猫にキス(1)



「寂しいの?じゃあ、私がそばにいてあげようか?」
傲慢な猫はそう問いかけた。


***


その猫に会ったのは偶然だった。

学校帰り、雨がパラパラと降り始めて、静歌(しずか)はふと空を見上げた。
どよめく雲が黒く濁っていて、「あぁ、これはまだ降るな。」と本能的に思う。
その時ニャァと言う声が聞こえた。

静歌がふと声が聞こえたところに目をやると、黒猫がジッと静歌を見つめていた。
「監視されていたのか…」と思えるほどのするどい目つきだった。けれど、その奥になんとなく寂しさが宿っているのかもしれない、と静歌は思うことにした。

「来る?」

静歌は呟くような声でそう言うが、猫は静歌を見たまま、何も答えない。
静歌は一息だけつくと、猫に背を向けて歩き出した。

後ろは振り返らない。けれどもし。
もしついてきたら、その時はうちに入れてやろう。

静歌は自身を雨に濡らしながら、ゆっくりと歩いた。


***


黒猫が家にいついてから、三日たった。
黒猫はもはや自分の家のようにベッドで居眠りしたり、トイレットペーパーを無限に出してみたり、静歌に食べ物をねだったりした。
三日たつまでは、どうせすぐいなくなるだろうと思い特に何もしていなかったが、三日目にして一度外に出した猫がまた家に帰ってくるとさすがにいろいろと買わなければいけないと静歌は考え込んだ。
ペット用品を一通りそろえてみると、黒猫は嘘のようにそれが自分のものだと理解してなじんでいった。頭の良い猫だ。
黒猫と過ごす時間は不思議と穏やかだった。工作が苦手な静歌が自主的にハンカチと菜箸でねこじゃらしもどきを作ってあげるほどだった。
猫とじゃれながら、静歌は思った。
あぁ、この猫はまるで何でもお見通しのように見える。
実を言うと、静歌は大学二年生にして、まだ大学になじんでいなかった。随分遠くの田舎から独りで出てきて、今も大学に近いアパートで独り暮らしをしている。元々の性格が大人しいこともあり、単純に友達作りが難しかったのだ。
そういうわけで、静歌の大学生活は孤独との戦いだった。
そんな中、静歌は黒猫と出会った。

黒猫の黄色く光った目が静歌にむけて言っていた。

「寂しいの?じゃあ、私がそばにいてあげようか?」

傲慢な目つきだった。けれど、静歌は不思議とそれが嫌ではなかった。

黒猫が寂しかったのではない。
静歌が寂しかっただけだった。



そしてまたその三日後。

静歌の部屋の呼び鈴が鳴った。

また新聞勧誘かな?と静歌は扉を開けると、そこには男が独りたっていた。背格好は静歌と同じくらい、いや静歌よりは少し大きいくらいだった。けれど、静歌が華奢な分、男の方が体積が多いように見えた。
男は静歌をジロリとむくれた顔で睨んでいた。
「あの…?」
「あんたか?星太郎を拉致したのは?」
「ほ…ほしたろう?」
静歌は目をぱちくりさせた。この来客者は何なんだろうか。しかも、ほしたろう…って…。
男は更に顔をむすっとさせて、いきなり靴を脱ぎ始めた。
「え?あの…。」
「どうせ中にいるんだろう!」
「え!ちょっと困るんですけど…!!」
静歌の制止も聞かず、男はズカズカと静歌しか入った事のない部屋にあがりこむ。
そしてそしてたった一間しかないその部屋に入ると、叫んだ。
「やっぱりいた!!」
見ると、男は黒猫を指差していた。
それで、やっと静歌は合点がいった。
「その猫…あなたの猫なの?」
男はキッと静歌を睨んで、大きく一回うなずいた。
「…連れて帰るの?」
無表情のまま静歌がもう一度そう問いかけると、男は当たり前のように答えた。
「もちろんだ、俺の猫だ!」
そう言って、猫を持ち上げようとしたその瞬間…

ガリッ

猫が、その男のほっぺたを引っかいた。

しかも、相当ひどく。

そして次の瞬間、男が噴火した。
「星太郎!!お前、主人の顔忘れたのかーーー!!」
「ニャアアア!!」
一方の星太郎も負けじと唸り返していた。
それを、一体どうすれば、といった風に静歌は傍観していたが、二人(?)の死闘が激しくなっていくのを見て、慌てて止めに入った。
「なんなんだよ!ジャマするな!!」
「ニャアアアアア!!!」
「だって猫、嫌がってるよ。」
「なんだよ、あんたのせいで星太郎はうちからいなくなったんだぞ。」
「それは謝るけど…とりあえず落ち着いて?」
「ニャアアア!!!」
「ハイハイ、猫も落ち着こうね。」
そう言って静歌は星太郎を抱いて、ポイッと遠くにやった。
そして今度は男の傷を負った頬に手をあてた。男は「ッツ。」と痛みを堪えた声を出した。静歌は心の中で(あーあー、痛そう。)と同情する声をあげ、押入れから薬箱を出してきた。
男はそれを見ると、拗ねたようにして静歌の前に座った。
「…ありがとう。」
男が仕方なさそうにその言葉を練りだすのを見て、静歌は小さく笑った。男はそんな静歌の顔を見て一瞬驚いたが、すぐに表情を戻した。
「猫、星太郎っていうんだ?」
静歌が男の頬の傷に消毒液をあてながら、そう問うと、男はチッと舌打ちした。
「そのはずなんだけど。どうやら俺は既に元カノ扱いだよ。」
静歌はそんな男の様子に苦笑しながら、会話を続ける。
「でも、この子、メスだよね?」
「え、嘘!!」
男は驚いた表情を作った。それに静歌も小さく驚いた。
「飼い主なのに知らなかったの?」
「俺だって、こいつを飼ったのは三日間だけなんだよ。」
それなら、どっこいどっこい、いやむしろ静歌の方が長いことになる。だが、静歌はあえてそれを言わなかった。
「で、猫はどうするの?」
静歌は穏やかな声でそう聞いた。自分の意思を上手に隠しながら。
男はうーんっと唸った。豪快に首筋をガリガリと掻く。この男の悩むときのくせなのだろうか。
そして、意思が決まったようにして、一度息を吐いた。
「俺、樫葉慎太郎(かしばしんたろう)って言うんだ。」
「…はぁ。」
「星太郎がまた俺になつくまでここに通うから!!」
「え?」
静歌は耳を疑った。
「ここに…通うの?」
「うん!」
自信満々に答える慎太郎とそれを疑心暗鬼で見つめる静歌。
慎太郎はふと右腕にはめられた時計を見て、「やっべー!!バイト!!」と飛び上がった。
静歌がそんな慎太郎を見上げる中、慎太郎は気にせずに、「じゃ、また月曜学校が終わったらくるから!!」と言って颯爽と去っていった。
扉がバタンと閉じるとともに、星太郎がするりと静歌の膝に入ってきた。そんな星太郎を優しく撫でながら、静歌は少しだけ自分が紅潮していることに気づいた。

こんなにしゃべったの久しぶりかも…。

星太郎はそんな静歌を見てかどうか分からないが、目を細めて小さく「ニャァ」と鳴いた。


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