ネイキッド
ネイキッド(1)



 悠貴が生まれた瞬間、悠貴は大きな貸しを貸与された。
 それは生まれた時から未来永劫ずっと続く貸しである。まるで十字架のようにつきまとうものだ。



***



「落としたわよ」

 振り向くとおばあさんが悠貴を笑顔で見つめていた。彼女の手にはハンカチが乗っている。
 信号が青になり、周りの人ごみだけが動く。おばあさんは悠貴を見たまま、笑みを崩さなかった。

「あ……」

 ポケットを叩くと、確かにさっきまであった厚みがなくなっている。自分のものだと認識して、悠貴は顔に形だけの笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」
「いいえ」

 おばあさんはにっこり笑って、わき道を歩いていった。悠貴は渡されたハンカチをじっと見て、ため息を吐いた。
 人に助けられるのはいつでも苦手だ。自分は常に誰かを助ける側でいたかった。
 ハンカチを今度こそ落とさないようにかばんに詰め込むと、悠貴は横断歩道を駆けた。信号を三つ行ったところには坂があり、そこを上がっていくと悠貴の通う高校がある。
 桜道である。道脇に植えられた桜は今がまさに満開で、紺のブレザー姿の生徒達を鮮やかに彩る。
 今日から、自分はこの高校の三年生となる。受験や就職に立ち向かわなければならない、苦しい苦しい三年生だ。


 下駄箱に張り出された紙に悠貴は視線を移した。この高校における自分の学年のクラスは五つだ。自分は理系だからその内の三つのどこかのクラスに配置されるだろう。
 自分のクラスはすぐに見つけられた。一組だ。そのまま、視線をそらさず悠貴はクラスメートの名前を目で追った。

(あ)

 黒河 隼人(くろかわはやと)。
 一年の時に仲の良かった男子生徒だ。明るく元気な男で、いつも向こうから話しかけてくれた。悠貴は自分から積極的に声をかけるほうではなかったから、そういう男が自分の友達になってくれる事は有難かった。

(そういえば、一年生の時はまだ声変わりしていなかった……)

 成長が遅いのか、まるで中学生のような背丈でひょろりと背だけ高い自分の隣をキープしていた。自分が樹木だったら、確実に黒河の成長を妨げる影を作っていただろう。けれど、その成長の遅さが彼の明るさを揺るがした事はなかった。

 半年ほど前に黒河は悠貴の家に遊びに来た。その時点で彼は身長を高くしていた。あと少しで悠貴に追いつくだろう、と言った具合に。けれどそれからは一切遊んでいないし、メールも来なくなった。他に遊ぶ連れができたのかな、と冷静に悠貴は思っていた。

(でも、楽しみだな)

 年度の始まりとしては、珍しくて胸が高鳴った。


 教室に入ると、既に先に入った生徒達がガヤガヤおしゃべりを始めていた。行儀良く自分の席についている生徒なんて一人もいなかった。前の学年で同じだった生徒たち、部活が同じだった生徒たち。三年ともなれば、ある程度のネットワークが出来ていて然りである。
 目の前に同じ部活だった生徒が何人か同じ部活の男たちと席を囲んでいた。目があうと手を振られたので意気揚々と悠貴は右足を踏み出した。
 その時。

(あれ……)

 誰かと目があった。

(あ、黒河だ)

 半年振りにあった顔は、どこか少し大人びていた。背もまた伸びたのだろう。中学生のように見えていた頃の雰囲気が今では年相応に見えるようになっていた。艶やかな髪は全体によく伸びていて、少し前まで短く切っていた時と雰囲気が随分変わった。

「黒河、また同じクラスだな。 よろしく」

 悠貴がそう言って笑みを作ると、黒河の眉間に皺が寄った。悠貴は密かに驚きながら黒河の反応を待った。

「……ああ」

 かち合っていた視線が不自然にずらされる。
 まるで見たくないものを見てしまったような反応。悠貴は少なからず衝撃を受けながら、歩を進めた。
 先ほど、呼ばれた部活動の仲間の所まで行き、ストンと空席に座った。

「悠貴、初めて同じクラスだな」

 声を最初にかけてきたのは福場(ふくば)だった。同じバスケ部である彼は悠貴にとって最近では一番良く遊ぶ友達だった。
 福場は少し色の抜けた髪の毛をいじりながら、「今日の髪型決まってる?」と笑いながら聞いた。「うん」と悠貴が答えると、「だよなあ」と大声で返した。そんな親しげな彼の態度に安堵する。

 自分は黒河に何かしたのだろうか。
 まるで初めて会う人間に対するような態度。いや、むしろ嫌いな人間に対するそれかもしれない。だが、自分は黒河に何かした覚えもなければ喧嘩をした覚えも無かった。
 ふと、対角線上にある黒河の席に視線を飛ばした。

 黒河は悠貴を見ていた。
 少なくとも、悠貴が黒河を見た瞬間までは。しかし、黒河は瞬時に視線を外すと、近くにいる友達に朗らかに受け答えをしていた。
 あの笑顔。
 他の生徒にしているあの笑顔を、黒河は二年前、ひたすら自分に分け与えてくれていたはずだった。
 胸が苦しくなった。いても立ってもいられない気持ちになって、悠貴は必死にそれを抑え隠した。

