我慢はできません(3) 今夜も一悟はげっそりと青白い顔をしていた。 もはや毎日行われる性行為は一悟の生気を奪っていた。奪われたと言うからには隣にいる男は生気を吸っていた。つやつやとした肌で、今日も穂積は満面の笑みだった。人生全てにうまくいっているような挑発的な表情だ。 「で、あれからどうなんだ? 付き合っているのか」 マスターには何故か初めて会った日に貞操を奪われたことがバレていた。いや、バレていたも何もない。穂積は当然のようにべらべらと舌を滑らす。 「野暮なこと聞くなよ。 めくるめく官能の日々だよ」 にやりと野生的な笑みを浮かべる穂積。 一悟はうんざりした。 「もうさ、なんでそういうことマスターに言うんだよ」 「いいじゃん、事実なんだから」 当たり前のように言う穂積。 「事実じゃない。 俺たちつきあってなんかないじゃないか」 一悟は顔を俯けた。そしてボソリ。 「……俺は可愛い彼女見つけるんだ」 マスターはプッと噴出した。穂積に「なんだ、お前。 まさか勢いだけで突っ走ってるのか」と笑う。穂積は顔を真っ赤にして、反論する。内心、ざまぁみろだ。 「なんだと、イチゴちゃんのくせに生意気だぞ」 「イチゴじゃない」 「どこがだ。 お前は一目見たときから俺のイチゴちゃんだ」 まるで一悟をぬいぐるみか何かと勘違いしているようなその発言も腹立たしい。穂積は一悟を見るなり、怒っていた顔が次第にとろむ。穂積は自分を好きなのか、それとも変態だからなのかもうわけがわからない。 穂積は一悟の頬に触れる。 「昔はなかったそのヘタもまた可愛い」 「ヘタ?」 「あ、眼鏡のこと」 ゾゾッと悪寒が走る。穂積には一悟が本当に果物か何かに見えているらしい。一度、大きな病院で検査をしてもらった方が良い気がした。 「もうやだ、お前本当変態すぎる。 怖い」 「へ? 今更気づいたのか。 お前がそうさせたんだろ」 「なんで俺が。 大体最初からお前は変態だった」 「またまた」 「絶対! お前は! 最初から! 変態だった!」 (ここは譲れない!) そう思って大きい声で言ったら、一悟の顔が真っ赤に熟す。それを見ていた穂積は「あ〜〜〜もう」と奇声を上げた。そうしてマスターと目をあわせながら、口をパクパクさせた。 「な? ほら? 可愛いだろ? やばいだろ?」 「うーん、これはドローかな」 引き分け、と両腕を伏せられて、一悟はポカンと口を開けた。 (ひどい。 皆、ひどい) 一悟の肩を無理やり抱いて、穂積は微笑む。「俺のイチゴちゃん」と語尾にハートをつけて一悟を呼ぶ。その度に一悟の心が凍りつく。そんな穂積の態度を見てもマスターは何も言ってくれない。一悟に同情するそぶりも見せない。 (ここは所詮俺のテリトリー内じゃないもんな……) ふと泣きそうになっていると、穂積が席を立った。トイレに行った隙に逃げてしまおうかとふと頭をよぎる。けれど、一度前にそれを実行しようとしたら、穂積がすごい形相で追いかけてきたことがあるのだ。 『イチゴちゅわああああん! 逃がさないぞおおおお』 あの時はとってくわれるかと思ったものだ。あれから下手に逃げようとするものなら、穂積を刺激しかねないとおとなしくしている。凶悪犯に人質にとられたような心理だった。 正直あんな恐ろしい想いは二度と体験したくない。大体人ごみの中であんな風に叫ばれ、追いかけられるなんて平気なのは穂積だけだろう。 ハァとため息を吐きながら、べそをかいているとふとカウンターに影が落ちた。