ネイキッド(9) 久々に黒い手帳を開くと、驚くことに最近のことが一切書かれてなかった。 (あれ……最近、書いてなかったんだ) まめな自分にしては珍しい。黒河に手帳のことを暴かれてから、どこかでこの手帳を開く事を恥ずかしいと思っていたのかもしれない。 久保さんにもらったお菓子。渡したブローチ。 黒河と食べにいった鯛焼き。 佐東にかけられた言葉。黒河にかけられた言葉。 そんなことを徒然に書いていって、ふと気付いた。 いつもはもっと簡単に分かるのだ。 どれが借りで、どれが返したものか。 それが何故か明白になってこないのだ。 ただの事象を書いただけなら、こんなのただの日記と同じかもしれない。 眉に縦皺を浮かべながら、頭を振る。苛苛が止まらなくなって、手帳を乱暴に閉じた。 手帳だけではない。 父とはあれから今だちゃんと話していない。 普通に従来どおりに当たり障りのない会話しかしていない。 何が根本的な解決になるか、を理論的な父は考えているのだろう。自分はそんなことも考えていない。ただ、父がこないだの諍いを忘れてくれればいいのに、とひたすら願っているだけだ。 ベッドに寝転がり、深く息を吐いた。 (うまく行かない) 今までうまく生きれたことなんてないのだけれど。どこかでやはり歯車がうまく回っていないのだ。自分だけが周りと一緒に回れていないのだ。 それが悲しくて、悔しくて、でもどうしていいか分からなかった。 *** 翌日の昼。教室で、久保さんに話しかけられた。 「あの……弐羽君、話があるんだけど」 久保さんの神妙な顔に首をかしげる。後ろで福場と渡部が何かを知っているかのように薄ら笑いを浮かべていた。 不思議に思いながらも、久保さんの後についていく。 誰もいない裏庭で、久保さんは足をやっと止めた。そして、悠貴の方へと踵を返した。久保さんの表情はいつもの穏やかな顔よりもずっと強く、決意した女性の顔だった。 話を終えると、久保さんは最後の言葉を切って走り去った。それを最後まで眺めながら、悠貴は校舎の壁に寄りかかった。 体が固くなっていた。緊張と罪悪感で、コンクリートのようにかちんこちんになった体。 「おい」 ふと、顔を向けると黒河が立っていた。 「くろかわ」 名前を呼ぶ声が自分でも弱弱しくなっていることに気付いた。 なんなんだろう。自分は。まるで甘えるような声だ。 黒河にはそうなるように改造でもされてしまったのだろうか。 「久保さんとつきあうのか?」 黒河は久保さんに呼ばれた理由を知っていたらしい。今思えば、福場と渡部も分かっていたのだろう。 「いや、断ったよ」 「そう」 黒河は悠貴の横に詰めてきた。黒河は静かに金網の向こう側を見ていた。悠貴はしゃがみこんだ。 「やっぱ俺じゃ申し訳ないだろ」 「はぁ?」 え、と顔をあげる。黒河は目を吊り上げて悠貴を見ていた。 「なんでそうなるんだ」 怒気が含まれた言葉。胸が変な風に鳴る。 (何。 なんか変なこと言った、俺?) 黒河がなんで怒っているのかが分からない。 目を泳がせて、周りを見渡す。誰も居ない裏庭で、黒河が息を吸う音が聞こえてくる。 「……俺はお前のそういうところが大嫌いだ」 直接心臓を握られたかと思った。 同じような事を久保さんにも言われたのだ。けれど、黒河の言う言葉は破壊力が倍以上ある。 告白されて、悠貴はすぐにごめんなさいと謝った。そして、他の方法で、今までもらったお菓子のお礼をしたいって言ったのだ。 けれど、彼女は言った。 『つきあってくれないなら何もいらない』と。 そして、『弐羽君のそういうところ、無神経だよ』と。彼女に渡したブローチをつき返して、彼女は走り去った。 自分は何もできないと。