ネイキッド
ネイキッド(5)



 家に帰ると、悠貴は自分の部屋のベッドに突っ伏した。
 黒河にあの手帳を見られていた、そう思うだけで自分の心を覗かれた気持ちになる。
 それに対する不快感はなくとも、「何故勝手に見て、勝手に離れていくのだろう」という不満はあった。見たとしても気付かない振りをしてくれたら良かったのに。
 今日は何故か手帳を開く気になれなかった。
 黒河はおそらく自分を軽蔑したのだろう。人の思いやりを、恩を損得勘定しかできない自分に。
 今日は久保さんにお菓子をもらった。それを書いておかないといけないのに。それを書くことは自分を貶める事に近いような気がした。
 その時、呼び鈴が鳴った。

「ただいまー」

 そして少し遅れて、玄関から父親の声を聞いた。
 こんな早く帰るのは珍しい。

「はやいね」

 階段から顔を覗かせると、幾分か顔色のいい父を見つけてホッと安心した。

「プロジェクトがひと段落ついたからな。 今日は出前とるか」

 ネクタイを外しながら、穏やかな顔を見せる父に悠貴も笑顔を返した。階段を降りながら、出前の広告ちらしを漁る。父に見せると、父は「寿司がいいな」と鼻歌を歌いながら選んでいた。
 そんな父を見ながら、悠貴は思った。

(出前ならちゃんと手帳に書いておかなくちゃ)

 人にしてもらった事を書く習慣。
 それが身内のしたことでも基本変わりなかった。父に借りを借りているという気持ちはずっと昔からあった。母が亡くなってから、悠貴は父の手一つで育てられた。
 小学校、中学、高校と行かせてもらった。小遣いもほとんど貯金しているがもらっている。それにご飯だって毎日食べさせてもらっている。父が汗水をたらして稼いだお金で、だ。

 しばらくすると、呼び鈴が鳴り、出前が到着した。寿司をテーブルに並べて、飲み物を入れる。父は大きく伸びをすると、朗らかな表情のまま席に着いた。

「やっぱり穴子だな」

 なんて言いながら大きく口を開けて頬張る。父のご機嫌は本当に良いらしい。

「そういえば……」

 父はちらっと目線をあげた。悠貴の顔をジッと見つめる。

「実力テスト終わったんじゃないか? 成績はどうだった」

 内心、(きた)と思った。
 悠貴は立ち上がると、自分の部屋の机に並べていた成績表を手に取った。胸を鳴らしながらダイニングテーブルにつき、並べていく。

「お、調子良いじゃないか」
「……うん」

 父の機嫌はうなぎのぼりだ。それを理解しながら、悠貴は切り出した。いつかは言わないといけないことである。

「父さん、俺」
「ん」

 一秒、言葉に詰まった。止めていた呼吸の流れを強制的に戻して、悠貴は言葉を放った。

「俺、大学には行かないつもりなんだ」

 成績を良くしていたのは、大手のインフラ系会社への学校推薦が欲しかったからだ。決して多くはないが、そういう道もうちの高校には用意されていた。

 テーブルに映る自分の顔を見て、悠貴は眉を寄せた。青ざめた表情、まるで大罪人のようだ。
 父はしばらく硬直したように、沈黙を作った。その間、彼の呼吸が近くに感じられて実に居心地が悪い。悠貴は顔を俯けたまま、唇を強く噛んだ。

「……何故?」

 長い沈黙の後に、父は悠貴に聞いた。感情を押し殺して、冷静を装う声だった。理論的な父は時々逆上しそうになる前にこういう声を出す。

「別に大学に行ってもすることないし……。 無駄に金がかかるだけだから」

 父の目を見れないまま、視線を泳がした。父はぶるりと震えて、もう一度聞いた。

「そうじゃないだろ。 うちにはお前一人なら大学に行かせる余裕もある、お前の学力にも余裕がある。 父さんは無駄なお金とは思わないし、お前だってどちらかと言うと勉強が好きだろう?」

