二人だけの王国(1)



俺のことは王様と呼ぶこと。

それが男が藤壺岬(ふじつぼみさき)に下した最初のお言葉だった。

人気の無い深夜だ。
道路沿いの歩道でスーツ姿のままへたり込んでいた岬を最初に見つけたのは海堂千隼(かいどうちはや)と言う名前の男だった。友人と会社の今後を肴に飲んでいたら帰るのが夜遅くになってしまった。タクシーを拾おうと大通りに出ると、岬が青白い顔でその場で座り込んでいた。
岬はその日、仕事も住む家も恋人もなくした。もう生きることなどどうでもいいいとその瞳が告げていたのだろう。海堂はタバコの煙を吐くと、「来い。」と半ば強引に岬の腕を引っ張り、男の住むマンションへと連れて行った。

「いいか?うちの中で俺のことは王様と呼べ。そんで王様の命令は絶対だからな。」

海堂はそれだけ言うと、岬をその場に押し倒した。
岬はぴくりと目を見開いたが、特に抵抗といったことはしなかった。王様と呼べ、と言われて少々引いたが、よくよく考えれば「ご主人様と呼べ。」と大差無いのではないだろうか。岬はそう頭の中でぼんやり考えながらも、男の好きなようにさせた。

「どうしても嫌だったら言え。優しくしてやる。」

(やめはしないのか…)

岬はおぼろげにそう思ったが、海堂には有無を言わさない雰囲気があった。
つくづく自分はこういう男と縁がある人間らしい。岬は自分の運命をあざ笑ったが、正直もうどうでもよかった。

「お前、名前は何だ?」
「…藤壺、岬、です。」
「そうか。」

それだけ聞くと海堂は「元気出せ、岬。」と言って頭を撫でた。そのまま優しく唇を奪われ、そして貞操までも奪われた。
男に慣れていた自分を海堂はどう思っただろうか?岬には見当もつかなかった。

けれど海堂のたくましい体に翻弄されながら、岬はやっとの思いで涙を流せていた。
今までどうでも良いと思っていたものが、ゆっくりと何かの感情に変わっていく。
何の涙かはよく分からなかったが、…多分。
多分、アレは悔し涙だったんじゃないだろうか。

海堂はそのまま岬を腕に抱いたまま、眠りについた。



***



朝、起きると王様は傍若無人に言い放った。
岬は虚ろな瞳のまま、王様のお言葉を聞いていた。

「いいか、岬?お前をうちで飼ってやる。そのかわり俺の世話をしろ。」

毎日どれだけ遅くなってでも絶対帰ってくるから料理は岬がしろ。まずくても喰うから絶対作れ。
俺は肉が好きだから、肉料理は一品は作れよ。ちゃんと野菜も添えろ。
買い物は近くにあるスーパーで。今日使う分は先に渡してやる。
風呂も沸かしておけ。
夜はまた抱くからな。

「岬、返事は?」
「…ハイ、オウサマ。」
「よし。」

無表情のまま岬の頭を撫でると、海堂は岬に一日分の食料費と合鍵を置いて出て行った。
貧乏暮らしには見えなかった。一人暮らしで2LKなのだから、それなりに金を稼いでいるのだろう。
(俺が悪い奴で、この部屋にあるもん全部盗っていったらどうするんだろう…)
部屋にある薄型テレビやパソコンを見てそう思ったが、どうせ岬にそんな気力があるはずも無い。昨夜までは生きる希望も失っていたのだ。
(とりあえず命令されたことはやろう。)
なんだかんだいって命令には従うというくせがついているのだろう。そんな自分にため息をつきながら、岬はスーパーへと出かけた。
外に出かける時は、海堂の服を無断で拝借した。奴は馬鹿みたいに脚が長いものだから、丈が合わない。仕方なくそのまま出かけたが随分だぼついていて何度か転びそうになった。昨夜まで着ていたスーツはデロンデロンになっていて、あるものないものがくっついてとれなかったりする。どちらにせよ、それよりも前から既にボロボロになっていたものだ。ところどころ引き裂かれていて、ほつれている。しかも岬はもうあの会社には戻れない。しばらくは海堂のマンションでのヒモ生活となりそうだ。
(スーツ、もういらないか…。)
あのスーツはアイツからもらったものだった。
お前が安物着ていたら、俺のメンツが保てないんだよ。
そう笑いながら、有無を言わさず採寸されて、プレゼントされた。まだあの会社に入りたてだった俺にはそのスーツがどれだけ高価なものかなど想像もつかなかった。

