ネイキッド(2) 「立候補はいないのか」 三年目のクラス担任は少し神経質そうな数学教師だった。眼鏡を人差し指で上げながら、担任はクラス全員の沈黙に皺を寄せた。 「いないのか」 もう一度促すように担任が声量をあげたので、悠貴は手を上げた。 「自分がやります」 その瞬間、どこかで「内申稼ぎかよ」と聞こえた。 「じゃ、弐羽がクラス委員で決定な」 教師は聞こえなかったのか、聞こえない振りをしたのか、その役割が自分に決定した事をアナウンスした。無理やり教師が促した拍手の音は悠貴の居心地を悪くさせるだけだった。 (あぁ、しまったな)と心の中では思う。 恥ずかしいけれど本当はやりたかった人間がいたのかもしれない。手をあげるタイミングが早かっただろうか。もっと嫌われどころの役にすればよかった。悠貴は後悔した。 席に座りなおすと、福場が悠貴でヒソヒソと声をかけた。 「あんなこと言われてまでやる必要ないだろ」 曖昧に笑いながら、(まあ、それでも)と思う。少なくとも今の場面で担任は助かったと思いたかった。 「難儀だなぁ、お前」 福場が笑いながら、悠貴の肩にポンと手を置いた。 難儀かぁ、と心の中で鸚鵡返しする。自分では自覚していないことだった。 放課後、早速気がはやい誰かが悠貴をその名で呼んだ。 「委員長!」 教室でかばんにノートを入れながら、悠貴は顔を上げた。 同じクラスの生徒の自己紹介はした。三年目ともあり、顔はどこかしらで見知ってる人が多いが、名前がすぐには一致しない。 (あ、……渡部だ。 サッカー部の渡部) 名前を覚えるのは得意な方だ。悠貴は渡部の顔を見ながら、唇をキュッと締めて少しだけ口の端を上げた。 「何」 渡部は両手を合わせて、目の前でかがんだ。 「今日、掃除を変わってくれない?」 悠貴は優しく微笑んだ。 「いいよ」 あまりにも即答だった為か、渡部は拍子抜けた顔を上げた。悠貴はすぐにロッカーから自分の分の箒を取り出しに向かう。渡部が悠貴の後を追う。 「え? 本当? いいの?」 「うん」 「ありがとう! 今日、俺彼女がもう待っててさ。 他の奴に言ってもダメでさ」 渡部は何度か礼を言いながら、荷物をまとめて出て行った。悠貴は穏やかに彼を見送った。 渡部は本当にありがとう、と最後にもう一度言って笑った。 息ができるようだった。 例えばこの世界が全て水で覆われていて、人に何かされる度に一呼吸の酸素がもらえるとしたら。それはありがとうと言われることだろう。 ありがとうと言われる度、やっと悠貴は安心する。それはずっと昔からの事だった。 「あいつ、ちょろいな」 また誰かが小声で言った。 このクラスになった初日に担任になった数学教師は受験生の何たるかを四十分間延々と講釈した。 全くの沈黙の中、むしろ今まで朗らかに話していたクラスメイトの雰囲気は冷ややかにどこか緊張感を帯びたものへと変わった。 悠貴は誰かの放った嫌味を聞きながら、それをどうとも思わなかった。もし、自分がちょろいとしても、その後にまた誰かに頼まれごとをされても自分は拒まないだろうから。 けれど。 「馬鹿じゃねーの」 声で分かった。黒河が一言発した。 悠貴を見つめながら呟いた言葉だった。会話のエアポケットの中で思いのほか、その言葉は際立って聞こえた。悠貴は彼の視線に気付いたが、黒河はその冷ややかな視線を外さなかった。 少なくとも、二年前の時点で黒河は悠貴と一番仲の良かった。そんな彼に言われたその言葉に悠貴は絶望の底へと突き落とされたような気分になった。 これはきっと決まりだろう。 黒河は自分のことを嫌いなのだ。 いつからかは定かではない。最初から嫌いだったのか、それともどこからか嫌いになったのか。自分は何か黒河にしたのだろうか。 黒河は静かに視線を外すと、頬杖をついて窓の外を眺めるそぶりを見せた。 黒河の横顔を眺めながら、悠貴は誰にも気付かれないように息を吐いた。 呼吸ができると思っていたそばから、それをなくしたようだ。ゴポゴポと水の中に自分が溺れていく情景が思い浮かんだ。 自分はまだこの世界を上手く泳げない。そもそもこういうのはいつか上手くなっていくものなのだろうか。 *** 自分の部屋のカーテンの外はもう暗かった。父はまた今日も残業らしかった。燦然と光る星を尻目にして、悠貴は机上のライトをつけた。 悠貴はまた手帳を開いて、今日の借りをそこに記そうとした。