自分はここにいても仕方ないのではないかと。そう思い知らされた気がして、どうしようもなく悲しくなった。 「お前は馬鹿だ」 黒河が追い討ちをかける。悠貴は耳をふさぎたい気持ちになった。それでも手が動かない。金縛りにあったように、ただ俯いて彼の言葉を聞いた。 「なぁ、俺はお前の気持ちよりも彼女の気持ちが分かるんだ」 黒河は彼が苦しそうに、呟いた。 「……俺には分かってしまうんだ」 共感してしまうから。そう、小さく拳を握って黒河は言った。 共感。 それは、何かがおかしい悠貴にはできない真似事だった。 手の中の猫のブローチは悠貴にくっきりと痕を残した。 「え、断ったの」 教室に戻ると、福場と渡部に囲まれた。二人とも気付いていたのならそう言って欲しかった。悠貴は唇をかみ締めたまま、席に座った。 「なんだ、悠貴も久保さんのことまんざらじゃないのかと思ってた」 「え?」 「だってプレゼントなんてあげないだろ、普通」 悠貴は福場の顔を見た。 「下心があるかと思ってた」 ハハッと笑いあう二人の中で悠貴はサーッと血の気が引いた。自分が彼女を誘ったように見えたのだろうか。 先に戻っていた黒河は後ろの席にいながら、会話に入ってこなかった。頬杖をついて、窓の向こうを睨んでいる。 悠貴は猫のブローチを撫でながら、目を伏せた。 その時。 「ハハ、結局ふったんだ。 最悪だな、お前」 トゲのような言葉が降って来て、悠貴は目を見開いた。 佐東が笑って、立っていた。 「偽善すらもできてねーじゃん」 ズドンと来た。下心でも偽善でもなく、自分は他の何で彼女に優しくしていたのだろう。 いても立ってもいられなくて、席を立ったその瞬間。 「佐東、てめえ!」 後ろから誰かが佐東に飛びついた。 佐東の胸倉を掴んだ黒河は、激情した顔で佐東を睨みつけていた。 悠貴は青い顔で口を開いた。 「黒河、やめろ」 「なんでだよ!」 佐東は震えながら、それでも口を閉じなかった。 「ムカつくんだよ、弐羽が」 「だまれ」 「欲しがれば何でも手に入るくせに、悲劇ぶりやがって」 「だまれっつってんだろ!」 ガタンと椅子を転がして、悠貴は立ち上がった。 悠貴は佐東と黒河の間に入ると、もみ合う二人を引き離した。 荒い呼吸をする黒河を悠貴は見つめた。 「やめろって、黒河」 「なんでだよ。 なんでお前は怒らないんだよ」 黒河の憎しみが悠貴に向かう。悠貴はどうしていいか分からなかった。 だって、この黒河の憎しみも激情も全部自分を思ってこそのことだったから。 「お前ってなんなの」 「いや、だって……そうじゃなくて」 もうなんて言えばいいかなんて分からなかった。心のずっと奥のほうが涙がこみ上げそうになり、悠貴は会話を終わらせたくなった。 「……ご、ごめん、もう……放っておいて」 「放っておけるかよ!」 大声で叫ばれた。その瞬間、悠貴の瞳から涙がぽろりと落ちた。悠貴は言葉をなくすと、その場から走り去った。 逃げたくなった。 もう、全てから。 父からも、教師からも、佐東からも、黒河からも。 ……遺影の中の母の笑顔からも。 「待て、悠貴!」 黒河の怒声が追いかけてきた。それでも、悠貴は走った。小学生の頃の徒競走のように無我夢中で走った。あの頃は天国の母が見ている、と思って全力で走っていた。 でも、今は天国の母は悠貴なんて見ていない。そもそも天国なんて本当はきっとないのだ。死んでしまったから。 死んでしまったのだから。 前なんて見えていなかった。 next 佐東が言ったことが結構本質をついているかと。佐東も結構愛しい子だと思うんだけどね。自分のことでいっぱいいっぱいな感じが。 written by Chiri(10/30/2011) |