ネイキッド
ネイキッド(3)



「では、今日の授業はここまで」

 教師が教科書を閉じると、一斉に生徒達も机の上を片付ける。日直の女生徒が爪先立ちをして、黒板を消すのを見て、悠貴は腰をあげた。

「大丈夫? 消せる?」

 もう一つの黒板消しを持ちながら、彼女に話しかける。
 悠貴が教師の書いた小さな文字の羅列を黒板上部から消していくと、女生徒はジッと悠貴を見た。

「あ、ありがとう」

 戸惑いながらお礼を言う女生徒に悠貴は笑みで返した。

「どういたしまして」

 背の低い女子に黒板を消すのを大変だろう。そんなことを思うと自然と悠貴から次の言葉が出てくる。

「届かない時はまた言ってね」

 女生徒は顔を赤くして、「う……うん」と答えた。黒板を綺麗な余白に戻すと、悠貴はスイッチを押し、黒板消しをクリーナーにかけた。ブオオオっとモーター音が鳴ったその時、「……ん者」と誰かが呟いた。悠貴は目を伏せたまま、黒板消しを前後に動かす。口元をきゅっと締めると、胸元も苦しくなった。

 何と言われたかは分かった。
 偽善者、だ。
 その通りだ。何も間違っていない。自分の善行はニセモノだ。そんなこと、悠貴自身分かっていた。

「……わ、弐羽!」

 ふと、また違う音が混じっている事に気付き、顔をあげると、昨日掃除をかわった渡部が笑顔で立っていた。
 悠貴はクリーナーの電源を落として、渡部を見上げた。

「どうしたの」

 渡部は「いや〜」と左手で髪の毛を掻きながら、右手でポケットから何か紙を出した。悠貴は目を見開いた。

「昨日、彼女に振られちゃった」

 渡部の手には映画のチケットがニ枚。

「彼女とそのうち行く予定だったんだ、この映画。 でももういらないから、チケットやるよ」

 渡部はそれを悠貴の胸に押し付けた。渡部は失恋を気にもしなさそうな顔で「ま、女は星の数ほどいるから!」と無駄にポジティブな言葉を言い放った。
 そんな渡部をすごいなぁ、と思いつつ、悠貴は首を横に振った。

「いいよ、別に他の人にあげなよ」
「いや、でも昨日のお礼だって。 っつーかこれ、動物モノなんだよね。 彼女いないなら、俺別にそんなに見たくねーし」

 見ると、チケットには象の絵が描かれてあった。よくコマーシャルで宣伝している映画だ。涙なくして観られない、と大々的に宣伝されている。

「いらなかったら他の人にあげてもいいから」

 あくまでも渡部は譲らないようで、チケットを持った手を引っ込めなかった。
 悠貴は困った顔をしながら、そのチケットを受け取った。

「……うん、ありがとう」

 渡部はやっと満足した顔で、また満開の花のように笑った。

「俺こそ昨日は本当ありがとな! 俺、フラれちゃったけど、弐羽には本当感謝してるから! 言っておくけど俺、義理堅いよ! あと、今度こそ掃除変わるから」

 渡部はそれだけ言うと、かばんを持ってクラスから出て行った。彼は今日はバイトがあると言っていた。家計を助ける為にバイトをしていると後から聞いたが、部活とバイトに彼女がいれば確かに忙しくもなるだろう。
 ありがとうと何度も言う渡部はまるで自分の欲しいものをすぐにくれる奇跡の人のように思えた。固くなっていた心の一部がまた少し和らいだ。
 けれど。

(チケットとかはいらないのに)

 正直、借りを返されるのは自分の本意ではなかった。また借りをもらってしまうと、自分は不安になる。もっと大きなものにして返さなくてはいけなくなる。

 黒板消しを戻すと悠貴は自分の席へと戻ろうとした。その時、また視線を感じた。この視線が誰のかなんてもう分かっていた。
 黒河がジッと自分を見つめていた。眉間に皺をよせた顔。少なくても悠貴の友人とは思えないような形相だった。
 この視線にも一週間もすれば慣れたものだ。最初は、目があえば目が泳いでいた黒河ももうそれすら諦めたのか、悠貴が気付いても視線の先を変えなくなった。だから、自分も遠慮をせずに黒河を見た。そして、彼の席までツカツカと歩み寄った。黒河は少し驚きながら、強張った顔で悠貴を見上げた。

