ネイキッド
ネイキッド(6)



 夢見が悪かった、と朝起きてから気付いた。
 自分はおそらく遺影の中の母を夢の中に見た――いや、作ったのだ。彼女は決して自分には笑いかけなくて、まるで童話に出てくる魔女のような顔で悠貴を見ていた。

『あーあ、あんたみたいなのを産みたくなかったのにな』

 まるで現実味の無い彼女の言葉は無意識に自分がアテレコしているものだということは分かっていた。
 目を覚ましてから、余計に自己嫌悪に陥る。自分を産んでくれた母を一方的に悪者にしたいのだろうか、自分は。そんな汚い人間なのだろうか、自分は。

 顔色の悪いまま、家を出る。父は悠貴よりもはやくに出勤したようだった。避けられているのかと被害妄想をするまでもない。父が悠貴より出勤が早いのは割とざらに起こることである。いつもと同じ朝に安心しながら、同時にどこかで不安がかき立てられる。
 父に失望されたかもしれないという不安が。

「おはよ、悠貴くん」

 学校に行くと、自分の席に久保さんが立っていた。朝が似合う穏やかな久保さんの笑顔に自分は癒されるどころか少しだけ疲れてしまった。
 久保さんはお菓子をかばんから取り出すと、机の上に置いた。

「あのね、また作ったの」

 きらきらと光らせた目を見て、悠貴は笑顔を作った。いつもよりもっと意識的に、『本当に喜んでいるような顔』を。黒河に言われたことが頭の隅で主張していたから。

「ありがとう、嬉しいよ」
「本当!?」

 黒河に言われたことをその通り実行しただけだったが、彼女はすごく喜んだ。正直、疲れている今、甘いお菓子なんて喉を通りそうも無かったが、それは自分の問題である。彼女の好意には変わりない。

(ああ、俺はいつももらいっぱなしだな……)

 前回にもらったものに対して何も返していないのにまたもらってしまった。何かを返さないと思いながら、悠貴は目を閉じた。

 女の子だから可愛いものがいいのだろうか。
 文房具でも喜ぶだろうか?簡単なアクセサリーとか?

 考えているうちに気が重くなった。心が重いと思ったら、今度は体まで硬直してきた。くらりと脳の血が抜けていくのを感じたその時。

「おい、大丈夫か」

 黒河に声をかけられた。
 我に返ったように、目を開けると、黒河が少しだけ普段の様子よりも焦って悠貴を見つめていた。黒河の手が悠貴の顔を覆う。

「熱あるんじゃねーか」

 いつの間にこんなに大きな手になったのだろう。黒河の手は固く、ひんやりとした大人の手で、安心感を誘った。

(いつも声なんてかけてこないのに不思議だな)

 黒河は同じクラスになってからいつも一定距離を保っていた。自分が体調不良というだけでその距離は簡単にも縮まるなんて、なんだか不思議だ。

「ほら、保健室行くぞ」

 ぐいっと肩から持ち上げられて、ぎょっとする。
 黒河は平気な様子で自分を支えようとするので、悠貴は慌てて自分の脚で立った。自分より背の高くなった黒河は首筋から肩にかけて筋肉ばっていて昔の少年っぽかった線の細さはどこかにやってしまったようだ。自分が連絡しなかった半年で黒河は急激に成長していた。
 自分のことを好きだったという黒河。
 それはもう昔の事だという黒河。

「黒河、なんで……」

 か細い声しか出なかった。

「……なんで俺のこと助けちゃうんだよ」

 黒河は不機嫌そうに悠貴の顔を見た。
 悠貴はごくりと息を呑んだ。頭の中に浮かぶのは黒い手帳。悠貴の中で人間関係を損得勘定であらわすそんな手帳。

「また増えちゃったじゃん……。 お前にしてもらったこと、どんどん増えてくんだよ。 俺、どうやって返せばいいの」

 肩を支えられながら、悠貴は鼻を啜った。馬鹿な人間だ、自分は。だなんて思いながら黒河に体重を預ける。普段の自分ならこんなに人に頼る事なんてできないけれど、昨日のこともあって心が弱っていた。黒河の体温は悠貴にとって良薬だった。

