いつでも被害者(3) 窓の向こうのグラウンドでは、1年生が体育をしているらしい。掛け声が聞こえてきて、なんとなく見下ろすと、耀がグラウンドを走っていた。 「あ、あかるだ」 機嫌良さげに彼の姿を追いかけていると、後ろの席にいた橘は呆れた顔をした。 「お前、まだアイツに構ってんの?」 「え? 構うってわけじゃ……」 自習なのでおしゃべりしていても誰も文句は言わない。そもそも教室自体女子の話し声でガヤガヤと騒がしい。 「いや構ってるだろ」 橘はどうでも良さそうにシャーペンをカチカチと鳴らした。 確かに不思議だ。秋介に不穏な様子で近づいてきた女子は数知れない。けれどこちらから近づこうと思ったのは初めてかもしれない。 「男だからかな? 誤解が解けたら、友達になれるかなって思って」 秋介がへへっと笑うと、橘は一層目を細くした。 「俺は変人にはかかわらないのが一番だと思うけどね」 その様子に「冷たい奴だなー」と呟きながら秋介は頬杖をついた。 橘の言葉は正しいかもしれない。平穏に過ごすためには争いや災いから自分を遠ざけるのは一つの手だ。 けれど、もはやこれは運命だと秋介は思っていた。自分は変人に好かれる運命なのだから、それを無視するよりも享受した方が人生が明るくなるような気がした。 もちろんそれはおそらく橘には分からない考え方だろう。 「大体お前が構いすぎだからじゃねーの。 変な奴がお前を好きになるのって」 「へ?」 橘も窓の下にいる耀に目を向ける。 「結局お前が嫌だっていう態度とらないから悪いんじゃね?」 ちょっとムッときた。秋介は基本平和主義だし、どんな人間にも友好的な姿勢で居る。けれど橘は厄介ごとには関わりたくない主義だ。悪く言えば排他的だ。 「いいんだよ、別に」 チャイムが聞こえたので、秋介は話を切って席を立った。「ったく」と橘がひとりごちる声が聞こえたが、秋介は無視した。 昼休みのうちに耀に聞きたいことがあるのだ。 更衣室から出てくる耀を捕まえると、耀はあからさまに嫌な顔をした。生ゴミでも見るような目つきだ。 上の学年がたずねてくることが少ないせいもあるだろう。何故かとても目立ってしまって、その為か耀の不機嫌はとまらない。 「何だよ」 耀は疑念を抱いた瞳で問いかけてきた。しかし秋介が答えるより先に耀は答えを出していた。 「わざわざ体育のあとに来るなんて相当な変態だな」 「え、なんでそうなるの」 しかも間違えまくりな答え。全く、いまだこの誤解は解けないものか。 秋介がふぅっと深く息をつくと、耀はチッと舌打ちした。 「じゃ、他になんだよ」 「いや、こないだの傷治ったかなって思って」 「そうやって触るつもりなんだろ、この変態」 「違うってば。 ほら、保健室行こうよ」 毒づきながら、それでも秋介と一緒に保健室についてくる。勝負の勝ち負けで上下関係ができたなんてことは、実は耀くらいしか意識していないというのに。 保健室に入り、中を確認する。保険医がまた居ないのが分かると、耀が頬を膨らませた。 「なんでいつも保険医いないんだよ」 「知らないよ、いいからお腹見せて」 秋介がシャツをめくろうとすると、光の速さで振り払われた。 「いい、自分で見せる」 少し羞恥心で赤くなった顔で、耀は自分のシャツに手をかけた。戸惑いを伴った所作に何故か秋介は喉を鳴らした。白いシャツをめくった先にそれさえも凌ぐ白い肌が露となる。けれど、あばらに近い箇所は少し赤みがかっていて、淵が青い。 「でもちょっとはよくなったかな」 この間は完全なる青痣だったから。 「もういいだろ」 「待って、湿布」 慌てて、戸棚の中を漁りに行く。耀は肌を見せながらのポーズでぎゅっと口をかみ締めた。 「いいだろ、……勝手に治る」 「せっかく綺麗な肌してるのに、もったいないじゃないか」 「お前は……」 耀はキッと秋介を睨んだ。ひらりと手でめくっていたシャツが落ちる。 