 その日は始業式だけで学校は終了した。年度始めには部活は無い。その為、そのまま帰途に着こうとすると、背後から福場に声をかけられた。

「おーい、悠貴!」

 顔を振り向かせると、福場が自転車に乗った状態で悠貴の横に停まった。キキッと小気味良いブレーキの音が小さく鳴る中、福場が何かをカバンから出した。CDアルバムだ。
 はてなを飛ばしながら福場を見ると、福場は笑みを浮かべた。

「前うちに来た時、この歌気にいってただろ? 貸すから聴けよ」

 ああ、と思い出す。
 悠貴は掌に強引に乗せられたCDアルバムを見つめた。

「……ありがとう」
「いや、俺もめっちゃ気に入ってるから聴いて欲しいんだよね」

 そう言われて幾分か心が軽くなる。
 悠貴は自分の顔が引きつっていないか気になった。いつもそうだ。こういう時、どんな顔をすればいいか、悠貴にはちょっと分からない。

「そんじゃ、また明日な」

 福場は手を振ると、自転車を軽快に走らせていった。そんな福場を見送りながら、悠貴は心の中で呟いた。

(……かえさなくちゃ)

 借りたものは返さなくてはいけない。借りたものより大きくして返さなければいけない。
 まるで呪文のようにその言葉を頭の中で繰り返した。



***



 空が紺色より少し暗い時間、悠貴の家の呼び鈴が鳴った。
 悠貴は自分の部屋の机で勉強していたところ、顔を上げた。

 自分の家なのに、父は呼び鈴を鳴らす。悠貴は参考書を閉じると、腰を上げた。

「おかえり」
「……ああ」

 父は顔を上げずに、靴べらで靴を剥ぐ。悠貴は台所に行くと、学校から帰った直後に作った味噌汁を温めた。あらかじめラップしてあるしょうが焼きを電子レンヂに入れて、レンヂのつまみをまわした。
 父はスーツをハンガーにかけると、ダイニングテーブルに座った。悠貴は何も言わずに皿を並べた。

「今日から学校か」
「……うん」

 ダイニングだけ明かりをつけると、どこか薄暗い雰囲気が残る。けれど、父はそれでいいといつも言う。

「大変だったら夕飯作らなくていいんだぞ」

 父の言葉に悠貴は笑みを浮かべた。節目ごとに同じ事を言われる。その度に悠貴も同じ事を答える。

「でも好きだから」
「そうか。 ……もう受験生だな。 進路は決まってるのか」

 父は箸で白米を掴んで、口に放り入れた。奥歯で何度も噛んで、飲み込む。

「……考え中」

 悠貴は静かに笑った。

「そうか」

 父はそれ以上しゃべらずに、夕食を続けた。あとは父が自分で皿を洗うし、ずっと近くにいても父も気を使うだろう。ただでさえ、最近は残業続きで疲れている。
 悠貴は席を外すと、二階に上がって、自分の部屋に戻った。既に風呂には入ったから、スウェットを着ている。寝れば、すぐにでも日は明けて、明日が来るだろう。

 けれど、その前に。

 悠貴は自分の勉強机に腰掛けると、ブックエンドに立てかけてある手帳を開いた。この手帳には日々の日記を書く欄が存分にある。悠貴はいつも手に取る鉛筆を右手に持った。
 そこに、悠貴はいつも書くのだ。

 それは人に借りを作ってしまった事柄の羅列。

 今日は、朝、おばあさんにハンカチを拾ってもらった。福場にはCDを貸してもらった。
 箇条書きでそれを書くと、悠貴は深くため息を吐いた。

 今まで毎日これを書き続けた。
 例えば、〜に飴をもらったこと。〜に消しゴムを貸してもらったこと。〜に財布を拾ってもらったこと。
些細なものから大きなことまで。
 もらった借りは返したい。
 福場には本人に返せばいい。けれど、今日のようにもう会わないだろう人にはどう借りを返せばいいのだろう。

 物心ついてから、――そうおそらく小学生に上がった時に父は初めて悠貴に告げた。

「もしお前が冗談でも『死にたい』と言うだけで俺はお前を軽蔑するだろう。 それだけは絶対言うな。 母さんが可哀相だから」

 その瞬間、自分は生まれたときから借りがあるのだと知った。

 母はこの世にはいなかった。自分が生まれた瞬間に亡くなった。母体が無理で赤子だけ助かるというケースが現代の進化した医療でも確かにあるのだ。

 それはそう簡単には返せない借りである。自分は母の命と引き換えに命をもらった。けれど、母はこの世にいないのだ。
 悠貴は一体もらった借りを誰に返せばいいのだろうか?
 それはずっと思っていた事だった。答えはまだ見つけてはいない。きっとこれからの人生で見つけないといけないことなのだ。





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人に迷惑をかける事が罪悪だと信じる故に損得勘定主義な主人公。数学に強いです。
written by Chiri(9/25/2011)