ネイキッド
ネイキッド(8)



 久保さんの目は丸くて可愛らしい。その瞳が今は更に大きく揺れている。

「嘘、くれるの」

 朝の下駄箱で悠貴は彼女に会うと、昨日ラッピングしてもらったブローチを彼女に渡した。久保さんは怪訝そうな顔で包み紙を開けると、すぐに悠貴の顔を見上げた。

「いつもお菓子くれてるから」

 悠貴がそう言うと、久保さんは顔を赤らめて頷いた。すぐにブローチをカーディガンにつけると、彼女は愛らしく笑った。
 悠貴はホッと胸を撫で下ろした。ずっと前からもらっていた久保さんのお菓子。あれを一つの借りだと思うと、やっとこれで清算されたと思えた。

(今日も手帳に書いておかなくちゃ)

 まだまだいろんな人に恩をもらっている身だ。悠貴は少しでも大きくしてそれを返さないといけない。

 キーンコーン

「あ」

 チャイムが鳴り、顔を上げる。
 ふと、視線を流すとチャイムと共に下駄箱に走ってくる佐東の顔が見えた。酷い顔をしていた。目の下にはクマがあり、髪はボサボサだ。顔色も悪かった。
 佐東は悠貴と久保さんに気付くと、不機嫌そうにチッと舌打ちをした。

「良いご身分だな、お前ら」

 自分だけではなく久保さんに悪態をついたので、流石に悠貴は眉をひそめた。久保さんはたいして気にした様子もなく「遅れちゃうから、私達も行こ」と悠貴を促した。

 教室に入ると、既に席についていた黒河が一緒に入ってきた悠貴と久保さんを見て、顔をゆがめた。

「何、昨日のもうあげたの」

 前後の席になってから、黒河はいつも悠貴にひそひそ話を持ちかける。

「うん」

 悠貴が笑うと、黒河は口を尖らせた。

「……悠貴、今日の帰りさ、お好み焼き食いに行こうぜ」
「え、本当!」

 パッと笑顔になると、黒河は「くそ」と言って手を頭に置いた。悠貴はウキウキしながら、教科書を机の上に準備した。
 黒河と帰るのは楽しい。二年前みたいに一緒にぶらぶらしながら、会話しているのが楽しかった。好きなのだ。黒河と一緒にいるのが。

「悠貴って本当天然だよな」

 ため息混じりにそんな事を呟く黒河に悠貴は首をかしげた。
 天然?初めてだった、そんな事を言われたのは。多分、そう呼ぶのは黒河以外にはいないんじゃないだろうか。



***



「おい、佐東体調悪いのか」

 6限目の数学の授業中、いつもは黒板の文字の一つも逃さないように気を張っている佐東が頭を机に埋めていた。
 佐東はだるそうに顔をあげると、弱弱しく「……すいません」と答えた。

「おい、保健委員。 佐東を保健室に連れてけ」

 数学教師の言葉に誰も名乗り出ない。佐東の普段の態度は他のクラスメートからも嫌われていることを教師は知らない。
 数学教師は面倒そうに教室を見渡すと、不意に悠貴と目があった。

「あ、弐羽。 悪いがお前が保健室に連れて行ってくれるか」
「はい」

 悠貴は返事をすると、席を立った。佐東の席まで行き、手をひこうとすると鋭い視線で睨まれた。困った顔で手を引っ込めると、佐東も大人しく立ち上がった。

「……くそ、なんでお前なんかに」

 本当に小さい声で。おそらく悠貴にさえも聞こえないような声で彼は呟いた。悠貴も流石に少しだけ悲しくなった。
 ここまで嫌われるほど、自分は佐東に何かしたのだろうか。

 授業中の廊下は静かだ。二人の人間がパタパタと上履きを踏む音しか聞こえない。その音が突然やんだことに気付いて、悠貴は振り返った。
 佐東が廊下の隅に体をよせて、蹲っていた。

