二人だけの王国(3) 翌週の土曜日。 海堂は岬をドライブに連れまわした後、都内でも有名なイタリアンレストランにつれていった。 岬は海堂の選んだ小さ目の服を着ていったが、それでも少し大きかった。子供がタキシードを着せられているみたいだ、と海堂が笑うと岬は小さく口を膨らませた。岬が子供のような仕草を他人に見せることは珍しかった。 店に到着して、その外観を眺めると岬は海堂に気づかれないほど小さく息を呑んだ。海堂に促されて車を降りる。 ボワボワと薄暗い店内にフィルムで抑してある光がしとやかに煌く。 店員の男に案内されて堂々と足を踏み込む海堂を岬は心もとなく見つめた。 「どうした?」 岬は顔を強張らせたが、首をスッと振り、静々と海堂についていった。海堂はよく分からない様子で岬を見ていたが、ふとその手を掴んだ。 岬が海堂の顔を見上げた。 「安心しろ。美味い店だ。」 それだけ言ってそのままその手を引いていく。 岬は繋がれた二つの手を見つめた。こんな風に外で人に手を繋いでもらえるなんて思わなかった。 (…繋いでもらえる?) ふと自分の物言いに岬は顔をしかめた。 まるで手を繋いでもらいたがっているような言い方だった。 岬はぶんぶんと首を振ると、次の瞬間大人の顔を作った。一歩先を行く海堂の鋭い輪郭線を追う。 (王様といると、なんかおかしくなる…) 自分は一人の成熟した大人なのに。 まるで人間とは人間と助け合わなければ生きていけない、と誰かが岬に知らしめているようだった。 アイツといる時はいつもピンと張り詰めていた。 背筋を伸ばして、地面に垂直に立っていないとすぐに堕ちていける位置にあった。周りは崖に囲まれていてそれでも座り込んでしまえば足場もろともに壊れていってしまいそうなそんな感じだった。 (アイツと俺は、そんな風にしか愛せなかった…。) 個室に案内される時に、ハッと視線を感じた。ぶるっと背中を震わせて振り返る。 見れば、店の制服を一番に着こなした男が岬を射付くような目で見つめていた。決して睨みつけているわけではないが、慎重に見定めている瞳だった。 (…店長。) 岬は一気に青ざめた。 やばい。 ばれた。 このレストランはアイツによく連れられて食べた場所だった。 アイツは外食することが多く、その度に岬をしもべのように連れまわした。実際、しもべのような役職なのだ、秘書というものは。 アイツはきっと妻子と一緒に食べるよりはよっぽど岬と共に食事をとっていた。妻には気を遣うらしい。その点、岬は下僕なのだから、いつも横柄な態度で接してきた。けれど岬はそれでいいと思っていたはずだった。 当然、店には岬が予約を取ってからいくものだから、店も岬の立場を分かっていた。店長とも何度か話をしたし、何よりアイツはこの店の味を気に入って何度も店長を席に呼んだものだ。 「どうかしたのか?」 青ざめた岬を海堂はすぐに席に座らせた。岬はなんでもないと言ったが、海堂は信じなかった。 「…疲れたのか?」 岬は横に首を振った。口に手を押さえたまま、何も言わない。 海堂は心配そうに岬の顔を覗き込んだ。今までで見たことの無いような怯えた表情だった。 王国に連れて帰らなければ。 海堂は本能的にそう感じた。 ともかくこの乾いた人魚を水に返さなければ、と思った。このレストランは岬を毒にさらしている。 海堂はスクッと立ち上がると岬の手をとった。 「…帰るか?」 俺たちの王国に。 岬はまぶしそうに目を細めながら海堂を見上げた。まぶしそうにしているのではなく泣きそうなのだと気づいたのは次の瞬間だった。 岬が小さく頷くのを見て、海堂はそのまま個室を出ると店員を呼び出した。 海堂が店員と話すのをザワザワした胸のまま見ていると、不意に自分を呼ぶ声が聞こえた。 「岬!!」 その声に海堂と岬が振り返る。 現れた男は長身で質の良いスーツを着こなし、本来ならふわりと飛び跳ねる髪を後ろに流していた。顔はいくらか痩せたかもしれなかった。本来なら鋭利で雄雄しい顔が今はひどく切羽詰っている。 最後に会った時と比べると少しだけ輝きが曇っているように見えた。 (ああ。) 岬はそのまま床にへたり込んだ。 (ああ、見つかった…。) 岬の前に息を肩でしながら現れた男の名前は御神統一郎。 若干29歳で御神グループを統括している人間だ。 「岬、やっと見つけた!」 そう言って、そのまま御神は奪い取るように岬を懐に沈めた。傍でそれを見ていた海堂はそれに驚くと共に嫌悪感を顔中にあらわした。 