ネイキッド(10) 肘の部分を誰かに掴まれた。 「ひっ……」 学校の裏門から出るところで悠貴は黒河に捕まった。小さく悠貴が悲鳴を上げたのは、突然現実に引き戻されたからだ。 固く握られた腕を離そうと、全力でもがくが、黒河は微動だにしなかった。赤い目で彼を見上げると、いきなり彼は悠貴を抱きしめた。 悠貴は言葉を失った。 「クソッ、俺も大概だな」 黒河が小さく何かを呟いた。遠くで次の授業が始まるチャイムが聞こえる。 「もう観念するから」 黒河はそう言うと、悠貴の口にかぶりつくようなキスをした。 「んむむ」 食べられる、そんな危険を感じて離れようとするが、彼の腕が押さえつけていて、逃れられない。やっと、彼の唇が離れていくと、息が苦しくなった悠貴は大きく息を吸った。 鼓動は早鐘のように鳴っていたし、顔は真っ赤になっていた。それでも、キスの後の深呼吸でいくらか冷静になれたようだった。 「なに」 悠貴は掠れた声で質問した。 「何なの、黒河」 黒河は悠貴の顔を無言で眺めると、また抱きしめた。悠貴の背中で交差された彼の両腕は隙間の一つも与えないように二人を密着させる。 「悠貴がずっと好きだったんだ」 「へ?」 意味が分からず、彼の顔を見る。 「だってこうしないと気持ちに折り合いがつかないだろ」 黒河は苦しそうに息を吸った。 「俺が何かお前にしたいという気持ち、してあげたいことをお前は貸し借りで数えるじゃないか。 それがやるせなくて」 手帳を見たとき。 黒河は悠貴のことを『そう』、思ったのだ。 その事実を今知って、そこはかとなく悲しくなる。けれど、彼の認識は間違っていない。悲しいけれど、間違っていない。 「でも結局嫌いになれなくて、ずっと見てたんだ」 ヒュッと息を止める。 悠貴が顔を上げると、黒河は眉尻を下げて寂しそうに笑った。 「なぁ、悠貴」 こんな風に人に話をされるのは初めてだった。 目をあわせて、彼は一つ一つの言葉をゆっくりとつむぐ。その言葉が悠貴に伝わるまで何度も何度も繰り返す信念を持って。 「持ちつ持たれつってさ、引き算じゃないんだよ。 あっちが一つしてくれたから自分が一つ何かをして、それでプラスマイナスゼロになるんじゃないんだ」 悠貴は、初めて算数を知ったときにひどく安堵を覚えた。 算数には答えが決まっているから。1−1は常に0だから。その確かさに安心するのだ。 けれど、人間関係はそうじゃないと黒河は言う。 「あっちが一つ何かをしてくれたから、自分が今度は何か相手にとって嬉しいことをして、そうしたら向こうもまた何かをしてくれて、そうやってさ、山みたいに積み重なっていくものなんだよ。 お前の考え方だと何も残らないじゃないか。 そうじゃないんだ。 人と人が接すると、接した時間や言葉、思い出が心の中に山になって残るんだよ」 自分の、接し方だと結局何も残らないのだろうか。 黒河がしてくれた事、与えられた事を全てゼロに戻す為に悠貴は彼と接してきた。それが悠貴の中の心の整理の付け方だった。 それが、ずっと昔からある、借りの返し方だと思っていたのだ。 けれど、それは違うのだ。違うかったのだ。 悠貴は息を深く吸い込んだ。 話したくなった。悠貴は、黒河に分かってもらいたくなった。 こんな重い話、誰にもできやしなかった。気を遣われる。迷惑になる。そうやって自己中心的に話を聞いてもらって何になるのだ、と思っていた。 けれど、黒河は違うのだ。彼は悠貴の話を聞いてくれる。 「……俺の母さんは俺が生まれた時に、死んだんだ」 黒河は目を瞠った。悠貴を抱く手に力が入る。 悠貴は黒河の目を真っ直ぐに見た。彼の目に映る自分の目にうつる彼。今、黒河と自分はそうやって、会話を通じて繋がっているんだ。 悠貴は続けた。 「……母さんは俺を産んだから死んだ。 だから、俺はずっと借りをもらったまま生きている気しかしなかったんだ」 人に一つ何かをもらったら、それを大きくして返す。 また何かをもらったら、それをまた大きくして返す。 人に何かをもらう度、誰かに迷惑がかかると思った。 誰かの人生を奪うと思ったのだ。 「ごめん、こんな重い話」 掠れた声で呟くと、黒河は悠貴の両肩を持った。黒河の目が大きく瞬く。 「違うだろ、お前の母さんはお前に貸しを作りたくて産んだんじゃないだろ。 お前の母さんはお前を産みたくて産んだんだろ。 きっとそれは彼女の意思だ。 貸し借りじゃないんだよ。 それを貸しだというなら、それは彼女に対して失礼だ」 悠貴は口を半開きのまま、彼を見た。呆然と立ち尽くしながら、小さく泣いた。 「……そうなのかな」 自信がなくて、信じられなかった。誰も彼女の気持ちなんて知らないはずだ。