本当のかわいそうな男(3) 朝起きると、目の前に歩の顔があった。 すやすやと眠る歩の寝顔は二年前と全く同じ安心しきった顔だ。その頬に手を触れると、まるで安心感が伝わってくるようだ。 「あの頃に戻れるくらいなら」 塩崎は小さく呟いた。 戻りたい。 ただ愛していたあの頃に。あの頃は後ろ暗い気持ちも嫉妬も不安も何も無かった。 昨夜、塩崎は礼子と酒を飲んでいた。いつものように礼子の欲しがっているブランド物のバッグを献上して、それだけで帰るつもりだった。だが、長田とのことが思いのほか塩崎を追い込んでいたようだ。 飲み始めたら、やめられなくなった。 「俺は……相変わらず、弱いな」 自分の腕時計を見やる。寝るときも外さないこの時計を歩は不思議に思わないのだろうか。それとも礼子がプレゼントした時計だから、塩崎が故意に外さないでいるとでも思っているのだろうか。 気分が滅入って外出すると、ふと視線を感じた。 マンションの入り口で長田が塩崎を睨みつけながら、立っていた。その顔は獰猛な野犬そのもので、だが塩崎に近づこうとしないところを見るとこの間の事を単純にびびっているのだろう。 塩崎は自分から長田に近づいた。 「またつけてたのか、このストーカー」 見下して言うと、長田は顔を赤くした。 「ちげーよ! 今日は歩と約束してんだ」 その言葉にいらつきを覚え、塩崎は鼻で笑った。 「じゃ、その約束は反古だな。 俺は今から帰って歩といちゃつくから」 「てんめ、性格わりいな!」 この男と自分のどちらを選べと言えば、歩は間違いなく塩崎を選ぶ。その自信あってこその発言だ。 長田もイライラを隠さない。煙草を吸って待っていたのだろう、吸殻を乱暴に踏み潰しながら長田は口を開いた。 「……あんた、自分だけが不幸だと思ってるだろ、どうせ」 塩崎はピクリと目を瞬いた。 「でも違うんだからな」 長田は暗い笑みを浮かべた。そして、塩崎の左腕を指差した。 「その時計、あいつの前で外してみろよ」 言った瞬間、塩崎は目を見開いた。 初めて、勝ち誇ったような顔で長田は塩崎を見ていた。まるで全てを知っているように雲の上からにたついて自分たちを見ていたのか。 「あいつは驚きもしないぜ、きっと」 「お前……っ」 長田は塩崎から目を外さず、息を吐いた。 長田が探偵の仕事を依頼されたのはさかのぼると半年前。友人の紹介で仲良くなった歩に依頼された内容は驚く内容でもあった。 歩の別れた彼氏の動向。 そこで初めて歩がゲイだったということを知ったが、それ以上に別れたあとの動向を探る程の執着心が歩にあったことも驚かされた。 『彼がさ、幸せならそれでいいんだ。 楽しそうにしてるんだったらそれでいいんだ』 こういう仕事をしていたら妙な性癖、疑念や独占欲から素行調査を依頼する人間に遭遇する。長田はその時ばかりはいつもの仕事の顔で、驚いた気持ちを隠し通したまま依頼を受けた。 塩崎を調べていくうちに塩崎がもう他の女と付き合っていることはすぐに分かった。だがそれだけを報告したら、歩はひどく落ち着いた様子でこう言ったのだ。 『女性とつきあってるかを知りたいんじゃないんだ。 彼が幸せかどうかを知りたいんだ』 それは難しい依頼だ。幸せなんてものは人に推し量れるものではないのだから。 けれど、それを意識しながら彼を調査すると意外にも答えはすぐに分かった。 彼は幸せではない。おそらく、だが。 何か不安に駆られた様子。考える事を放棄した顔。そして、これに気づいてしまったのはほんの偶然だ。いつもは決して外さない腕時計を外した時のこと。 それを歩に報告すると、歩はスッと表情を変えたのだ。 歩は強い男だ。何が彼をそうさせたのかは分からないが。彼がそもそも最初からそこまで強かったかは分からない。だが、彼のハートは長田から見て、強すぎるとしかいいようが無かった。 しばらくして、歩はすぐに塩崎の前へと現れた。どう彼に言ったかは分からないが、一度は去ったあの場所に舞い戻り、擬似的にまた恋人の座に返り咲いた。 もっともそれは、長田から見たら「やめとけばいいのに」と思えるほど愚かな振る舞いだった。 「あいつはお前を守るために帰って来たんだからな」 長田がそう言うと、塩崎は拳を握った。 信じられない気持ちだった。 彼が。 歩がそれを知っていて一緒にいるなんてことは思ったことが無かったのだ。 塩崎の左手首。腕時計の下には大きな横線の傷が一本ある。 二年前の話だ。 歩がいなくなってから、塩崎は自殺を試みた事がある。歩のいない日々は実に無意味だったのだ。 今では愚かな事をしたことを自覚している。だが、もしまた歩がいなくなった時、自分が同じ行動をとらずにいられるかは自信が無い。 それまでは汚い感情なんて一切知らなく、歩を真っ当に愛していた。