御神の腕の中で岬が震えた。 「どうしてここに…。」 「店長がここにいるって教えてくれた。」 (…やっぱり) 御神は店長に話していたのだろう。 岬が御神から逃げたということを。 「なんで、逃げたんだ、岬。俺はお前がいなくちゃ…、ダメなんだ。」 「ダメだなんて…。」 「ダメだ、何もかもがダメだ。仕事もうまくいかねーし、小百合はぎゃーぎゃーと喚いてるし、もう何もかもむちゃくちゃだ。」 小百合とは御神の妻のはずだが、御神はそんなものどうでもいいといった風に言い切った。 岬は小百合が突然会社に押しかけてきた時の事を思い出していた。 その日、岬はこの男の前から姿を消すことを決意した。 『アンタなんか死んじゃえばいいのにっ!』 小百合の狂気に満ちた瞳が何度も岬を突き破った。 あらゆる言葉で罵倒された。底辺まで落ちてそこから戻ってこないように。 けれど一番岬を突き落としたのは小百合の言葉なんかじゃなかった。 くぐもったままの声で岬は言った。 「…離して下さい。」 御神が片眉をぴくりと上げた。 ずっと欲しかった。 岬だけを愛していると言う男の言葉。 けれど、もう遅い。 今更もらったとしても炎は消えるし、水は吸収され、果物は腐る。そのままいつもそこにあるなんてものは無いのだ。 不意に抱きしめられていた腕を誰かに無理やり引き離された。 見上げると海堂がブスッとした顔のまま、岬を横に抱き寄せていた。 「岬が離せと言っている。」 御神は引き離された衝撃で一瞬よろめいたが、すぐに体制を立て直して海堂を睨み返していた。その様子を見ることさえ岬には胸に痛かった。 「岬、コイツはなんだ?」 御神の不審そうな目が海堂に向けられる。 王様だった。 岬に平和をもたらしてくれた存在。 太陽よりも確実な眩しさと温かさをくれた。 「今度はコイツに尽くしているってわけか?俺に飽きたらすぐ次の男ってわけか!」 御神は血走った目で岬を睨みつけていた。 岬は俯いたまま、顔を上げられなかった。 「小百合の言ったとおりだな。お前は誰にでもケツを振る売女だったんだな!!」 そう言って、その次の瞬間、我を失った御神はその腕を岬の顔めがけて振り下ろしてきた。 影が顔に降りてくるのを感じていても、岬は動けなかった。 ただ御神のぶつけられた言葉がショックだった。 今は岬を殴ろうとしているこの腕。 この腕に抱きしめてもらえるのが好きだった。 抱きしめ返してあげることも好きだった。 けれど。 岬だって本当は助けてもらいたかった。 あのときの状況が御神にも小百合にも、そして岬にも良くないなんて事は分かっていた。常にどこか心の中で影を宿していて、そこから逃げ出したかった。 助けてもらいたかった。 そして、あの時。小百合が駆け込んできた時。 決してこの腕は岬を助けてはくれない、ということにやっと気づいた。 あの時、小百合は社長室に入るなり、岬を怒鳴りつけた。 「アンタが統一郎さんを誑かしたのね!」 「小百合!」 御神は驚いて小百合の名を呼んだが、小百合にはそれは聞こえていなかった。 小百合は岬の頬に何かを投げつけた。写真だ。 どこで撮られたものかは分からなかったが、そこには御神が岬を抱き寄せているものや口付けしているものが混じっていた。 「この売女!」 小百合はヒステリー声で岬にひどい言葉をぶつけた。岬の体にしがみついて、そこらじゅうを叩いたり、スーツをぐちゃぐちゃにやぶったりした。 「アンタさえいなければ!私も総一もこんな思いをしなくてすんだのに!!」 総一は御神と小百合の子供だった。突然総一のことを出されて岬はその場に立ち竦んだ。 罪悪感が無かったわけではない。むしろ、いつもそのことは胸の奥で息することさえ阻むように突っかかっていた。けれどその気持ちを凌駕するほど盲目的に御神がすきだったのだと思う。自分にあるものを何一つ捨てられないこの御神と言う男が。 「気持ち悪いのよ!!どっか消えて!!アンタなんか!」 顔中爪で引っかかれても、岬は抵抗すらできなかった。 相手は社長夫人だ。手を出せば恐ろしいことになる。それに人を傷つけたことの無い岬にとっては小百合の醜態は胸に痛かった。今まで自分がしていたもののしっぺ返しがついに来たのだ、と心のどこかで思っていた。そして安堵していたのかもしれない。 「統一郎さん!あなたは何なの!!あなたは私を愛してくれているの!?それとも私よりもこのオカマの方がいいっていうの!?」 