二人だけの王国(2) お前が好きだ。 妻子ある男は無邪気な顔でそう岬に告げた。 岬は仕方ない人だなぁと思いつつも男の接吻を無言で受ける。 世界はまるで男のものだった。 そう愚かにも信じていた男が好きだった。 岬には無い純真さ、真っ直ぐさを岬はいつも求めていた。その為ならなんでもしようと思っていた。 けれど。 やはりどこにでも矛盾が生じる。 矛盾が生じれば、何もかもが嘘くさくなるものだ。 世界は全て男のものだった。 岬だって男のものの一つだ。 けれど、それでもきっと岬は男の全てを手に入れたいとどこかでは思っていたのだろう。 だから逃げ出した。 何もかもを欲しがる男に嫌気をさして。 いや、嫌気をさしたのではない。それは男の特性だった。 けれど矛盾する自分の想いと男の在り方に絶望して。 全てを許すことなどできないのに、なんで自分がアイツの側にいられるのだろうか? 起きた時、目の前にあった顔はアイツの顔じゃなくて、王様のしかめっ面だった。 王様も自分も何も着ていない姿のままで、ああ、そうだ。王様に抱かれたあとそのまま寝入ったのだ、と思い出した。 海堂は眉間に皺を寄せたまま、岬を見つめていた。 不意にのっそりと頭が動き、岬の瞼にキスを落とされる。 「二度と王様の前で悲しそうに泣くな。」 民が泣くと王様は国の行く末が不安になるらしい。 岬は自分の目元を確かめると確かにそこは濡れていた。 絶望的な夢を見たと思った。けれどその内容はよく思い出せなかった。 何故自分が泣いているかも分からなかった。 「別に泣いてないですよ、王様。」 「いや、泣いていた。何がお前を泣かすんだ?」 聞かれて、岬は息を呑んだ。 咄嗟にアイツの顔が浮かぶ。 けれどアイツがそこまで憎いかと聞かれればそうでは無いと思った。 いっそ嫌いになれればよかったのに、決して嫌いにはなれないのだ。そんな宙ぶらりんで浮いたままの自分の心の方がよっぽど憎かった。 「王様は民を守らねばならないからな。」 使命感に満ちた科白を海堂は言い放った。 岬は守る、と言われて不思議な気分になっていた。守ってやるという言葉は強い者が弱い者を擁護することだ。だから守られる立場にある人間は自分が弱いことを是が非でも自覚しないといけない。だから男が男を守る、と言ったときになんとなく自分は嫌悪感を覚えてしまう。 けれど相手が王様なら。 守られるのは別に悪いことでもないような気がしてくるのだから、とても不思議だ。 何もしゃべらない岬に業を煮やしたのか、海堂は少し不機嫌そうに言った。 「次に泣いたら、ちゃんと言えよ。」 王様は強要するばかりではないらしい。 岬は口元だけで笑みを浮かべた。 「…はい、王様。」 王様の命令は絶対なのだから。 *** 元々、岬の学習能力は高かった。 だから、料理だって最初のあのままではまずいという事は承知していた。 岬は本屋で料理本を立ち読みするなり、インターネットで料理サイトをチェックするなりして着実に料理の知識を増やしていった。 それ以外にする事がなければ案外上達するものだ。 日を追うごとに、献立の品数は増えていき、良い匂いを放つようになっていった。 その事に海堂は驚くようにして岬を傍観していたが、岬は手を休めなかった。 「帰ったぞ。」 今日も王様が定時を大幅に過ぎて帰ってくる。 海堂は台所に近寄ると、岬の背後からフライパンにあるものを覗き込んだ。 「今日の献立はなんだ?」 「今日はチキンソテーとポテトサラダ、あとはベーコンのアスパラ巻きとワカメスープですよ。」 「上手そうだな。」 海堂は鼻歌を歌いながら、風呂へと向かう。 上機嫌に「拾って大正解〜♪」と節に乗せて歌う。それは岬のことだろうか。 岬はそれを背中で聞きながら、大皿に料理を乗せていった。岬は料理は上手くなったが相変わらず盛り付けのセンスだけは皆無だった。これはきっと慣れとは関係ないものなのだろう。時々、海堂が盛り付けだけやってくれるが、その時はとても見栄えがよくなるものだ。 海堂が風呂から上がってきた。そのタイミングを計りながら、岬はテーブルに盛り付けた料理を置いていく。 海堂は相変わらず鼻歌を歌ったままだ。 王国は静かで平和だった。 岬に起きた惨事を少しずつ洗い流すように、時日が過ぎる。 「そうだ。お前にいいものを買ってきたぞ。」 海堂は岬のつくった料理を平らげると、紙袋に入れられていた袋を取り出した。 岬に手渡すと、開けてみろといった。 中にはグレーのストライプシャツとダークカラーのインナー、黒のスラックスが入っていた。 「何ですか?これ?」 「お前にだよ。」 言われて、岬はどうしようと思った。 頭の中でよぎったのはアイツにスーツをプレゼントされた時のことだ。 ヨレヨレになったスーツは結局いろんな思い出と共に捨てた。 こんなものをもらっておいて、結局いつかは捨てる日が来るのだろうか。 それなら、…こんなのいらない。 「結構です。」 そのまま服を袋に戻すと、岬はそれをつき返した。 海堂は不思議そうに問う。 「趣味があわなかったか?」 趣味は良かった。岬に良くあった落ち着いた服装だった。 「本当はピンクのシャツとか着せたかったんだが…。」 「それはもっと嫌です!」 