本当のかわいそうな男(2) 塩崎は基本、時計は外さない。 左腕につけた皮のベルトはリストバンドのように太い。それを隠すように更に大きなアナログの文字盤は内側につけている。 会社の人にもよく言われる。そんな付け方、女みたいだぞ。せっかく良い時計しているんだから、外側につけろ、と。 けれど、塩崎はいつもこのスタイルだ。 「塩崎って前、時計嫌いだったのに……」 歩はベッドの上で塩崎の手元を見て呟いた。 「皮って汚れやすいよね? 新しいの、僕が買ってあげようか」 歩は嬉しそうに口角を上げた。塩崎は、眉を顰めた。 「……いらない」 「なんで」 「これがいいんだ」 塩崎が右手で文字盤に触れると、歩は不機嫌そうに口を噤んだ。 「この時計、女からもらったんだ」 「みっともないからこれでもつけときなさいよ」、そう礼子(れいこ)に言われて渡された。もう一年以上前の話だ。 歩は静かに視線を落とした。彼をまとうオーラのようなものが暗く沈んでいく。 「お前のいなかった二年の間に俺にもいろいろあったんだ」 口を閉ざした歩に塩崎は冷たく言い放った。 もう前のようには戻れないんだよ、と強く念を押すように。 ふわふわと花の様な笑顔で笑う歩をもう最近見ていない。彼はこんな仕打ちを受け続けても本当にずっと塩崎の傍にいるのだろうか。いや、傍にいさせないといけない。 歩は視線を時計に向けた。蕾のような口が小さく開いた。 「僕は……別に何を告白されてももう怖くないよ?」 ”告白”という単語に塩崎は視線を鋭くした。一体、お前が俺の何を知っているというのだ、と怒りがこみ上げる。 歩の瞳は二年前と同じ、純粋で無垢な色をしている。ひどい境遇に置いてどんなに彼を汚そうとしてもその透き通った色は濁らない。 「とにかく時計はいらないから」 塩崎はそう一言だけ言うと、寝室から出て行った。パタンとドアが閉じると、歩の作った重い空気からやっと逃げられた気がした。 この時、塩崎は歩が言った言葉の本当の意味を分かっていなかった。 *** 会社帰りに携帯を見ると、礼子(れいこ)からメールが来ていた。 件名:今夜は? こうやって礼子と会うのはもう一年以上経つ。最初に体の関係を持ったのは歩がいなくなって半年後だ。礼子は前の会社の人間だった。 塩崎はハァっとため息をついた。礼子と会う気分ではなかったが、この逢瀬を省くと礼子はきっと怒り狂うだろう。用意していた紙袋を駅前のロッカーから取り出すと塩崎はいつものホテルへと向かった。 自分の足音とリズムが重なる足音が聞こえた。塩崎は眉間に皺を寄せた。 (またか……) つけられていることには気づいていたが、塩崎はそのままホテルへと向かった。 いつもの如く先に入っていた礼子は塩崎が部屋に入るなり、手を上げた。 「ハァイ、塩くん! 待ってたわ」 彼女はご機嫌で塩崎はそれに無意識でため息をつく。ドアを閉めてから、上着を脱いで、右手に持っていた紙袋を礼子に渡す。 「あら? これ、こないだ言ってたエルメスのバッグ?」 「ああ……」 彼女はフフっと頬を膨らませて笑った。 「毎度毎度、高いもんたかりやがって」 恨めしそうに戯言を言うと、礼子は弱みを見せるように香水を掲げた。 「今日は甘い香りよ。 ロータスフラワーの香り。 それとも毎回同じ香りの方が彼は傷つくかしら?」 「さあな」 シュッシュとこれ見よがしに礼子は香水をふりかけ、塩崎の腰に腕をまわした。 「見て、今日の口紅の色」 「下品な赤色だな」 「わざとよ、目立つでしょう?」 そう言いながら、彼女は塩崎のシャツに顔を潜らせた。何度か頬を撫で付けてから、フフッと笑みを零す。 「やだ、シャツ汚れちゃった。 ごめんなさいね?」 分かっていてやっているくせに、よく言う。 塩崎はため息を大きくして、椅子に座った。 「あら? 今日はシないの?」 睨みつけると、礼子は楽しそうに笑った。 「今日もあとをつけられてた」 「あらそう」 彼女はこの話題には一切の興味がなさそうだ。