悠貴の母親の気持ちなんて今では誰も分からない。 悠貴は鼻を啜ると、もう一度自分に聞いた。 「そうなのかな」 黒河は悠貴の肩をもう一度強く叩いた。 「そうなんだよ!」 力強く返事をされて、ストンと何かが落ちてくる。 (そっか) 自然と唇の両端があがった。 「俺、黒河が好きだ」 黒河は目を大きく開けた。悠貴の肩においてあった彼の手が宙に浮かび、その状態で彼は硬直した。悠貴の放った言葉の意味が分からないのか、怯えるように一歩退く。悠貴はその一歩を詰めて、彼の方に近づいた。 体が軽いのだ。 まるで黒河に呪いを解いてもらったみたい。 「俺、黒河が好きだ」 そうやって彼に首に両手をまわすと、黒河は顔を真っ赤にして、地面に落ちていった。 「わわわ!」 二人して、ズデンと尻餅をつきながら、見つめ合う。砂埃にまみれた黒河の髪を払ってやると、黒河は悠貴の手を取った。 「お前、何も分かってないで言ってるだろ」 悠貴は笑った。 黒河こそ分かっていないのだ。 黒河と他の人間がどれだけ違うのか。黒河に自分がどれだけ曝け出したか。父にも見せられない心の底を。 「分かってないかも」 悠貴は悪戯っぽく言った。 「でも、黒河と一緒に作った山が一番高いんだ」 黒河は眉を顰めた。 その様子に悠貴は笑みを浮かべずにはいられなかった。 黒河が何かをしてくれて。悠貴が何かをしてあげて。 そんな風に築きあげた二人の山。 それは悠貴の世界で今一番誇り高く聳えてる事を黒河は知らない。 「なんか意味が分からん」 ふてくされるように黒河は呟いた。自分が言っていたたとえ話の続きだとは分からないようだ。足の砂を払うと彼はやっと立ち上がった。 「分からなくてもいいよ」 悠貴もそれにあわせて、立ち上がる。転んだせいで制服は泥だらけだった。自分の服を見て、悠貴はプッと噴き出した。 こんなに制服を汚した事なんて無かった。 思えば、小さい時からとても服を汚す事を気にしていた。他の子たちが泥だらけで遊ぶ中、自分だけ水溜りにも落ちないようにそろりそろりと爪先立ちで歩いていた。 自分はやはり何かが違うかったんだろう。 悠貴がクスクス笑い続けるのを不気味に思ったのか、黒河は悠貴をジッと見ていた。目があったので、悠貴は笑うのをやめた。 「俺、手帳にはもう書かないよ」 黒河は目を瞬いた。 だってそれってちょっとおかしいと思えたのだ。 今日と言う日の貸し借りを書くとしたら。 黒河に好きと言われた。(+1) 黒河に好きと言った。(−1) そんなのってわざわざ書くことじゃだろ? それは一般的に『貸し借り』じゃない。それは、……『ノロケ』と言うものだ。 同じように、今まで自分が書いていたこともわざわざ書くことじゃなかったんだ。誰も貸し借りだと思って悠貴に接していたわけじゃなかったのだから。 手帳を書くのはもう何年も続いた日課だった。 書かなくなってモヤモヤする日も来るだろう。手帳を書くことで悠貴は悠貴の心の整理を図っていたのだ。 (そうか……それなら) 悠貴はふと気付いた。 (そういう日は、天国にいる母に向けて手紙を書けばいいのだ) あの黒の手帳は母への手紙の束だと思えばいい。天国にいる母がそれを楽しく読んでいると考えればいいのだ。 そんな風に考える自分が少しだけ好きになった。 「……罪悪感を持たないで生きるのって難しいけれど、楽しそうだね」 ふと心の声が外に漏れていたらしい。 黒河は何も言わずにまた悠貴を抱きしめた。悠貴の頭の上に黒河は顎を置くと、背中をトントンと優しく叩いた。 その穏やかなリズムに心が安らぐ。目を閉じると、笑顔の母が浮かび上がる。大丈夫、もう悪夢は見ないだろう。母は悠貴の胸の中で、ただ一人の幸せの女性に見えた。 その日、悠貴は黒革の手帳にいつもとは少し違う文章を認めた。 母さん、悠貴です。 好きな人ができました。ごめんなさい、相手は男です。 でも、僕は彼に今までの自分を曝け出すことができました。 彼は黙ってそれを受け止めてくれました。 人に理解されるのって嬉しいですね。 僕は今まで自分を理解してもらおうなんて思ったことはありませんでした。 重いし、迷惑だと思っていました。 僕はどこかで人を信用していなかったのかもしれません。 そういうのって、母さんが生きていたら何か変わっていたのかな? ……そんなの、分からないよね。 今、僕は黒河にならきっとちょっとくらい甘えても良いかな、って思ってるんだけれど、 母さんはどう思いますか? その日の夜、夢の中で、悠貴は母の返事を聞くことができた。母は誰よりも穏やかに、優しく、笑っていた。 その後 そして、父とのこと。 written by Chiri(11/13/2011) |