ぎょっとして思わず即答してしまうと、海堂が笑った。 「じゃ、それを着ろ。別に縛るつもりで買ったわけじゃないぞ。」 そんなの分かっていた。 ただ、なんとなく、…着たくなかった。アイツを思い出させられる。 「私は王様の服でいいです。」 そう言うと、海堂は小さく瞠目した。ぽりぽりと首筋を掻く。 「俺のじゃでかいだろう。」 「でかくてもいいです。」 頑なに言う岬に海堂は少し困った顔をした。 「…今度、一緒にどこか出かけようと思ったんだが。」 言われて、あ、と岬が気づく。 「やっぱりちゃんと合っている格好の方がいいだろう?」 岬は口を結んだ。 確かにあの格好であちらこちらに出歩くのは少しだけ恥ずかしい。けれど、できないこともない。現に、買い物はいつもあの格好で行っているのだから。 「…王様のを着ていけばいいです。」 意地になってしまい、結局そう言うしかなかった。 けれど海堂の反応は予想外だった。 海堂は少し嬉しそうに、 「そうか、じゃ仕方ねーな。」 と笑うだけだった。 「ちょっと今は仕事が立て込んでいるから、それが片付いたら一緒に遊びにいこうな。」 いつものように頭を撫でると、海堂は自室にこもってしまった。 それを視線で見送りながら、岬はそっと目を細めた。 最近、王様は帰ってきても仕事をされているようだ。 どうやら海堂は案外重要なポストにいる人間のようだ。 書類の山を持ち帰っては、それと睨みながら、パソコンに何やら打ち込んでいく。タバコとコーヒーは必需品。 岬は海堂が仕事モードになると、コーヒーだけ持っていてそれ以外は足を踏み入れない。 けれどいつも海堂の部屋はざっくばらんにいろんなところにいろんなものが散っていた。これで大丈夫なのかな、と足を踏み入れる度思う。 岬が海堂の部屋にコーヒーを持っていくと、海堂は「ああ、ありがとう。」といってコーヒーを受け取った。 「何か、手伝いましょうか?」 「バカ、会社の重要機密を簡単に見せられるか。」 「でも、どうせ私はヒモですし…。せめてこの部屋を整理するくらいいいでしょう?」 海堂は一瞬だけ岬に探る視線を送ると、 「邪魔するなよ。」 とだけ言って、パソコンに視線を戻した。 海堂もこの部屋の悲惨な有様を良くは思っていなかったらしい。 岬は言われた通り、足音さえもたてずにそこらに散らばった紙を整理し始めた。 データ整理には慣れていた。一つ一つ内容を参照して、まとめていく。 こういう時のためにファイルも既に買っておいたのだ。 「岬、その辺に全文英語で書かれた青い紙無かったか?」 海堂が次に振り返った時には部屋は既にこざっぱりとしていた。 海堂は目をまんまるくして、そこに控えていた岬を眺めた。岬は青い紙をどこぞのファイルから取り出すと海堂に手渡した。 「他に仕事ありますか?」 当然のように聞いてくる岬に海堂は少し鼻白む。 「…お前、他に何ができるんだ?」 「パソコンは使えます。表計算やデータ処理も。あとは英訳、仏訳、独訳とかもまぁできます。」 海堂は今一度目を見開いた。 その場で考え込む仕草をみせると、すぐ近くにあった書類をそのまま岬に手渡した。 「なんです、これ?」 「とりあえずそれを翻訳しておいてくれ。」 中には契約書類が十数枚に渡って入っていた。 「これ、いいんですか?」 明らかに重要機密だ。 海堂は振り返ると、いつもの笑みを浮かべた。 「なんだ、手伝ってくれるんじゃないのか?」 「いえ、手伝いますけど。」 本当にいいのか?という視線を海堂に向けた。 海堂はそんなことどうでもいいように言い放つ。 「早く終わらせて抱かせろ。」 パァっと岬の顔が赤く染まる。海堂はそれに満足するとまたくるりと背中を向けてしまった。 (別に抱いてもらいたくて手伝ったわけじゃないのに…) そう言いたかったが、海堂の緊張の糸を切ってしまってもいけない。 仕方なく、岬はそこにある書類と格闘するはめになった。 情事を終えると、海堂はいつものように岬の額にキスを落とした。 額にキスをするのも、髪の毛をくしゃくしゃに撫でるのもこの男の習慣なのだ。 唇が離れると目があった。 海堂は興味津々な瞳を岬に向けた。 「お前、前にああいう仕事やっていたのか?」 岬は曖昧に頷いた。 「ええ、まぁ。」 昔の話はあまりしたくなかった。 それは海堂にも見て取れたし、海堂も別にどうでもいいとおもった。 大切なのは今ここに一緒にいる事だ。 海堂は岬の後頭部を撫でながら、岬に話しかけた。 「来週の土曜日、一緒に出かけよう。」 海堂の腕の中にいる岬は海堂を見上げた。仕事をしていた時はひどく端正だった顔がにこにこと破顔していた。 「どこにいきたい?」 ウキウキと聞いてくる王様に岬は仕方なさげに笑った。 「私は別に…。王様のお好きなように。」 「そうか?じゃ、どっか上手い店にでも行くか?」 「…はい。」 「外ではくれぐれも王様と呼ぶなよ。」 「……はい。」 一応、王様にも常識と羞恥心があるらしい。 岬は口を一文字に結んだまま、穏やかに笑った。それが余計に心から喜んでいるように見えて海堂は一層に岬が愛しくなった。 そのまま眠りについてしまった岬をキュッと緩く包み込む。 海堂は岬の髪の毛を悪戯にいじりながら、優しく微笑んだ。 NEXT |