えんぴつを持ってから、しばし考えてから今日は誰からも借りをもらっていないと結論づくと、少しだけ心が軽くなった。何も書くことがないことに気付くと、少し良かったと安心する。これは自分でもよく分からない習慣だと思う。 (そういえば) 悠貴は立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。衣装をかけられているハンガーを避けながら、奥にあるダンボールに手を伸ばした。このダンボールには過去の手帳が入っていた。 (おととしの手帳ってどこだ……) 毎年同じ手帳を買っているため、見分けがつかない。表紙に押された金押しの文字の年号を見ながら、一つ一つ悠貴は確かめていった。 (あ、これだ) 手帳を開くとニ年前の自分の受けた借りが列挙されていた。 今と同じように、自分の書く字体で細かく記されている。 ふと、ページをめくっていくと同じ名前を何度も見つけた。 黒河にペンを拾われる。(+1) 黒河に漫画を貸してもらう。(+1、累積2) 黒河にアイスを奢られる。(+1、累積3) 黒河に絆創膏をもらう。(+1、累積4) 黒河の辞書を借りる。(+1、累積5) 黒河の家で夕飯を振舞われる。(+1、累積6) 黒河に好きな映画に誘われる。(+1、累積7) 黒河にポップコーンを奢られる。(+1、累積8) 黒河にハンカチを借りる。(+1、累積9) その名前の多さに眩暈がした。 一年の時、自分はずっと黒河と一緒にいた。そして彼に悠貴は本当にたくさんの借りを作ったままだった。思えば、彼は自分にいろんなことをしてくれた。自分は彼からもらうばかりだった。何故ならいくら返しても、彼はそれ以上を自分にしてくれたからだ。 自分は彼にもらったこれらの借りを全て返せていたのだろうか。 返せていないから黒河は自分を嫌ったのだろうか。 悠貴はベッドに横たわると、今日悠貴を見た時の黒河の顔を思い出した。あんな冷たい顔を二年前の黒河はしていなかった。 目を閉じると、まだ少し背の低かった黒河が悠貴に話しかけてくる様子を思い出す。 高校生に成り立てで誰も知り合いがいないクラスで、彼はとても気軽に悠貴に話しかけてきた。 「俺、黒河な。 よろしく」 「あ、うん。 俺は弐羽悠貴。 よろしく」 悠貴がいつものように笑みを浮かべると、黒河はまだ中学生のあどけなさで笑みを返した。彼は純粋で素直で、明るい性格だった。 一方、高校一年生の時でも悠貴の性質は今と全く変わっていなかった。 しばらくそうして一緒に過ごすようになって、悠貴が人に頼まれごとをされるのを厭うそぶりを見せずにいると、黒河は不機嫌そうに悠貴に頼みごとをする生徒を注意したのだ。 「おい、山田。 お前、いつも悠貴にばかり掃除変わってもらってるじゃないか。 たまにはお前が変われよ」 悠貴は驚いて、黒河の言葉を制した。 「いいんだって、黒河。 俺、別にそんな嫌なわけじゃないから」 「は? なんで」 「うん、でもそうなんだ」 何回か頷くと、黒河は心底不思議そうに悠貴を見たのだ。 その後、「利用されるのが嫌じゃないのか?」と真っ直ぐな言葉でぶつけられた。だから、悠貴も真っ直ぐに答えた。 「俺も分かんないけど、利用されると安心するんだ」 自分の感覚が少しおかしいということは知っていた。だからそれを今まで口に出そうと思ったことは無かった。けれど、黒河にあまりにも普通に聞かれたからつい本音で答えてしまった。 黒河は一層不思議な顔をして、数学の難問を解くような顔で悠貴の顔を見た。 悠貴の顔にその謎の解など書かれていない。悠貴の心を覗けば分かるかもしれないが、黒河は悠貴の心は覗けない。 黒河はジッと探るように悠貴の顔を見つめ続けた。黒河はその後も何度かこの時と同じ視線で悠貴を見るようになった。 悠貴はその視線をなんとも思わなかった。 何か思うことがあるのかと思いながらも、黒河はその後も普通に接してきたし、悠貴を一番の仲の良い友達として扱ってくれた。 一年生として最後の登校日も、黒河は「クラスが分かれても友達だからな」と念を押して悠貴の肩を抱いた。悠貴も嬉しかったから、笑顔で頷いた。 そんな一年生だった時の思い出。そんな彼とは思えない今の態度。 自分は何を黒河にしたのだろうか。 next 主人公は難義系男子。 written by Chiri(9/25/2011) |