詰め寄る小百合に御神は一歩二歩と後ずさった。そして後ろ手に机に当たると、ごくりと唾を飲み込んだ。 「もちろん本当に愛しているのは小百合に決まっているだろう。」 偽物の笑顔を張り付かせて御神はそう言った。 その言葉に小百合はわぁわぁと泣き出し、御神の胸に顔を埋めた。小百合の肩をなでながら、御神は動かないままの岬に目をやった。 口だけで言葉を紡ぐ。 『すまない。あとで。』 それが御神としゃべった最後の言葉だった。 岬は無言で社長室を出ると、そのまま姿を消した。 辞表は後で会社に送りつけた。貴重品だけは持って出て行ったので社宅にあるものは全て捨てていいとも書いた。 そしてそんな岬を拾ったのが、海堂だった。 岬に振り下ろされた御神の腕を受け止めたのはその男だった。 「ふざけるな!」 海堂はつかんだ御神の腕を空中に薙ぎ払った。その反動で御神は少しだけ後ずさった。 海堂は岬を御神から隠すように岬と御神の間に立つと、その剣呑な視線を御神に真正面から投げつけた。 海堂の方が御神よりも背が高かったので、見下ろす形となる。 「岬はアンタのことが本気で好きだったんだぞ!俺がコイツと会ったとき、コイツは死にそうな目をして、路地に転がっていた。」 海堂の言葉に御神が言葉を呑んだ。 岬の方を見ようとしたが、海堂が岬を隠す。 「捨てたのはお前の方だろうが。今更、お前に岬を愛する資格なんて無いんだ。」 海堂の言葉に御神の瞳が揺れた。 御神の顔が自然と俯く。岬はそんな御神を海堂の後ろからそっと盗み見た。 御神がそんな風に自信なさげにしているところなんて見たことなかった。いつも子供のように自信に満ちていて、前を向いていた。そんな御神が今は叱られたように体を小さくしている。 「それに、岬はもう…俺が拾った。今更返すつもりはない。」 岬には海堂の顔が見えなかった。喋ると少しだけ動く頬骨しか見えない。海堂がどんな顔でそんなことを言うのかが分からなかった。 突然、ぐいっと手をつかまれた。 海堂はそのまま岬を連れると、無言で店を出て行った。 御神は追ってこなかった。 海堂は何も言わないまま、車を走らせた。 岬は顔を上げられずに膝の上で震える自分の指先を見つめた。海堂に何を言えばいいのかが分からなかった。項垂れた目線のまま、海堂の様子をうかがう。 海堂はイライラとした様子でハンドルを握っていた。 (怒っている?) 海堂が怒っているところなんて知らない。 強引で横柄なところがあると思えば、岬をきづかってくれる所だってある。一見、子供のように見えるけれど本当はその皮をかぶった大人で岬が傷つかないように大きく包んでくれていた。 海堂の優しさは見えにくかった。けれど確実にあった。 それは岬が決して傷つかないように遠まわしに塀を作ってくれるような優しさだった。 先ほど、御神から岬を守ってくれた腕をちらりと見遣る。 自分が求めていたもの。 あのとき欲しいと願ったもの。 それはそこにあるものなのではないのだろうか? 答えはもう、すぐそこにあるような気がした。 マンションに着くと、岬は海堂に強引に引っ張られた。 ガチャガチャと部屋の鍵を開けるや否や、海堂は岬を寝室に押し込んだ。スプリングのきいたベッドに突き飛ばされる。 「…ち、…ちょっとま・・・・・・。」 もう既に何度もされた行為の前兆だった。 けれど逆上した海堂にされるのは初めてだった。 無理やり岬の服を剥いてくる海堂に岬は弱弱しく抗った。 「や・・・王様、やめてくだ…。」 「――王様なんて呼ぶな!!」 理不尽な言葉を投げつけられる。 (最初に呼べといったのは海堂の方じゃないか…) 岬は瞳で訴えたが、海堂は眉間に皺を寄せたまま無視した。まるできこうともしない。 「その口であの男も王様と呼んでいたんだろう。」 (呼ぶかよ!!) 岬は精一杯心の中で突っ込んだが、海堂にそれを聞き入れるだけの理性はなかった。まるで暴走していた。 貪るように胸に吸い付かれた。 「俺のことはチハヤと呼べ。…チハヤだ、分かったな?」 胸の突起を掴まれながらそういわれて、必死に頷いた。 海堂は縋るように岬にしがみつき、あらゆるところ舐め尽した。とろとろに溶かして、何度も岬を鳴かせた。 「岬、岬…、」 「あ………ぁ……ぁ、ぁ、………。」 切なく名前を呼ばれるのを頭の隅で聞きながら、岬は必死に置いてかれないように男の腕に抱きついていた。 激しく揺さぶられ、目の前がスパークしたとき、男の泣き顔が一瞬ちらついた。 