死んじゃえばいいのに
死んじゃえばいいのに(5)



「ったく、またやったのか。」
「…すみません。」
病院に行くと、運良く眞澄さんに診察してもらえた。眞澄さんは人気医師なのでいつも忙しい。
眞澄さんは俺を診察しながら問いかける。
「血、吐いたか?」
「朝に少しだけ…。」
「色はどうだった?」
「どす黒い色でしたよ。だから大丈夫だと思います。」
胃潰瘍の場合だと鮮血のほうが危ないと言われている。
眞澄さんは少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫かどうかは俺が決める。そしてお前は大丈夫じゃない。」
「ハハ、そうですね。」
「笑ってないでいいかげんバイト減らせ。自分の体のこと大事にしろよ。」
「…あなたに言われたくないですけどね。」
小さく呟くと、それがばっちし聞こえたらしい眞澄さんは苦笑した。
「この間のバイトはどうだった?」
あの15万のバイトの事だ。
「ひどかったですよ。筋肉抜かれるとか思ってもみなかった。すごく痛かったです。」
「そうか。そりゃ悪かったな。」
俺があの時やったのは治験のアルバイトだった。筋肉の変化を調べるとかなんとかで何回か筋肉の筋を抜かれた。バイトが終わった後も痛いだけじゃなく、自分の体のパーツがどこか足りないんじゃないか、という気になってずっと調子が悪かった。
眞澄さんはいつもレートの良いものから俺に紹介してくれる。ただレートがいいものは総じて体に大きな負担がかかるのだ。治験を受ける前に変な誓約書も書かされる。
「…。」
ふと二人の中に妙な沈黙が降りる。
俺は空気の重さを感じながら、静かに口開いた。
「…眞澄さん。」
眞澄さんは俺と目線をあわすと、片眉をあげて続きを促した。
「…前、言っていた事ってまだ有効ですか?」
俺の質問に眞澄さんがハッとして目を見開く。俺の言ったことを確認するような目つきだ。
「え?お前だって大学に通うから無理だって…。」
「―――大学はやめます。」
眞澄さんがヒュッと息を呑んだ。真意を探るように俺の瞳を覗き込む。
俺は構わず続けた。目はあわせなかった。

「とにかく、俺、決めたんです。」

もう本当に限界だった。
…体も心も。
最初大学に行くと決めたのは自分だったが、それももちそうになかった。
自分の中途半端な覚悟がいけなかったのか。
それとも土台無理な話だったのか…。

「俺、眞澄さんに自分の体、売ります。」

それを言ったら、全てから解放されるような気がしていた。
けれど思ったよりもスッキリしないものだ。俺は小さくため息をついた。
何故か、逢坂の顔が浮かんで消えた。
自分でもよく分からなかった。



***



病院の廊下を歩いていると、最近の病院は自然光を取り入れていて随分明るい雰囲気だな、と思う。
この病院もリニューアルをして、随分綺麗で使い勝手が良くなった。一般病棟の5階までエレベーターで行くと、俺はいつも行く廊下を曲がってとある部屋に行き着いた。
ほのかに暖色に色づけられているそのドアをスライドさせると、俺は中にいる人物に声をかけた。
「母さん。」
ベッドの中にいる人物は半分体を起こしていて、俺の声を聞くなりこちらに振り向いた。
顔には穏やかな笑み。長い入院生活がこういう表情を引き出すようになったが、元はもっときつい顔をした女性だった。
特に父親がいなくなってからの母は鬼気迫っていて、見ていても痛々しかった。
働きすぎたせいで、もともと心臓が弱かった母は過労で倒れた。入院は意外に長引いてしまい、今も尚この大学病院にとどまっている。
「あら、郁也。なんか久しぶりね。」
「たったの二週間くらいだよ。忙しかったんだ。」
「こっちはやることもなくてつまらなくて仕方ないのに、薄情な息子よね。」
俺は笑みを浮かべたまま、ベッドの横にある椅子に腰をかけた。
「ほら、母さんの好きな大福買ってきたよ。」
「え?本当に!!できた息子をもって幸せだわ!!」
「現金だなぁ。」
いつものやり取りなので、特に気にせず大福の包みを開ける。ハイ、といって渡すと母は嬉しそうにそれを受け取った。
「…それで?元気にしてるの?」
言われた瞬間、胃がキリキリと軋んだ。
嘘をつくのはいまだに苦手だ。
(また胃に穴を開けた所だよ…)
とは言えずに曖昧に笑っておいた。母は何も気付かない様子で俺に笑い返した。
眞澄さんには入院を勧められたが、結局断ってしまった。薬をたくさんもらってそのままアパートに帰るつもりだった。

