本当のかわいそうな男(1) 二年の空白を経て、ある日帰って来た恋人は泣きながら「ごめんなさいごめんなさい。 でも僕には塩崎(しおさき)しか居ない。 貴方しか好きになれない。 貴方と一緒で無いとこの世界では生きられない」と謝罪の言葉と自己満足の言葉を連呼した。 彼の名前は西野 歩(にしの あゆむ)という。歩はかつて愛を誓った恋人だった。誰よりも慈しみ、誰よりも一番に想っていた。男の恋人がいることを周囲に話すことも厭わなかった。歩を周りに何度も自慢して、周りに見せ付けるように頬や額に口付けを落としたりもした。 そんな歩がある日、手紙を残して消えたのだ。 どんな言い分があるかと思えば 『僕はあなたを一番幸せにできない。 あなたは女性と一緒になるべき人だ』 全く意味が分からない言葉の羅列。 たった一度だ。歩は自分が他の女性に告白されているのを目撃してしまった。それを見た彼は何を思ったのかこの手紙をしたため、次の日には消えていたのだ。 呆気にとられながらも許せないと思った。 大学卒業後は会社に就職したがへまをやらかしてすぐに退職した。その後、一年間浮浪し、やっと知り合いのつてで再就職できた。そうして仕事にもやっと慣れてきた頃だ。もう忘れようと思っていたシルエットが再度舞い戻ってきた。 ……歩だった。 忘れよう忘れようと思ったのに決して忘れられなかった心臓に焼きつけられたその顔は、涙に濡れて世界一かわいそうに見えた。 けれど、それと同時に今までに感じた事の無いような憎しみが芽生えた。 昔のように幸せにしてやろうなんて事は思えなかった。自分はそこまでお人よしではない。ただ、世界で一番不幸にしてやろうと思った。 そんな激情を心に秘めながら、塩崎は彼に答えをあげる代わりにキスを落としたのだ。歩はホッとしたように塩崎に身を預けた。華奢で心もとない軽さの体だ。骨の形がくっきりと見える程にやせ細った体を見ても、彼に優しくしてあげようなんて思えなかった。 ただ一つ。 この体は決して離さない、と。例え、どんなにこの男が嫌だと言ってももう離さないと自分の胸に誓ったのだ。 それは二年間の憎しみと虚無感と行き場の無い愛しさを全て丸めて暗闇に捨てた瞬間だった。 *** 歩は確かに不憫な環境に育った人間だ。 二年前の彼とは何もかも話し合った仲だった。不遇な環境に育った彼を塩崎は何度も励まし、そんな君を愛していると何度も言った。 彼の母親は一人では生きていけないような女性だった。何度も男に頼っては、その庇護下で歩と三人で暮らす。けれど、どこかで必ず見限って「あなたでは私を幸せにできないわ」とある意味高慢な科白を残して歩を連れて男の下から去っていく。それを何度も何度も繰り返すのである。そんな彼女とずっと一緒の生活をしていたせいか、歩は幸せという言葉にとても敏感に育った。 誰よりも幸せになりたいと思っている一方で、彼は彼の母親の一番近くにいながら自分の力では彼女を幸せにできなかったという自責の念があるのだろう。彼は自分の幸せを素直に祈れず、周りの幸せを優先する。そんなしとやかで謙虚な彼は傍目から見ると常にはずれくじを引いている人間に見えた。 それが愛しくて最初は好きになったのに。誰よりも幸せにしたいと真っ当な事を思って彼の傍にいた。 けれど、二年経った今ではそんな彼を見ても、そんな風には思えない。 彼と自分の二人で住むマンションに帰ると、玄関を開けた時点で彼の足音が近づいてきた。 「おかえり、塩崎(しおさき)!」 満面の笑みで迎える彼を見て、フッと塩崎は笑みを零した。 帰宅した時間はもう日をまたいだ深夜二時だ。自分でも分かるようなきつい芳醇な香りを匂わせて、塩崎は敷居を跨いだ。女性用の香水が自分の恋人から香った時のコイツの顔が見たい。 歩(あゆむ)は香りに気づくと、サッと顔の色をなくした。塩崎はそれに気づきながら、歩の口元に自分のそれを当てた。そのまま、口内を弄る。 香りがきっと強く増しただろう。歩は目を瞑って、塩崎のスーツの襟を握った。拳を握り締めながら、彼は小さく震えている。 けれど、彼は言葉を飲み込んだ。拳も翳さない。 それを目を細くして塩崎は見た。 (ほらな、お前はそういう奴だ……) 二年前、歩は女と幸せになれと言って逃げたのだ。そう思っていた彼の考えがそう簡単に変わるはずもない。だから、今も彼の言うとおりにしているだけだ。 彼の心の中なんて手に取るように分かる。 ”他に女がいてもいい”。 ”男の恋人が自分一人ならそれでいい”。 彼の頭の中は本当に馬鹿馬鹿しい思考しか巡らない。その思考こそが自分にとっては憎いというのに。 ダイニングには簡単な夜食が用意されていた。炒め物と和え物一種類ずつ、横にビールが置いてある。フッと笑みを零したまま、テーブルにつきそれを箸でつつく。半分も食べないうちに箸を置くと、歩は悲しそうに口元を結んだ。 「……どこかで食べてきたの?」 「ああ」 言いながら、席を立った。 「もう寝るよ」 塩崎がそう言うと、歩は「うん……」と無理やり浮かべた笑みで答えた。塩崎は歩の首に腕をまわした。 「歩ももう寝ろよ」 「え……でも片付け……」 「明日でいいだろ?」 歩は戸惑いながらも頬を赤く染めた。シャワーも浴びずにそのまま、歩をベッドに連れて行く。塩崎に移っていた薔薇の香水の香りが服を脱ぐと一層に増す。それを知りつつ、塩崎は歩の裸に自分の肌を擦り付ける。 「……ん、ん……塩崎……、好き」 悩ましげに喘ぐ彼の肌を愛しげに撫でる。彼は嬉しそうに頬を緩めた。 「塩崎……は、僕のこと……好き?」 塩崎はフッと息を吐き出した。自分は彼をあざ笑うような笑みを浮かべてるのではないか、と思う。それともその顔は彼にとってまるで愛されているように見える笑みなのだろうか。 「……愛してるよ」 後者のような笑みだと彼は捉えたようだ。彼はふにゃんと表情を崩し、塩崎の手に彼は顔を寄せた。 中に入ったそれを動かすと彼は躍動と共に鳴いた。 「ん…………あ、あ、あ」 彼の汗でしっとりと濡れた顔を撫でる。 彼を溺愛していた頃、塩崎には歩しか見えていなかった。他の女なんてものには興味はなかったし、彼以外の世界に興味を持てなかった。妄信していたのだ、彼の存在を。 けれど、そんなものはただの幻想だと知った。 「し、塩崎……い、いく……」 「ああ」 彼の最奥に自分の分身を穿つと彼は汗を飛ばしながら、声にならない声を発して静かに果てた。肩で息をする彼を眺めながら、塩崎は目を細くした。 「可哀相だな、お前」 「え……」 「俺はお前一人じゃないのにな」 歩は目を見開いた。彼の目の前で、背後にいる女の事を口に出す事はひどいことだろう。ひどい人間だろう、自分は。 だが。 塩崎は引き出しから煙草と灰皿を取り出した。火をつけて、煙を吐き出す。煙は密室の中で天井近くの空気を汚した。 「……お前さ、長田(おさだ)だっけ? 確かダチで私立探偵がいるって言ってたよね? そいつに俺のこと、調べさせてるだろ?」 今夜も女とホテルに入る時に、つけられている気配を感じた。塩崎はそういうものには殊更敏感なのだ。外を歩く時に安らいだ心を持っていた事など無い。だからか、すぐに非日常な空気に気づく。 歩は驚いた表情で、首を横に降った。怯える顔というよりは知らなかった事を頭で整理している顔。 塩崎は眉をよせた。 (本当に、知らないのか……) てっきり、歩が依頼したと思ったのに。 チッと塩崎は舌打ちをした。歩のダチが勝手に調査をしているのだとしたら、それはそれで面倒だ。 塩崎は煙草を灰皿に押し付けた。 「……こそこそ嗅ぎ回ってるそいつに言っておけよ。 歩の他に会ってる女がいる。 そいつが本命だって、さ」 歩は絶望しきった顔で塩崎を見上げていた。 甘い囁きを連ねたピロートークなんてできない。残酷だが、これで正しいのだ。塩崎は、歩を傷つけるためにやっている。 (ひどい顔をしているな) 塩崎は歩の表情を見て、口元に笑みを浮かべた。この顔を見ると、満たされた気分になれる。ホッとどこかで塩崎はやっと安堵できる。 世界で一番不幸せそうな顔。 塩崎は、この顔を歩にさせ続けないといけないのだ。 それは強迫観念のようなもので、使命のようなものだ。歩にとっては知った事ではないだろうが。 next 最悪攻め(笑) written by Chiri(7/4/2010) |