本当に男が泣いていたかどうかなんて分からなかった。けれど、それが頭の中に残像として残り、気を失ってからも岬の意識に深く残った。 岬がやっと目を覚ました時、既に日は高く上っていた。 閉ざされたカーテンが薄く日を照らしている。日曜日の正午。外は快晴のようだ。 岬の体は綺麗に拭かれていて、シーツもいつのまにか変えてあった。 まるで爽やかな朝だ。これで昨夜のことがなければどれほど幸せか。 岬が起き上がろうとベッドから出ようとすると、びっくりするほど力が出なかった。 (えっと、昨日結局何回されたんだっけ…?) 考えようとして、次の瞬間やめた。 自分の痴態が鮮明に思い出されて、居たたまれない。岬がはぁっとため息をつくと、寝室のドアが静かにあいた。 長身でガタイの良いはずの男がしゅんと項垂れたまま、部屋に入ってきた。 「…昨夜は、…乱暴して、すまなかった…。」 ぼそぼそと喋る海堂に、岬はこの男をどうしてくれようと考えた。 けれど答えなど最初から決まっていた。考える程のことでもない。もう既に口には笑みが浮かんでしまっている。 「仕方ない王様ですね。」 海堂がぴくりと顔を上げた。 岬の表情に気づいて、なんともいえない複雑な顔をする。 岬が立ち上がろうとすると、腰がくだけて体が崩れた。慌てて、海堂が岬を抱き上げる。心配そうに体を支える海堂に岬は笑った。 岬は海堂の尖った顎を撫でると、そのまま続けた。 「私の王様はあなただけですよ。」 岬の言葉に王様は顔を顰めた。 ひどく疑わしげに岬の顔を覗き込んでくる。どうやらまだ信じられないらしい。 「…ほんっと、仕方の無い人ですね。」 岬は首を伸ばして、王様の頬に口付けをした。 王様は目を一瞬だけ見開いてから、5秒くらい固まった。 そしてその後、やっと事態が飲み込めたのか、緩い笑みを作った。右手で口元を抑えている。 「…まるで天使の福音だ。」 (天使ってまさか俺のこと?) その喩えに岬はハハハッと笑ってしまったが、その顔の浮かべられていたのはまさしく天使の笑顔そのものだった。 その顔を見て、海堂はもう一度謝った。 「昨夜は本当にすまなかった。」 「もういいですよ。」 「お前があの男に抱かれていたと思うと、…止まらなかった。」 嫉妬ですか、と笑いながら聞くと、海堂は素直に頷いた。 その様子がたまらなく可愛いと岬は思ってしまったのだから、全く頭がいかれているとしか思えない。 岬は静かに笑みを浮かべた。 海堂は岬を目を細めて見ていたが、ふと思い立ったように岬の額に海堂のそれをあててきた。 コツン、と骨のあたる音がする。 「岬、頼みがあるんだ。」 「なんですか?」 岬が笑顔のまま返すと海堂は静かに口を開いた。 「俺の専属秘書になってくれ。」 岬がぱちくりと目を瞬く。 「まだ友人と一緒に興したばかりの小さな会社だ。お前も気づいていただろう?俺は一応会社代表だ。」 確かに岬も気づいていた。 書類を手伝った時、見たのだ。あれをサインできるのは会社のトップだけのはずで、そこには海堂の名前が英文字で堂々と書かれていた。 「お前がいれば、もっと会社をでかく出来る気がする。やってくれるか?」 聞かれて、岬は即座に返した。 「私にできることならなんでも。」 一応大手グループの社長秘書を務めていた岬だ。そこらにいる人間よりはよっぽど優秀である。 それに、何より、助けたいと思った。 自分を助けてくれた男を助けてあげたい。助けてもらいたい。 一緒に支えあって、一緒に頑張りたい。 一緒に生きていきたい。 御神と一緒だったときはそう思えなかった。御神の時はいつも岬の一方通行だった。 けれど海堂になら自分の弱いところを支えてもらいたいと思えた。 支えてあげたい、と思えた。 岬は額をくっつけた状態のまま、睦言を交わすように囁いた。 「野心のある王様だ。二人だけの王国じゃ満足できないのですね。」 会社を大きくして。 何百人からなる王国を作る。 その上に君臨する王様に海堂はなりたいのだろう。 海堂は尊大に嘯いた。 「その頃にはお前は王妃だ。」 思わず岬がプッと噴出した。 「世話役の間違いでしょう。」 岬の笑顔に王様は焦れたように唇を奪うと、やっと満悦したように笑った。 おわり 俺様攻めが書きたかったんですが、なんか違う…?またちょっとずれている攻めになってしまいました。王様ってなんだよ… written by Chiri(6/18/2007) |