「黒河って映画好きだよな? もし良かったらもらってよ」

 そう言って、黒河にチケットをニ枚差し出す。黒河はそのチケットの題名も観ずに、サラリと返した。

「っつーかコレ、さっき渡部にもらった奴じゃないの」

 流石ずっと目で見ていただけある。悠貴は素直に頷いた。

「なんでそれを二枚とも俺にくれようとすんの。 渡部に悪いと思わないの」
「いや、渡部も誰に渡してもいいからって言ってたから」

 悠貴の回答に黒河は黙り込んでしまった。悠貴はまた自分は何か怒らせたのかと思った。

「……そういうところが、お前おかしいんだよ」
「え」

 体の底から冷え込むような声だった。悠貴は目を見開きながら、口を閉ざした。それがここ一週間悶々としていた黒河の真実だと思った。
 しかし、黒河は瞬時に表情を変えると。

「じゃ、悠貴も一緒に行こうよ」

 いきなり悠貴を見て笑みを浮かべた。

「え」

 つい泣きそうになってしまった。切なさと恐怖で。
 黒河は笑ってはいるが、相変わらず不機嫌そうにしか見えない。

「明日の学校終わってから、いつものところで待ち合わせな」

 勝手に決められながらも、悠貴は言葉を挟めなかった。
 いつものところと彼は言った。
 二年前一緒に何度も映画に行った。その時のことを彼は忘れていなかったらしい。一緒に映画観て、笑って、ポップコーンを食べあったことも覚えているだろう。
 なのに、この不機嫌さだ。

 悠貴は席に戻ると、ため息を吐いた。
 悠貴は明日の憂鬱を思い、チリチリと痛む胸を手で押さえた。



***



 待ち合わせに三十分もはやく行くと、既に黒河は待っていた。驚きながら、彼に駆け寄ると黒河は唇の端だけ上げて笑った。

「やっぱり、早く来るんだな、お前」

 自分の癖も分かっている男なのだ、黒河は。
 黒河はフード付きの中綿ジャケットを着ていた。表地は黒いが、裏地は赤のチェックだ。前はこんなジャケット持っていなかったのになぁと悠貴は思った。黒河は気に入ったジャケットを毎日着るような奴だ。

「黒河って半年ですごく背が伸びたんだな」

 前同じ服を着ていたら、だぼだぼになっていただろう。ジーンズも新調したようだ。脚が伸びたのだろうか。

「お前はずっと同じままだな」

 言われて、そうかなと自分を見る。Tシャツにカジュアルなシャツを羽織っただけのラフな格好だった。パンツだってただのその辺で売ってるチノパンだ。
 そういえば、このシャツ、ずっと前から着ていたかもしれない。同じような格好を何度も黒河には見られている。
 悠貴が厳しい表情で自分の服装を見ていると、黒河が頭を小突いた。

「馬鹿、服装じゃなくて中身だよ」
「え?」

 顔を上げると、黒河は瞼を横に細く俯けた。

「全然成長してねぇ」

 ガツンとハンマーで叩かれたような衝撃を受けて、悠貴は泣きそうになった。

「……うん」

 なんて答えていいかなんか分からなくて、とりあえず肯定する。
 自分は本当にバカだなぁっと悠貴が思って俯いているのも気にせず、黒河は売り場に向かった。

「俺、ポップコーン買って来るわ。 お前、塩の方が好きだったよな」
「え」

 そのまま置き去りにされたまま、しばらくすると黒河が塩ポップコーンのLサイズを一つ持って戻ってきた。
 それをジッと眺めたまま、不思議に思った。
 何故自分が塩ポップコーンを好きなこと、覚えているのだろう。
 自分は自分の好みなんて言葉にしない。そうすると周りが気を遣うからだ。なのに、なんでそんな些細な事を覚えているのだろう。

「……それ、払うよ」
「いいよ、俺もどうせ食べるし」

 頑なに小銭を受け取らない黒河にもうどうしていいか分からなくなった。
 今日は借りを返そうと思ったのに、また借りが増えた。こんなのいつまでたっても終わりが来ない。しかし、終わりが来たら、それで自分は満足なのだろうか。

 鑑賞中、黒河はポップコーンを悠貴の膝に置いた。いくら黒河の方に戻しても置いてくる。しばらくしてそんな攻防にも飽きて、映画に魅入ってしまった。
 映画は評判通りだった。
 象と人間の友情の話。象は仲間が死ぬと葬式をあげるらしい。列を作り、順番に遺体に花を添えたり鼻で撫でたりするのだ。主人公の少年が亡くなった時、象が集まって葬式をするシーンで涙が止まらなくなった。子供だった時から一緒だった象にとって、毎日世話をしてくれていた少年は母と等しいものだったのかもしれない。
 象は涙も流すらしい。
 悲しい鳴き声を上げながら涙を流す象を見て、気持ちが抑えられなくなった。
 母である少年を亡くして、残された象はこの先どう生きればいいのだろうか。