ぼぉーっと考え事をしながら、適当に夕食の材料をかごに投げ入れる。
岬は料理なんて滅多にしないものだから、自分が何を作るかもノープランだ。とりあえず牛肉とキャベツだけ買う。後は…。
(まぁ、どうにかなるだろう。)
岬は考えることを放棄した。






海堂は夜の九時くらいに家に帰ってきた。
「ただいま。」
「…おかえりなさい、オウサマ。」
王様と呼ばれて海堂はそれが当然のように笑った。挨拶のつもりか、くしゃっと頭を撫でられる。
とりあえず風呂が沸いていたので、海堂をそちらへと促す。料理の方は盛り付けるだけだ。
エプロンもしないまま、岬はおたまを手に持って、その料理を見つめた。
どう考えても何かを間違えたとしか思えない料理がそこにあったが、海堂はまずくてもいいと言ったのだ。知るか。
潔く、大皿に盛り付けるとそのままテーブルに置いた。

「まずい。」

岬もちょうどそう思っていたとき、男は躊躇もせずにそう言い放った。
「王様にこんなもの食べさせていいと思っているのか。」
(また、王様か)
海堂の言い草に、岬は内心ため息をついた。
「料理なんてしたこと無いんです。」
27年間生きていて、一度もしたことが無いのだからよっぽどだ。社宅にはキッチンなんていうものはついていなくそのかわりに食堂があったし、外食のときは大抵アイツと一緒だった。
「そうか。」
海堂はそれだけ言うと、また無心でその黒こげた肉を食べ始めた。岬もそれに従い、その物体を箸でつまむ。まるでそれが食べていいものだとは思えなかった。
硬そうに奥歯でそれを噛む海堂を見て、岬はやっと聞きたいことを聞いてみた。

「…なんで王様なんですか?」

不思議そうに海堂は岬をじっと見た。そしてなんでそんなことを聞くんだ、という顔をした。
「王様はかっこいいだろう?」
まるで子供のようなしゃべり方だった。
(…変な男。)
そう思いながら、ちょっとかわいいかなぁ、と頭の中で一瞬だけ考えた。あくまでも疑問系だったけれど。
岬は質問を続けてみた。
「あなたが王様だったら、私は一体何なんですか?」
「国民だ。」
ためらいも無く答えられて、はぁそうですか、という感じだった。
「王様は国民を家族のように愛しているぞ。」
モグモグとキャベツを口に入れながら、海堂は続けた。
「二人だけの王国だからな。民は大切にしなくては。」
その言い草にプッと笑いがこみ上げてきた。岬が口元を隠して笑いを堪えていると、海堂は不機嫌そうに口を噤んだ。
「王様を笑うな。」
まるで子供のままごとだった。
けれど岬は残念なことに子供が大好きだった。
子供の心を持った大人も同じように大好きだった。岬はその男を不気味に思うよりもどこからか愛しさが湧き出てしまうような人間だった。

王様は結局、全ての料理を召し上がられた。

岬でも少し残してしまったのに、だ。
海堂は「口の中が苦い。」と少しだけ文句を言うと、岬を真っ直ぐと見てきた。
不意にその目が細められて、口元に笑みが浮かべられた。

「明日も作れよ。」

そう言って、髪の毛をくしゃりと撫でられた。
まるで王様が褒美を呈するように。
岬は俯いた顔のまま、答えた。

「承知しました、オウサマ。」

まだ心の奥からこみ上げる温かい感情につける名前は思い浮かばなかった。


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