに似た姿を前にも見たことがある。 遠い日の記憶だ。 『郁也、父さん、情けないな?』 母になじられ続けてげっそりと疲れた様子の父親は俺の体をギュッと抱きしめた。 そんな憔悴しきった父親に俺は母親の影響もあったせいで冷たかった。 『本当に情けないよ。』 俺がそう言うと父親は泣きそうに瞳を揺らした。 あの頃は高校生だった。体はそれなりに大きくなっていて、それでもまだ父親の体躯には遠く及ばなかった。 それなのにその父親が俺のような小さな体にすがりつくようにして、抱きしめていた。 慰めてほしいのだ。 借金を作ったのは全部父親のせいだ。 借金取りが来て取立てをしていった。家の中はいろんなものが散乱していて、母がその場でうずくまり泣いていた。 それなのに、父親は慰めて欲しがっていた。 『父さんなんかいなくなっちゃえばいいよな?死んじゃえばいいよな?』 父親は否定してもらいたかったのだろう。 けれど、俺には。 視界の隅で一人泣く母親の姿が見えて 『うん。』 と頷いていた。 『死んじゃえばいいよ。』 言った瞬間、父親の目から生気がプシュッと抜けていく感じがした。 それを無視して、俺は母親の元に駆け寄った。 彼女を慰めるために。 そしてその次の日、父親は俺たちの前から姿を消した。 「俺は最悪だ。俺なんか死んじゃえばいい。いなくなっちゃえばいい。」 だから逢坂があの時の父親と同じようなことを言った時、俺は自分でも信じられないような大きな声を出していた。 「ダメだよ!!」 逢坂が目をパッと見開いた。 俺は握りこぶしを作って、それ以上に何かを握り締めようとした。ギリギリと手の神経が伸縮する。 「死んじゃだめだ!いなくなっちゃダメだ!!お前はそんなんじゃないだろ!!もっと自信持てよ!!何、いきなり自信なくしてんだよ!!お前はずっと自信満々でいればいいよ!!だって、俺は!」 俺は。 俺は? 俺はずっと見ていた。 ストーカーとかじゃなくて。ただ、父親に似ているお前をなんとなく見ていた。 知っているか? 俺は、あんな父親でも、好きだったんだ。 あのとき、あんなこと言ったけど。 最低な父親だと思っていたけど。 いつも仕事や他の事ばかりで俺を構ってくれなかった父親。 けれど、俺と時々遊んでくれる父親は全力で俺の相手をしてくれた。 だから、本当の本当は好きだった。 母さんの手前、いえなかったんだ。 そんな父親に似たお前をどうして嫌いになれるんだろう。 ずっと目で追っていたんだ。 認めるよ。 本当はお前の言うとおりだったんだ、きっと。 いつもお前を目で探していて。 いつのまにか気になっていた。 そして、いつのまにか。 「お前が好きだ。」 出てきた言葉がすっと俺の体に浸透していった。 きっと最初からあったんだ。気付いていなかっただけで。 言ってみたらなんてことはない。 それが答えだったってすんなり気付けた。 逢坂はびっくりした顔で俺を見ていた。 ぽかんと口を開けたまま、それを閉じようとしない。 俺は小さく笑った。 (そっか、そうだったんだ…) 「お前の言っていたとおりだよ。俺は、お前が好きなんだ。だからお前は自信をなくさないでいいんだよ。お前はお前の思ったように生きればいいんだ。」 逢坂は疑うような目線で俺を見つめた。 俺は逢坂に優しく笑いかけた。大丈夫だよって言うように。 「俺たちの道がもう交差することは無いけど、お前はお前の道を行けばいい。俺はお前がそうやって生きていくのを祈っているよ。…俺も俺の道をいくから。」 逢坂は明るい太陽の下で生きればいい。 それがよく似合う男だ。 父親のように…、俺のようにはなって欲しくない。 逢坂は揺れる瞳で俺を見つめて、その後震える声で俺に訊いた。 「…お前はどこにいくんだ?」 俺はそのままにこりと笑ったまま、答えた。 「借金を肩代わりしてくれる人がみつかったんだ。」 それは眞澄さんのことだけれど。 逢坂はその言葉を一瞬信じたような表情をしたけれど、その次の瞬間、眉を歪めた。 「肩代わりって見返り無しでか?」 「そんなに世の中甘くないよ。」 俺はははっと乾いた笑いをした。逢坂の顔が険しくなる。 「じゃ、なんなんだよ!」 「逢坂には関係ないよ。」 ぴしゃりと言いのけたつもりだったが、逢坂は構わずにガシッと俺の肩を掴んで揺らした。 すごい力だ。ギリギリと俺を追い詰める。 「嫌だ!言えよ!!俺がちゃんと安心するように言え!!」 駄々をこねる逢坂に俺は困ってしまった。 「お前、そんなガキみたいな事言うなよ…。」 「嫌だ!!じゃなきゃ離さないからな!!」 そう言われた瞬間、今度は力強く抱きしめられた。鼓動がどんっと音を立ててはねる。 「ちょ、…離せよっ!!」 「嫌だ!絶対どこにも行かせない!!」 身動き一つ取れないほどに固く抱きしめられる。 ふと逢坂の背中が震えているのが分かった。それを見て、俺はふぅっとため息をつく。 本当に、逢坂は…。 「…分かったよ。言うから、離せって。」 俺がそう言うと、逢坂は俺を抱きしめる手を緩めた。俺はそっと逢坂の体躯から逃れて、一歩下がった。 じっと見てくる逢坂の目が痛かった。俺は観念して口を開いた。 「…俺さ、珍しい血液型なんだって。」 