「佐東、どうしたの」
「……気持ち悪い」

 青白い佐東の顔を見て、悠貴は目を瞠った。すぐに彼をトイレに連れて行き、個室のドアを開いた。佐東はそこに駆け込むと便器に食べたものを戻した。苦しそうに嗚咽を漏らす彼の背中を悠貴は何度も摩った。

「大丈夫? 佐東」
「……いじょうぶじゃない」

 幾度と波が来るのを終えて、彼はやっと顔をあげた。目には涙が止まり、悠貴のことを見ると、彼は憎憎しげに罵った。

「俺はお前が大嫌いなんだ」

 佐東の背中にある悠貴の手を凪ぎ落とす。その衝撃に悠貴は体を傾けた。

「なぁ。 優しいんだろ、お前」

 佐東は歪んだ笑みを浮かべた。

「優しいなら、順位譲れよ。 一人でも蹴落としたいんだ、俺は」

 その言葉に(ああ、そうか)、と気付いた。昨日見た成績の張り紙。去年まであった佐東の名前が消えていたのだ。

「こっちは毎日勉強してるんだ。 それでも、受験が怖くて夜も眠れないんだ」

 佐東は涙を乱暴に右腕で拭く。佐東の体は震えていた。まるでがけっぷちにでもたたされているかのようだった。

「去年、職員室で聞いたよ。 お前、大学受験しないんだって?」

 悠貴は目を見開いた。佐東はその話を知っていたのだ。だから、こんなにも確かな敵意を持って悠貴に接していた。

「どうせお前にはいらない順位だろ。 くれよ。 そんな事もできないならただの偽善者じゃないか」

 再度投げつけられた『偽善者』という言葉に眩暈がした。

「ご、ごめ」
「謝んな。 お前に謝られると反吐が出るんだよ」

 吐き捨てるように彼は言った。震えは自分にまで伝染したようだ。
 浴びせられた負の言葉は自分の足場を簡単に奪っていく。
 「ココ」にいる意味。「ココ」に母を殺してまで生まれてきた意味。それを簡単に奪っていく。自分なんていなければ良かった、と考えさせる。
 それでも悠貴は勇気を出して、佐東に話しかけた。

「あ、あの、とにかく保健室」
「……触るな、偽善者」

 青い顔から今度は生気の無い白へと変わる。彼は壁に体を寄りかけながら、弱弱しく保健室に向かった。そんな佐東を一人で行かせていいか分からず、それでも混乱したまま悠貴は立ち尽くした。
 トイレの洗浄レバーを引いて、汚物を流す。その中に、自分の涙も流れていった。
 悠貴は声を殺して、洗浄音にまぎれて涙を流した。

 自分はおそらく、どこかに欠陥を持った人間なのだろう。そんな人間が母の命を奪ってまでここにいる意味はあるのだろうか。自分は何故他の人たちを苦しめてまでここにいられるのだろう。
 ひどい罪悪感に襲われる。
 生まれた時から感じていた罪悪感に殺されそうだ。こんな風に無意識に自分に戒められる生き方を自分はいつまでするのだろうか。解放される日はくるのだろうか。
 グルグルと悩み続ければ、続けるほど、涙は止まらなかった。
 こんな赤い目で教室に戻ることなんてできない。悠貴はそのまま、授業が終わるのを待った。


 何度かチャイムが鳴って、人の声が騒音となる。どうやら授業が終わったらしい。
 今だ個室にいるのもおかしいと感じ、勇気を出して一歩外に出た。廊下からは「またね」「また明日」という女子のやりとりが聞こえてくる。

(そうだ、お好み焼き、行くんだ)