 その瞬間、悠貴は顔をあげた。父は真っ直ぐに悠貴を見ていて、悠貴はカッと顔を赤くした。またそろりと顔を俯けると、膝に置いた握りこぶしに力を入れた。
 勉強が好きだろう、という発言に少なからず驚いた。父は自分が勉強を嫌いでないことを知っていたのだ。数式を解くこと、証明することが好きだった。自分はそれを幼い頃にやったなぞなぞの延長のように感じていた。それを父が知っていたのだ、嬉しかった。けれど。

「……もういいんだ。 今までこんなに養ってもらっていて、これ以上迷惑はかけられない」

 幼い頃の自分が思い出される。
 物心ついてから、我儘を言った覚えが無い。言いたいとさえ思わなかった。自分はそこで育てられていることにだけ感謝していた。
 父の眉間の皺が深くなる。

「なんでだ。 子供は親に迷惑をかけて当たり前だ。 それにそれは迷惑なんかじゃない」
「でも」

 自分は迷惑をかけた。
 父に、――自分を生んでくれた母に、だ。一生をかけて償いきれない罪を背負って生まれてきたのだ。

「俺は……ハンデをもらって生まれてきたと思ってる」

 父の眉がピクリと動いた。不愉快そうに眉頭に力が込められていた。
 それを知りながら、悠貴は続けた。

「それを少しでも返したいんだ。 父さんに甘えているといつまでたっても返せない」

 はぁ。
 父の深いため息を二人を分かつ。父は顔を俯けると、右手を眉間に置いた。

「なんでお前はそんなこと……」

 言いかけて、父は目を見開いた。何かに思い当たったのか、恐る恐る悠貴の顔を盗み見た。
 同じく悠貴もおそらく父と同じ情景を思い出していた。

『もしお前が冗談でも『死にたい』と言うだけで俺はお前を軽蔑するだろう。 それだけは絶対言うな。 母さんが可哀相だから』

 小さい頃から何度も告げられていた。
 父の本心からの言葉だろう。大人の目をした父の言葉を子供の自分が真意を理解できていたのかは分からない。
 けれど、悠貴の友人は気軽にその言葉を口にするのだ。友人だけではない、クラスメートも先輩も。

「ああ、俺、フラれた。 もう死にてぇ」
「テストやばい。 俺、死ぬしかない」
「死ぬほど疲れた」

 その言葉を聞く度に、それを言える人は言えるだけの自信があるのだろうと思っていた。結局許されるのだろう、周囲にも、親にも。自分はそれを口にした瞬間、父に捨てられるかもしれない。だから、自分とその他の人では生まれながらにして何かが違うと思っていた。
 自分は何か見えない重いものを背負っている、と。

 父は青い顔をして、首を振った。少し前の自分の顔色がうつったのかと悠貴は思った。

「違う……。 違うんだ、俺が言いたかったのは、そうじゃなくて……」

 紙のように白くなった父を見て、自分は何かを間違えたことを理解した。
 黒河にも言われた。

『……そういうところが、お前おかしいんだよ』

 自分は何かがおかしいのかもしれない。
 歯車をなくしたロボットのように、縫い目が切れたぬいぐるみのように。自分には何か部品が足らないのではないかと思った。

「父さん、ごめん」

 少しでもその場を元に戻したくて、謝罪の言葉を紡いだ。
 父は何も言わずに首を振った。
 悠貴は母の遺影を見ながら、目を伏せた。遺影で笑う母の顔はいつの日も知らない女性の顔だった。彼女の人となりを自分は知らない。その、自分が奪った尊さも自分には理解できていないだろう。
 自分は少しでも、親に、人に迷惑をかけないで生きていきたい、それだけなのに。

(黒河……俺、どこがおかしいのかな)

 心の中で黒河に問いかけた。
 黒河なら答えを知っているように思った。

 自分が「ソコ」にいて良い意味って皆知っているのだろうか?
 いつから知っているのだろうか?
 皆、生まれたときからそれを持っているのだろうか?
 なら、自分は何故持たされないで生まれてきてしまったのだろうか。

 神様にも答えられない質問を、何故か黒河なら知っているように思えた。





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悠貴の通っている高校は進学校。
written by Chiri(10/6/2011)