「…は?」 「B型とかA型とかそういう普通の分類じゃないんだって。そういうの、稀血って言うらしいんだけど。」 いきなり話題が変わって、逢坂は少し混乱しているようだった。 俺はそのまま続けた。 「そういう稀血から特別な抗体を作り出す研究をしている医師が附属病院で働いていてさ、俺はその手伝いをすることになったんだ。その研究が完成するまでは何年かかっても全面協力するって約束で借金を全額肩代わりしてもらったんだ。」 眞澄さんは研究の為なら金に糸目をつけないタイプの人間だ。 俺の血液は数十万人に一人とかいう特殊な血液らしく、そのためならどれだけでも金を払う、と言っていた。俺をそれを知っていながら、最初は自分で借金を全額返済しようとした。けど、ダメだった。だから眞澄さんの話を今更ながらに受けたのだ。 「…これで満足か?」 俺は再度逢坂に笑いかけた。できるだけ上手く誤魔化した言い方はした。 けれど逢坂には分かったみたいだ。 「っ満足じゃねーよ!お前こそ分かってるのかよ!!それって実験用モルモットにされるってことだろ!?」 ドンピシャに言い当てられた。 思わず俺の口から嘲笑がもれた。 「お前、何、考えてんだよ!俺はそんなつもりであんなこと言ったんじゃねーよ!!俺はただお前に自分の体を大事にしてほしくて…っ!!」 逢坂の言葉がどんどん現実味を失っていく感じがした。 だって逢坂の言葉は正論かもしれないけれど、打開策ではない。俺にどうすることもできないのに、ただ文句を言っているだけだ。それでも逢坂は続ける。 「やめろよ!!そんなこと!!今なら間に合うだろ!!?自分を売るなんて、そんなの、おかしい!!」 「…じゃあ、どうすれっていうんだよっ!!」 爆発したのは今度はこっちだった。 「お前こそ自分の言ってる事分かってんの!?お前、子供だよ!!何も分かんないまま、我儘言ってるだけだよ!!現実はな、そんなに上手く運ばねーんだよ!!」 逢坂は突然の俺の反論に瞠目した。けれど俺は止まれなかった。今まで溜めていたものが全て醜い言葉になって出てくる。最悪だ。最悪だ最悪だ。 「俺はな…っ、もう疲れたんだよ!!バイトも勉強も寝ずにやってて、親の治療費だってバカにならねーよ!!どうあっても金がたらないし!!腹いてーし!!もう最悪なんだ!!もう嫌なんだ!頑張るのも、我慢するのも、もう全部終わりにしたい!!」 言い終わる頃にはポタポタと涙が落ちていた。 (…くそっ、これじゃ、俺も逢坂と一緒じゃねーか…。) 泣いてどうなる問題でもないのに。 子供みたいな癇癪を起こして。本当に最悪だと思う。 俺のあまりの剣幕に逢坂は呆然としていた。 けれど、逆に頭が冷えたみたいで、逢坂はゆっくりと低い声を出した。 「お前の苦しみは俺には分からねーよ。」 「…っ分かってたまるかよ!!」 俺の瞳にはまだまだ爆発寸前の涙が溜まっていた。その歪んだ視野の向こうで逢坂はひどく疲れた顔をしているように見えた。 (俺の逆切れに呆れているんだ…どうせ…) 悔しいなぁ。あー悔しい。 もっと分別のある男のまま、逢坂の前から消えたかった。 逢坂の前だといろんな感情が露になってしまう。 だって俺は本当は学校にいきたい。 バイトだってしたい。 逢坂とまた…笑って話がしたい。 けれどそんなの続けられないのだ。望むだけ無駄なのだ。 目の前にキラキラ光るプレゼントを置かれているのに、それはどうにも手に入るものではないのだ。そんなの悲しいだけじゃないか。 俺はグスグスと鼻をすすると、逢坂は一層厳しい顔をした。 さっきは俺を抱きしめてくれたその手ももう俺に触れようとはしない。 すぐ手を伸ばせば触れられるその距離がひどく遠くにあるように感じた。 「…確かに俺はお前の苦しみが分からない。…けど、今のお前はいろんなことを諦めているだけな気がする。」 「俺が…諦めている?」 そのまま鸚鵡返しにしてしまった。 しかしふと見上げた先の逢坂の顔を見て、俺は総毛だった。 なんていうか、いつもの逢坂らしくない顔をしていた。 とても怖い顔。けれど何かを決心した顔。 それは一種の雄としては最高級に美しい顔だったかもしれない。 「俺は、そういうのは大っ嫌いだ。」 逢坂はそれだけ言うとそのままズカズカと足を動かし、アパートを出ていった。 バタンッと大きな音を立てて扉が閉まる。 俺はそれを呆然とした様子で見送っていた。 (嘘…、今度こそ、嫌われた?) 口元に何故か笑いが訪れる。 「ハハッ…何、期待してたんだろ…。」 あんなに逢坂が怒るとは思わなかった。 少しくらい俺のこと慰めてくれるかと思った。 「ハハ…俺って本当バカだな…。」 そういいながらその場に蹲った。 ジクジクとまた胃が痛み出す。 お腹は痛かった。けど、大丈夫。今までだってこの痛みを一人で乗り越えてきたんだから。 そう言い聞かせながら、自分はなんて孤独なんだ、と再確認した。 まるで世界で自分一人しかいないような気分だ。 その後、逢坂がこのアパートに来ることは無かった。 next 情緒不安定人間・逢坂。二人とも笑ったり泣いたり告白したり怒ったりいろいろ大変。 written by Chiri(10/15/2007) |