 劇場が明るくなると、誰も人がいなくなっていた。こんな赤い鼻を見せてはいられないと思って座っていたら、黒河に何かを差し出された。
 ハンカチだ。

「相変わらず泣くんだな、こういう映画で」

 ふと見ると、黒河は何ともいえない顔をしていた。
 何度も泣いた事がある。黒河と映画を何度も観たから。あんなに他人と映画に行ったのは黒河だけだった。
 他人と映画を見に行く事を自分はあまりしなかった。自分はいつでも誰よりも涙もろかった。普段は穏やかにしている自分が泣くと皆驚くのだ。驚いて、大事になってしまう。それが嫌だった。
 けれど、最初に一緒に映画に行った時に黒河は笑ったのだ。

『悠貴ってこういうので泣いちゃうんだ? いいじゃん、泣いても。 俺、ちゃんと見てないフリするから』

 うん、と悠貴は頷いた。
 うんと言いながら、あの時も黒河に渡されたハンカチを濡らした。
 黒河はずっと悠貴に優しかった。二年前も、多分今も。

 ふと黒河を見ると、黒河は自分からそっぽを向いていた。自分の泣いている顔を決して見ないように、頬杖をついて向こう側を眺めている。
 何故黒河は自分を誘ってくれたのだろうか。そして、何故黒河はこんなにも自分をよく知っているそぶりで意地悪な態度をとっていたのだろうか。

「お客様、そろそろ次の上映が始まるのですが」

 見回りに来た従業員に声をかけられて、やっと悠貴は腰を上げた。黒河が手を差し出したので、ハンカチのことかと思い、悠貴は謝った。

「ごめん、これ洗って返すよ」
「じゃなくて! 手貸すってことだよ」

 否が応にも手をとられ、力強く引っ張られた。立ち上がると、腕をそのまま引かれ、劇場を出た。チケット売り場の近くでやっと手を離されると、悠貴は顔を上げた。

「……あの、ごめん、ありがとう」

 黒河はジッと悠貴を見つめた。
 そして。

「このこともあの手帳に書くのか?」

 驚いて、悠貴は黒河を見た。

「え? 手帳って……」
「ごめん、あの日、お前の手帳見たんだ」

 半年前、黒河が自分の家に遊びに来たときだろうか。あの日から、黒河は自分にメールをしなくなった。電話も、遊びの誘いもなくなった。
 あの時、机の上に置いたままにしていた手帳を黒河が見たのだろうか。 
 自分が他人にされた善行を書き留めた手帳だ。
 あれが客観的に見たら何を意味するのかは自分にも分からなかった。黒河は何を思ったのだろう。黒河が悠貴にしてくれた借りの数々。

「俺、あれ見て、自分がしてたことが恥ずかしくなったんだ」

 黒河は思い出す中で、唇をかみ締めた。彼にとって、それは楽しい思い出ではないように。

「一年生の時、俺お前が好きでさ」

 その言葉に悠貴は瞠目した。
 好きって友達としてってことだろうか。それなら自分だって黒河を好きだった。

「違う」

 黒河は悠貴の心を読んだようだ。

「多分、友情とかじゃなくて、まじで好きだったんだ。 そんで、馬鹿みたいにお前にいろんなことしてきてたんだな、って手帳見て気付いたんだ」

 黒河はそのまま呼吸を閉ざした。ざわざわと人が集まる映画館の入り口で、自分たち二人の間だけ沈黙の空気に囲まれている。
 自分が書いた手帳が元で、黒河は態度を変えているというのだ。
 悠貴は言葉に詰まった。あの手帳を見て黒河はどう感じたのだろう。自分ばかりしてもらっていた事の羅列。それを自分は黒河に返せていなかった。
 自分達の立つ天秤は対等につりあっていなかった。

「ごめん。 俺、黒河にされた借りを返せてなくて」
「返してもらう為に何かをしていたわけじゃないんだ」

 即答した黒河。ハッと悠貴は顔を上げた。

「……だから腹が立つんだよ」

 言葉の辛らつさとは裏腹に初めて、黒河は声を優しくしてそう言った。
 まるで自分が何も知らない子供のように。その子供に語りかける大人のように。

 そのまま、映画館で分かれて、悠貴は自分の机の上で手帳を開いた。
 自分が今日黒河にしてもらった数々の事。

 ポップコーンを買ってもらった。
 ハンカチを貸してもらった。
 文句も言わずに最後までつきあってくれた。

 けれど、黒河の言葉が頭に響いて書き留めることができなかった。

『このこともあの手帳に書くのか?』

 書きたい。
 書きたいとも。
 だって日課なのだ、これが。
 ある意味、自分の平穏を保つ為に必要な事かもしれない。
 なのに、何故か今日は何もかけなかった。
 今日一日が空白となった。
 まるでそれは借りも貸しも存在しない、ただ普通の人が過ごすような平凡な一日のように思えた。





next



でも、黒河の態度も結構矛盾してるよね。
written by Chiri(9/28/2011)