さよならポンちゃん(5)



 あれから3年が経った。

 タイちゃんは中学を卒業すると、迷うことなく就職することに決めた。
タイちゃんもきっとあの家が嫌だったのだろう。この三年間で房恵おばさんは僕が何度夢枕に立って怒ってもタイちゃんをご飯抜きにしたし、いちいち言葉の暴力を浴びせた。房恵おばさんの子供たちは子供たちでそんなタイちゃんを助けることもせず、ましてや一緒になっていじめることもせず、ただ遠くでどうでも良さそうに眺めていた。
タイちゃんが働くと言った時、房恵おばさんも子供たちも誰もタイちゃんを引き止めなかった。ただ、房恵おばさんの旦那さんだけが「中卒なんて世間体が悪くなるんじゃないか?」と明後日の方向の心配をしていた。
 タイちゃんが就職してからいいことがたくさんあった。
 まず最初に、タイちゃんの就職先の新聞会社が僕の山から近いところにある事。
 そして、その就職先の社長さんたちが房恵おばさんよりずっとタイちゃんを家族として扱ってくれること。だからこうやって本当は住み込みはダメらしいのに、タイちゃんを社長さんのおうちに住まわしてくれている。
 社長さんのおうちには社長の奥さんと成司さんというひとり息子がいる。成司さんはタイちゃんと同い年で、けれどちゃんと進学できた高校生だ。
 成司さんは家に同い年の男の子がいるのは嬉しいみたいだ。タイちゃんが空いている時間を見つけては、ゲームに誘ったり、一緒にお菓子を食べたりしている。房恵おばさんのところにいる子供たちとは全然違う。タイちゃんもそんな成司さんという友達ができて嬉しそうだ。房恵おばさんのところに引き取られてタイちゃんはすっかり大人しくなったけれど、最近は少しだけ目に光が戻ってきている。僕がタイちゃんと山で遊んでいた時のあのキラキラした瞳。
 正直、……羨ましい。
 タイちゃんはこの三年間、一度も僕のことがまた見えるようにはならなかった。
 僕は僕なりにタイちゃんの力になろうとしたけれど、そんなのせいぜい木の実や果物をタイちゃんに差し入れるくらいだった。おばさんの夢枕にたって「タイちゃんをいじめる奴はゆるさんぞー」とおぞましい声で何度も唱えたけれど、それだって功を成したことなんて無かった。むしろ房恵おばさんは余計不機嫌になって、タイちゃんに八つ当たりしてしまうこともあった。だから僕は途中でそれもやめてしまった。
 結局、この三年間、僕がタイちゃんの本当の意味での力になったことは無かった。
 暗い顔をしたタイちゃんはきっと誰かと遊びたかったと思う。おしゃべりをしたかったんだと思う。ただ笑いかけてもらえるだけでもよかったかもしれない。けれど、僕はそんな簡単なこともできなくなってしまった。
 何も役に立てなかった。
 側にいる。たった、それだけしか。
 けれど成司さんはタイちゃんと話してあげる。遊んでくれる。触って、落ち込んだときは励ましてあげる。
 そして今まで笑わなかったタイちゃんは照れ隠しをするように俯いたまま、笑う。僕にはずっと見られなかった、あのふんわり幸せになれる笑顔で。

 タイちゃんが笑うようになってから、タイちゃんが遠くなった。僕はそれは何故か嬉しいことなのに少し悲しくなる。悲しくなるって言うのはおかしいな。なんだか、僕が本当にいない存在だってことを思い出すというか。
最近、よく考えるようになったんだ。

 ねぇ、タイちゃん。
 僕は……もういなくてもいいのかな?



***



「あーもう、意味わかんね」
 手に持っていたシャーペンを放ると成司さんが自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
 リビングのテーブルに広げてあるのはおそらく高校でもらってきた宿題の数々だろう。
 そこへ、タイちゃんが夕刊を配り終えて帰ってきた。
「何してるの?成司さん」
「あ、てめ、まだ成司さんなんて呼んでんのか。俺たち、同い年なんだから呼び捨てでいいんだからな」
「え、あ、うん。……成司」
 タイちゃんが照れたように返事をする。すると成司さんも嬉しそうにニカッと笑った。僕はそんな二人を窓の外からそっと見る。これが最近の生活だ。
「それ、宿題?」
 タイちゃんは成司さんの手元を覗き込むと、次の瞬間、うわぁっという顔をした。
「太一、お前こういうの分かる?俺、微分積分とかもう本当ダメ……」
「……無理だよ。僕、昔から馬鹿だもん」
「あのな!俺だって、昔から筋金入りの馬鹿なんだよ!」
「でも僕なんてエックスとかワイとかの辺からもう分かんないし」
「俺だってそれわかんねーよ!」
「いや、僕の方が分かんないって」
 何の自慢か知らないが、何故か二人ともムッとした顔でにらみ合っていた。
 それさえもほほえましい。今までタイちゃんとこんな風に話す人は見たこと無かったから。
「いいな、お前。学校行かなくていいなんて」
「だって僕にはもう勉強いらないし」
 成司さんははぁ〜っと大きくため息を吐きながら、机に突っ伏した。
 それをタイちゃんはフフッと笑っていた。やっぱりにらみ合いなんてフリだけなんだ。今じゃ二人は仲の良い友達だから。
「……なんか、似たような会話昔誰かとした気がする」
 タイちゃんが優しい笑みを浮かべながらそんなことを言う。
 僕は少しだけびっくりした。
「誰かって誰?」
 成司さんが首をかしげながら、聞いた。

 だって、それって僕とした会話だよね、タイちゃん?
 タイちゃんが勉強するの嫌だって言ってたとき、僕たちがした会話だよ。

「さぁ……忘れちゃったよ」

 タイちゃんはそれだけ言うと、また自分の部屋にあがって行ってしまった。
 僕は、自分の存在がまた消えてなくなるような感じがしていた。
 ぽつん、ぽつん、けれど着実に自分の存在が消えていく感じだ。

 タイちゃんには僕があれからずっと見えない。
 けれど、昔の記憶は本当にあったことなのに。
 僕が大切にしている思い出はタイちゃんだって同じようにして持っているはずなのに。
 それさえも、人って忘れてしまうのだろうか。

 それだったら僕は、本当になくなってしまう。
 タイちゃんの中から、僕は完全にいなくなってしまう。

 思い出も存在も。

 僕は無性に悲しくなった。
 ただ見守るだけの存在になるのは難しくて、寂しくて、怖い。





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大人の事情でいきなり3年経ちました。
written by Chiri(8/25/2008)