彼女にとってはそんなものだろう。不倫でもあるまいし、後ろ暗いのは塩崎だけだ。 窓の外の闇に覆われた空とそこに映った自分のシルエットを見て、塩崎は深くため息をついた。 それから塩崎と礼子はしばらくしてから、ホテルを出た。塩崎は礼子を先に返すと、狭い路地裏に足を踏み入れた。 足跡がひたひたと追ってくる。 (出るのを待ってやがったのか) チッと舌打ちをする。 塩崎はタイミングを見計らいながら、角を曲がったところで、つけてきた男を背後から拘束した。 「な!? なにす……」 「お前こそ何なんだ、人のあとをコソコソつけやがって」 首を肘で絞めながら、塩崎は男を威嚇した。男は、帽子とサングラスをして、それでもその向こう側の目は驚きふためいていた。 「やめろよ、痛い」 「痛くしてんだよ」 男は情けない声をあげながら、手をじたばたさせた。その力も驚くほど虚弱だ。塩崎は拘束するまでも無いと判断し、手を離した。 突然放された男は勢い余って地面に転んだ。それをしかめっ面で塩崎は見下ろした。 男は野犬のような生意気な目で塩崎を見上げた。 「あああんた、二股してんだろ!」 塩崎は眉をよせた。 「……だからなんだ。 お前には関係ない」 「関係あるさ! あいつは……歩は俺のダチなんだよ!」 男の名前は長田だ。間違いない、歩の友人で、探偵まがいの仕事をしていると言っていた。長田は、歩と別れた二年間で歩にできた友人だ。 塩崎の知らない世界を強調されているようで、存在自体が苛つく。 長田は塩崎をまっすぐに見ながら続けた。 「本気じゃないならアイツをフってやってくれよ! あんたに縛られていてかわいそうだ」 声までキャンキャンと犬のようだ。塩崎は鼻から息を吐き出して笑った。 「あいつは俺のだ」 塩崎がそう言った瞬間、長田の目が据わった。塩崎はそれに気づき、目を細くした。 (こいつ、歩がほしいのか……) 瞬間、めらりと何かが胸の中で炎上する。嫉妬のような生易しい気持ちではない。ただ執着心やら支配欲やらがぐちゃぐちゃに混ざったものを油にして、その火はどんどんと大きくなる。 塩崎は長田の胸倉を掴んだ。 「お前にはあいつのことなんて幸せにできないんだよ」 「は?」 長田の目が大きく開く。 「……あいつは不幸体質だ」 それはずっと思っていたことだ。 二年前、あんなに自分たちは愛し合っていた。それでも、別れるという選択肢を選んだあいつは幸せというものに一生慣れない体質なのだ。歩は”幸せ”なんてものをそもそも求めていないのではないかと塩崎は思うようになっていた。二人のゴールは幸せではないのだ。汚くてドロドロで温かくなんてなくていい、その状態でずっと一緒にいることが重要なのだ。 「途中でとられてたまるか。 ぶっ殺すぞ」 塩崎が切れるような視線で睨みつけると、長田は唇を噛んだ。 「な、……なんなんだよ、お前。 おかしいよ」 長田と視線をあわしたままでいると、長田が先に目を逸らした。 長田はきっと本当に純粋な気持ちで歩に好意を寄せているのだろう。それを思うと塩崎は何故か敗北感すら覚える。 「俺だって……本当はあいつなんて好きにならなきゃ良かった」 奥歯をかみ締めながら、塩崎はそう呟いた。 あいつを好きにならなければこんなに苦しくて厄介な恋をしなくても良かった。 自分をこうしたあいつが憎くて恨めしくて、そして愛しい。自分の中の強い感情は全て歩に向いている。 だから、こんなに胸がいつでも痛いのだろうか。 長田はそんな塩崎を見て「どうかしてるよ、お前」とボソリと言い放った。 *** ピンポーン 呼び鈴が鳴り、歩は立ち上がった。 夜の十二時。まだ塩崎は帰ってきていない。 玄関の扉を開くと、まず足元のハイヒールが目に入った。 「あら? 貴方が歩?」 「え」 やっと顔まで視線が行き着くと、海外で売っているバービー人形のような女性がそこには立っていた。否、顔は派手でも、髪型はストレートな日本人形のような黒髪だ。 