だが、歩が目の前から消えた瞬間、綺麗だった感情は一転して暗くドロドロとしたものへと変わった。 歩を監禁して、閉じ込めておけば良かった。 もし自分以外の男ができていたらそんな奴は殺してやる。 そんなことをまともに考え始め、自分の黒い感情に押しつぶされそうになっていく毎日だった。歩が自分から消えたのはもしかしたら歩にとって良かった事だったのかもしれないとすら思えるほど。自分が毒を持った蜘蛛だとすれば、そんな蜘蛛は飢え死にすればいい。歩を道連れにしなくて良かったと良心が悲痛な笑みを浮かべて笑う。 そうして、塩崎は一度その命を絶とうとした。 死ねなかったのはただの偶然だ。いつもは帰ってこないマンションの下の住人がその日に限っては一日中家にいて、すぐに風呂場の水漏れに気づいた。長らく人の訪問なんてものを期待していなかったマンションの一室で塩崎は血だらけの左腕を湯船に浮かべていた。そこに下の住人が怒鳴りこんできて、塩崎は幸いにも一命をとりとめた。 礼子とは前々から知り合いだったが、傷口を見られてから距離が縮まった。塩崎の傷を見るなり、礼子は眉間に皺を寄せて「みっともないからこれでもつけときなさいよ」と文字盤が大きくベルトが太いそれを渡してきた。礼子と体の関係を持ったのもその頃で、実際は片手で数えるほどしか彼女とは寝ていない。彼女はまるで母親のように、セックスの間はいつも塩崎を宥めてくれた。それが心地よくての数回だ。実際、歩が現れてからは一度も彼女とは寝ていない。 正直、自分の歩への気持ちというものは重過ぎる。 それを自覚しての行動だ。 最初は香水も口紅も自分で買って、自分のシャツに自分でキスマークや香りをつけていた。大の男が唇にルージュを塗り、自分のシャツにそれっぽい演出をする姿は滑稽だろう。途中からは礼子がおもしろがって参戦するようになった。礼子とは週に一度のペースでホテルで数時間会っていたが、それは恋人同士の逢瀬を重ねているフリをしていただけで実際塩崎と彼女の間には何も無かった。ブランド物はそのフリをしてくれているお礼だった。 本当にバカらしいこんなこと。 けれど、塩崎が一身に彼を愛すればあいつはきっとまた変なことを考えて塩崎の前からいなくなるだろう。 ただでさえ、二年前に逃げられている。それなのにこの二年間で鉄球のように余計に重く固くなってしまった塩崎の愛情なんて到底受け止めきれないに決まっている 一体。 本当にかわいそうな男とは誰なのだろう。 長田がいなくなっても、塩崎はその場に立ち尽くした。朝の光が地面に塩崎の影を落とす。塩崎は微動だにせず、地面を見つめ続けた。 もし、歩が最初から知っていて戻ってきたとしたら。 自分が自殺なんて愚かな事をしたと知っていて戻ってきたと言うなら。 (もう一度俺はまともに歩を愛していいというのだろうか) 棒になった脚をマンションへと向かわせる。家にはまだ呑気にベッドの中で寝たままの歩がいる。 天使の寝顔。何も分かっていない故のこの安堵の表情だと塩崎は決め付けていた。 「んーしおさきー」 にへらと笑う彼はどんな夢を見ているのだろうか。 夢の中でだけでも尽きる事のない幸せの夢を見てくれと。自然と思えて、泣けそうになった。まるで自分があたたかい場所に帰って来たような錯覚がする。 ふと、彼が目を覚ました。いや、違う。寝言だろうか。彼は神に愛された顔で笑った。 「……もう今度は逃げないんだ、僕。 僕は僕の力であなたを幸せにしたいんだ。 二人で幸せになりたいんだ」 ふわりと左腕をとられ、塩崎の腕時計の上に彼はキスを落とした。本当に彼はそれに気づいていたのだろうか。 あの二年間で。 塩崎はとてつもなく弱くなった。今まで知らなかった人間の弱さをまるでつけのように払わされ、それに押しつぶされた。 けれど逆に。 あの二年を経て彼は強くなったのだろうか。 人に甘えるという事はその人間に同じ責任を負わせるという事だ。それは重くて、人によっては逃げてしまいたいと思えるほどの重責だ。 けれど、それを知りつつ歩が帰ってきてくれたというのなら。 自分はもう浮気な男を演じるのやめてもいいのだろうか。 塩崎のどうしようもなく大きくなってしまった愛情を彼は受け止めてくれるだろうか。 頬を転がる涙を気にもせず、塩崎は彼の与えてくれる隙間に自分自身を埋めた。彼を抱きしめながら、安堵の表情で眠る彼にキスを落とす。 「ふふ。 しおさき、やめてよー」 「やめないよ、歩。 もう絶対やめない」 目を閉じたままの歩に唇で触れる。 寝ぼけているのか分からないが、歩は楽しそうにニコニコとしまりの無い顔をしている。 歩の朝が来たら、今度こそ本当に幸せの尻尾を捕まえられる気がした。 おわり 何が書きたかったって自分で口紅塗って自作自演する攻めがただ書きたいだけだった。 written by Chiri(7/4/2010) |