スパァン 気持ちの良いほどの平手打ちに秋介は瞠目した。痛さよりも痺れが先に来る。 今、鏡で自分の顔を確認したい。絶対に真っ赤な紅葉が顔面を占めている。 「俺は女じゃない」 綺麗な肌、と言ったのがいけなかったのだろうか。湯気がたちそうなくらいに怒る耀はそれはそれで美しい顔をしている。 秋介は左頬をさすりながら、涙目で返した。 「女だなんて思ってないよ」 「男なのに綺麗な肌とか言われたくない」 「でも本当の事なのに」 耀は口を結んだ。こんなに美しい顔をして、何をコンプレックスに思うことがあるか、と秋介は思った。 「親にもらった体なんだからさ、大事に使いなよ。 男とか女とかそういうんじゃなくて」 秋介がそう言うと、耀は降ろしていた拳をぎゅっと握り締めた。 ビンタをくらったところで、不思議と怒りはこみ上げてこない。いつもの不運だと片付けてしまえばそれだけだが、耀はまるで戦場で傷を負った兵士だ。自分を守るためだけに人を傷つけている。他人を見る余裕も体力も無いのだ。それはどこか不憫な人間に見える。 ツーッと秋介の頬から何かが流れ落ちる。耀は秋介の顔を見ると目をぎょっとさせた。 「血が……」 やっと我にかえったように耀は秋介の顔を凝視した。サーッと青ざめていく顔は夜の海のように冷たそうだ。 そういえばこうなったのも2回目だ。 「ちょっと待って」 言いながら、秋介は自分の頬の傷を手際よく消毒した。この保健室には諸事情で何度も来ているので慣れたものだ。 秋介は保険医の机の一番目の引き出しを開いた。中に身だしなみ検査用の爪きりがあるという事はもうずっと前から知っている。 「耀、そこに座って」 耀は言葉も発さずに言われたとおりにした。その対面に秋介が座ると、秋介は耀の手をとった。 「何」 「何って、爪切るんだよ。 前も思ったけど、耀、爪伸ばしすぎじゃない? 叩かれるとそれで切れちゃうんだよ」 耀は屈辱的に口を結んだ。耀の手を見ると、これは伸ばしているのではない、と気づいた。 (あ、これ……切るのが単にへたくそなんだ) まるではさみか何かで切ったように右側と左側をカキンカキンと直線状に切られ、そのせいで中央部分が必要以上にとがっている。これはもはや凶器だ。 「耀、やすりを使うんだよ」 爪切りのやすり部分を使って丁寧に一本一本磨きかけていく。耀の手を触っていて、手も男子にしては意外と小さいことに気づく。細く骨ばった手の甲は小さな傷が多く、腹の白さと比べると少し色が濃く、くたびれていた。 そのまま握り締めたい衝動に気づき、慌ててその手を離した。 耀が訝しげに目を細くした。 「もう終わりか?」 「あ、うん」 ティッシュに切った爪を包み込む。耀をそれを目で見届け、眉を顰めた。 「それ、どうするつもりだよ」 「また疑ってるの? ちゃんと捨てるって」 耀の目の前でティッシュに包んだ爪をゴミ箱に捨てると耀はやっとホッと息をついた。一体あんな爪のカスでどんなことができるというのか。逆に本当の変態に聞きたいくらいだ。 不意に耀が口開いた。 「お前って用心深いんだな」 え、と秋介が聞き返す。 「でもどんなに普通を装っても分かるんだからな、俺は」 どうやら疑惑はまだ晴れていないらしい。 耀は難しい顔のまま、秋介を見つめていた。 (でもそれってそれだけ耀が俺に執着してるってことだろ) ポジティブなのか捻くれているのか分からない考えが秋介の頭に降りてきた。 どうでもいい人間が自分のことを好きだなんてきっと思い込まない。 例えば刑事が「容疑者はこいつだ!」って思い込んだ時の雷が走るような衝撃。よく分からないけれど、こちらとしては意識が全部自分に向いているような気持ちの良さがあるのかもしれない。 だから、耀がこんなに困ったことを言っても、自分は怒りが微塵も出てこないのかもしれないな、と秋介は結論付けた。 next 爪切り下手萌え…… written by Chiri(5/8/2010) |