そんな彼女の肩には酔いつぶれた塩崎が乗っかっていた。 「これ」 女性はそう言うと、塩崎を歩に引き渡した。 「し、塩崎……?」 塩崎は「んー」と言ってまともに返事しない。顔は真っ赤で、息も酒臭い。女性は腕を組むと、首をまわした。 「もう本当ここまで連れて来るの疲れたわ。 久々に飲んじゃって、こいつ」 初対面のはずだが、女性は歩との距離が近い。 「あんた、こいつのほかに男がいるんだって?」 「え?」 何のことだ、と歩は顔をあげた。女性は視線を流しながら、笑みを浮かべた。 「こいつがイライラして私に当たるのよ。 他に言える人なんて周りにいないからね」 塩崎の顔を覗くが、塩崎は目をつむったままだ。シャツのボタンは上から二つ外されていて、その首筋に見える紅色の痣。 それを見て、スーッと歩の心は冷たくなっていく。 「こいつ、面倒でしょ。 こんな奴、さっさと捨てちゃえばいいのよ。 そしたら、私が面倒みてあげる」 女性の唇がひどく赤く見える。鮮明な赤色。この色は、この間塩崎のシャツについていた色と同じ色。 女性は歩の視線に気づいたようだ。 「この口紅、下品な色で目立つでしょ? 私が選んだの」 フフッと笑う女性に歩は押し黙るしか無かった。 この女性と塩崎は今まで会っていたのかと思うと心のどこかが冷静になっていく。塩崎が言っていた本命の女性とはこの人のことだろう。 塩崎は本当に自分のことなんてもうどうでもいいのだろうか。 塩崎の持つ秘密を明かしてくれないのも本当に歩に話すべきだと思っていないからだろうか。 昔みたいに純粋に愛し合っていたあの頃の塩崎はきっともういない。それを知っていて、自分は帰って来た。全部覚悟をしていた。けれど、覚悟が足らなかったのかも知れない。 どこかで塩崎は自分を一番好きでいてくれているということを疑った事なんて無かったのだ。 もし、本当にこの女性が塩崎の一番だというのなら。 自分はまたここからいなくなるべきかもしれない。 ふと顔をあげると、女性は歩を睨みつけていた。 「私、あんたみたいな奴、だーいっきらい」 あまりにも直情的な言葉に歩は言葉を失った。 「自分だけ不幸みたいな顔しちゃって。 誰がこの二年間コイツを支えたと思ってるのよ。 気分悪いわ」 女性はフンと鼻を鳴らした。歩が何も反論しない所を見ると、「弱虫な男」と捨て台詞を吐き捨て、そのままヒールを鳴らして階段を降りていった。 歩はいなくなった女性にホッと安堵しながら、部屋に塩崎を運んだ。 塩崎をベッドに寝かせると、塩崎は仰向けに寝返りをうった。首についたキスマークの上にはどっぷりと下品な赤色が色づいていて、それを歩はたまらず濡れタオルで落とした。 「塩崎……」 (僕、もう自信がなくなるよ) 塩崎の腕時計を見つめながら、歩はため息を吐いた。塩崎を支えるのは自分じゃなくて、あの女性の方なのかもしれない。 自分よりもおそらく強くて、ゆるぎない女性。 「ん、歩……?」 「あ、塩崎。 起きたの?」 ベッドの中で塩崎が目を薄く開けた。 塩崎は歩をボーっと見つめた。そして眉間に皺を寄せる。 「歩、お前、俺から逃げるつもりか? お前はまた俺を捨てるのか」 「捨てないよ」 目を瞠りながらも、歩は即答した。 「お前が一人で幸せになるなんて許さない。 お前が居ないと、俺は。 お前じゃないと、俺は……」 「ずっと一緒にいるよ」 「またお前だけを好きになるとお前は消えるくせに」 あ、と心の中で歩は頷いた。 自分が残していった傷なのだ、これが。二年前自分がこの男の前から去った事でつけた傷。それをやっと今実感した。 「大丈夫だ、俺だって覚悟して戻ってきたんだよ、塩崎」 歩がそう言うと、塩崎は訝しげに笑った。 「俺はもうお前だけは信じない」 信じないといいつつも一番傍に置いてくれている。それが、今の塩崎と歩の現状。 next 浮気は性根が弱っちい男がするもの。 written by Chiri(7/4/2010) |