ふと母が突然口を閉ざした。そして言いづらそうにまた開く。
「あの、…お金の方は…大丈夫なの?」
母が入院してからはその話はずっと避けていた。俺が一人でどうにかしなきゃ、と思っていた。結局、どうにもならなかったけど。
「大丈夫だから。母さんは何も心配しないで。」
「…ごめんね。」
俺と目をあわせないで呟く母は気の毒なほど暗い顔をしていた。
学校をやめることは言わなかった。
もともと俺の我儘で通わせてもらっていた。母はそれに対して何も文句は言わなかった。けれどその分のお金を他にまわしたかったのが本当だろう。

母は窓の外を見つめていた。
今日は天気が良いから、青い空が広がっている。そこを何匹かの鳥が群れを為して飛んでいくのが見えた。
「…あの人は。」
表情は見えなかった。
「あの人からは連絡…来た?」
あの人というのは父の事だ。
母は父のことを憎んでいた。父が逃げてから三年間、母はいつも殺すような顔で父の事を語っていた。
それでも最近の入院生活は母を少しだけ穏やかに変えた。
ピリピリしていた雰囲気が若干弱まり、父が蒸発した前の優しくて快活な母に戻りつつある。もちろんそれは表層的な部分だけなのかもしれないが。
それからだ。母がいつも俺が見舞うに来るたびに父のことを聞くようになったのは。今までは俺が父の話題を出すだけでヒステリックに叫んだりしていたのに、だ。
「来ないよ。」
俺は何の感情も込めずに答えた。
母は小さく「…そう。」と答えて、頭を少しだけ下げた。
父がいなくなって、三年間、働き続けた母は次第に病んでいった。
もちろん過労もある。しかし、心の方も過重な生活には耐えられなかったのだ。

「私ね、最近よく思うのよ。」

ぽつりと母が漏らした。

「あの時の私は何故あんなにあの人を責めてしまったのかしら、って。」

父が帰ってくるといつも母は父を口汚く罵った。
『アンタのせいで私達がどれだけ苦しんでると思っているの?!』
『アンタなんか死んじゃえばいいのに!!いなくなっちゃえばいいのに!!』
俺はそんな母と父の喧嘩の元でいつも耳をふさぎながら過ごしていた。
母が感じている罪悪感のことを言うならそれこそ俺にだってそれはあった。
俺のほうが、なんであんな知らん振りをしていたんだろう。できたんだろう。
何故2人をとめようとしなかったんだろう。
「私のせいで、あの人は消えたの。私がひどいことばかりいったから!!」
次第に母の声に熱気が帯びてくる。
こうなるともうとめられないのはもう既に知っていた。
「けど、私は悪くないわ!!あの人のせいで私がどれだけ苦しい思いをしたか!!あの人があんなバカなことをしたせいで、私がどれだけっ…!!」
母が嗚咽を漏らす。
「郁也、私が悪いの?あなたはどう思う?あなたが私を悪いと言うんだったら、きっとそれが答えだと思うの。」
空ろな瞳をした母は俺をそっと見つめた。
(俺に、答えを求めないでよ…)
そう思いながら、俺は実の無い笑みを母に向ける。腹がキリキリと痛んだ。
「ねぇ、郁也?言って。私が悪いの?」
母がもう一度聞いた。
俺はいつもの答えを返した。
「悪くない。母さんは何も悪くないよ。」
そう言うと、母は静かに自分を取り戻す。目に輝きが少しだけ戻る。
「そうよね。私は悪くないわよね。」
ホッとしたように体から力を抜く母を見て俺はもう一度言った。
「悪いのは、あの男だ。母さんは、何も悪くない。」
まるで催眠療法だと思う。
母は自分が悪くない、と言われると安心する。そうしていないと自分を保っていられない。
けれど、それはもしかして自分も同じなのかもしれない。
(俺は何も悪くない…)
こんなに災難がかかるとまるで自分は罰を与えられているのではないかと思う。
けど、俺は何も悪くないはずだ。
母が何も悪くないのと同様に、俺も何も悪くない。
すると、心に平穏が戻ってくる。
まるで呪文みたいだ。

「悪いのは、父さんだ。」

そうでなくてはいけないように、もう一度呟いた。

ああ、お腹が痛いや。





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たいして進展してなくってすみません。
written by Chiri(10/10/2007)