 黒河はチッと舌打ちをした。

「そんなんしらねーよ」

 そうだろうとも。
 こんな風に黒河に八つ当たりのようなことをするなんて自分は愚かすぎる。

 しかし、次の瞬間、黒河はどこか楽しそうに笑ったのだ。

「俺に貸し作らせないなんて無理なんだよ、ばーか」

 まるで、その貸しが黒河にとって嬉しい事のように。彼は一矢報いた顔で悠貴に向かって微笑んだのだった。



***



 風に顔を撫でられている。そう感じながら、保健室で悠貴は目を開けた。
 時計を確認すると、既に放課後ですぐそこに黒河が椅子に座って悠貴を見ていた。

「気分よくなったか」

 黒河は悠貴の顔を見ながら、聞いてきた。悠貴は寝たままの体勢でこくんと頷いた。

「まだ顔色悪そうだけどな」

 それは、また夢見が悪かったからだろう。朝見た夢には母が出てきたが、今度は黒河が出てきた。
母が魔女の顔をしていたように、黒河も悪魔の顔をして、悠貴に言うのだ。

『お前っておかしいよ』

 その黒河の顔も、起きた後の現実では穏やかで優しげである。その事に心底安堵して、むしろ起きてから自分の顔に赤みが差してきた気がした。

「黒河、ありがとう。 もう大丈夫だから」
「お前の言う大丈夫なんてな、俺は基本信じてないんだよ」

 きっぱりと言い切られて、悠貴は苦笑した。

「俺のこと、友達とも思ってないんだろ。 放っておけばいいじゃん」

 前言われたことに対して揚げ足をとるような言い方になってしまった。けれど、間違いじゃない。黒河はそう言った。自分はその時、やはりショックだったのだ。

(なぁ、なんで黒河は俺から離れていったの?)

 そう直接聞きたかったが、そこまでは流石に口が達者でない。
 保健室の白いシーツを握りながら、悠貴は天井を見つめた。不意に黒河の息を吐く音が大きく聞こえた。

「……俺はお前がもっとドライな人間だと思ったんだよ」

 手帳を見たとき。
 悠貴が人間関係を損得で勘定する人間だと知った時。
 彼はそう思ったのだろうか。

 悠貴は黙って、天井を眺め続けた。

(ドライって言われても……よくわからないな)

 でも、昨夜自分が父に言った言葉はもしかしてそうだったのかもしれない。父は悲しんでいた。あの理論的な父が苦々しい顔をして、「そうじゃないんだ」とただ言い続けていた。自分はそれでも自分の意見を曲げようとなんかしなかった。

「でもなんか違うんだなって分かってきた……。 お前って、結構厄介な奴なんだな」

 厄介?
 不思議な単語を聞いて、黒河の方に視線を向けた。意外だった。黒河は依然と楽しそうに頬杖をついたまま、悠貴を眺めていた。
 厄介なのに嬉しそう?
 その様子に悠貴は頬を上気させて、期待の表情を作った。

「それって何か誤解があったってこと? また俺たち、友達になれるってこと?」

 自分の期待感はおそらく外に駄々漏れだっただろう。
 黒河はプッと噴き出してから、ケタケタと笑った。

「バーカ、そんなのごめんだよ」

 がーん。
 悠貴は大口を開いたまま、固まった。まるで期待させるそぶりだったのに、そんな答えはどこにも無いだろう。悠貴の反応を楽しむような黒河の表情に流石に腹が立った。
 むくれた悠貴は視線を枕元に置くと、黒河に背を向けた。黒河の息遣いは楽しそうだ。

(俺だって、黒河がそんな酷い奴だとは思ってなかった)

 優しい所だけはずっと前から知っていたけれど。





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黒河が認識を少し改めた瞬間。
written by Chiri(10/11/2011)