 朝、黒河に誘われていたのを思い出す。あんなに朝は気分が良かったのに、今はどん底だ。

「おーい、悠貴ー」

 不意に黒河の声が聞こえて、体がびくりと反応した。
 その軽快に走る足音は近くなり、トイレに進入する。彼が入ってきた瞬間、思わず悠貴は顔を逸らした。

「あ、いた。 授業、どうしたんだ?」
「あ……うん、俺もちょっと調子が悪くなっちゃって……」

 答えると、黒河がズカズカと歩み寄る。悠貴の肩を叩くので、仕方なく悠貴も顔をあわせた。
 黒河はハッとした表情だった。

「……佐東に何か言われたのか」

 普段から佐東が悠貴に何かと問題がある態度でいる事はクラスの皆が知っている。当たり前のような事を黒河も知っていた、それだけのことなのに。
 なんだか急に恥ずかしくなった。
 自分の一番見られたくないところを黒河に見られたような気がした。

「なんでもない」

 顔を俯けて、そう言うと黒河が下から覗き込んでくる。

「嘘つけって」
「嘘じゃない」

 ……人に。
 人に慰めをもらうなんてもってのほかのことだ。だって、気を遣わせる。そんな風に気遣ってもらいたくないのだ。そんな存在に悠貴はなりたくなかった。

「なあ、ちゃんと言えよ。 言わない方が気になって仕方ないんだ、俺は」

 黒河にそんな風に言われて迷う。話した方が逆によいのだろうか。判断力が失われているから余計にごちゃごちゃになる。

「ほら」

 促されて、悠貴は口ごもった。

「あ、その……」
「ん」

 完全に聞く体制である彼に戸惑いながら、口を割った。

「……佐東に偽善者って言われたんだ」

 黒河は表情を変えなかった。

「順位を譲れ、とも言われた。 俺、大学行くつもりなかったから」

 その瞬間、黒河が顔を変えた。黒河にその事実は告げていなかった。

「え? 大学、行かないのか? うち、進学校だぞ」
「うん。 親に迷惑かけたくないから」
「でも、成績もいいのに」

 悠貴は顔を俯けた。

(……知ってるよ)

 何度も言われてきた。
 親にも、教師にも。
 多分、悠貴のことを考えてくれる人ほど、真剣に「何故」と問いかけてくる。それが悲しかった。

「何か事情があるのか」

 黒河は言葉を選びながら悠貴に聞いた。悠貴は首を横に振った。

「俺の我儘だよ」

 それがきっと正しい回答なのだろう。少なくとも周りの良識ある大人は皆そう思っている。
 黒河は何かを考えるようにしばらく押し黙ってから、また顔をあげた。

「本当にそれがお前の我儘だとするなら、俺はお前が大学行ったほうがいいと思うよ」

 悠貴は息をのんだ。
 黒河の顔を見るのがなんだかつらい。

「だって、お前勉強好きじゃん。 数学とか楽しそうにやってるじゃん」

 また言い当てられて、泣きそうになった。
 なんで皆同じことを言うのだろう。何故皆よく自分のことを見ているのだろう。その度に少しだけ嬉しくて、でも迷惑をかけたくなくて、自分はまだら模様の世界に取り残される。

「あとな。 偽善者って言葉、俺は違うと思う」
「え」

 悠貴は意味が分からず目をぱちくりとさせた。
 正直、佐東の言った事は正しいんじゃないか、と自分は思っていた。自分の優しさが本物ではないということを見抜かれていたのだろう。
 黒河は悠貴の目を真っ直ぐと見た。

「悠貴、お前の優しさは偽善じゃないと思うよ。 偽善って自分を良く見せたいっていう虚栄心からやるんだろ。 お前のはそういうのじゃなくて」

 ヒュッと息がとまる。

「……お前のそれは……なんていうか強迫観念だと思う」

 きょうはくかんねん。
 意味が分からなかった。

 頭が真っ白になり、固まったまま悠貴は立ち尽くした。
 そして黒河は目を伏せたまま、こんなことも言ったのだ。

「なんか正体不明のモンスターと戦ってる感じ。 見ていてちょっと可哀相だよ」





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佐東から見た悠貴と黒河から見た悠貴。
written by Chiri(10/23/2011)