目線だけあげると、見知らぬ男性が一悟の隣に陣取っていた。 マスターがそれに気づき、忠告する。 「ちょっと、高梨さん。 この子はやめときなよ」 高梨さん、と呼ばれた男性は白髪交じりの銀髪を綺麗に後ろに流しており、品の良いスーツを着ていた。ワイン色のマフラーを縦に沿わせて、なんだか大人の装いだった。少し皺が刻まれたその顔には、紳士の笑みが浮かばれていた。 「いいじゃない? 少し話すくらい」 高梨さんは落ち着いたしゃべり方だった。穂積とは比べ物にならないくらい物腰が柔らかだ。 「君はノンケなのに、彼は優しくないんだね」 「ノンケ?」 専門の言葉を言われたようで、首をかしげる。高梨さんは少しだけ目を細めて、一悟を眺めた。その優しげな目線に一悟は何故か見守られているような気分になる。そして、少し懐かしい気持ちも呼び起こされる。 「君はさっきの彼にこの道に無理やり連れ込まれちゃったのかな?」 男は乱暴で品がなくてデリカシーも皆無。そんなイメージを高梨さんからは感じない。 一悟は脳内で目の前の彼を無害と仕分けると、無邪気に笑みを浮かべた。 「そうなんです、俺、あいつに巻き込まれてて」 「可哀想に。 君の意見なんて聞いてくれなさそうだったよね」 「そうなんですよ」 一悟の心でも読んだように口を割る彼との会話に一悟はうっとりとした。言葉のキャッチボールとやらを久々にちゃんとしている気になる。 穂積と一緒だと基本振り回されっぱなしだったから。 「ほら、高梨さん。 そろそろ穂積帰ってくるぞ」 マスターが睨むと、高梨さんは肩を竦めた。店の外にあるトイレから穂積が出てくると、穂積はすぐさまこちらに目線をやる。 そうして、高梨さんを見つけるなり、「あ! この野郎」と言いながらズカズカと闊歩する。 「おっと、彼が怒ってるね。 なんかあったら連絡ちょうだいね、相談にのるよ」 そっと耳打ちされると、名刺を胸ポケットに入れられた。一悟は素直にうなずくと、間に穂積が立った。 「こいつに手を出すなよ」 ガルル、とまるで猛獣だった。もはや穂積が虎かライオンにしか見えない。さしづめ一悟はなつかれた飼育員か小動物か。 高梨さんは笑顔を崩さないまま、立ち去り、一悟はその後姿を名残惜しそうに見送った。 そうして隣に残るは不機嫌な猛獣。 「お前、浮気すんなよ」 「浮気じゃない」 ぎろりと睨まれた。 「大体、お前あーいうのが好きなのか。 枯れ専かよ」 ひどい言い草に一悟は唇を尖らせた。 「お前のせいだろ」 穂積は顔をしかめた。つい一悟はぽろりと本音を言ってしまった。だって一悟は男が苦手なのだ。 「お前みたいな野蛮でデリカシーの無い男が嫌いだから」 一悟の口が珍しく滑らかに開く。 「だから、余計にあーいう男がかっこいいなって思うんだよ……」 穂積は反論しようと口を開けたまま、何も言わない。 「……俺は穂積のせいでこうなったんだよ」 そう一悟が言うと、穂積は変な顔をしていた。むすっと手を顎に置きながら、そのまま口を閉ざしてしまった。反論が無いなんて珍しいな、と一悟が思っていると、それでも穂積は一悟の肩に手を置き、引き寄せる。 まるで子供の我侭だと自覚していても、一悟をそばに置いて欲しい様子だった。 そうして、その日は穂積の魔の手から逃げ出せて、一悟は久々に自宅へと帰った。 ポケットに入っていた名刺には電話番号が書いてあった。それを見てもどうも思わなかったが、一悟は少しだけ笑みを浮かべた。名刺をお守りのように感じたのだ。 一悟は職場でも年老いた患者、特に男性の看護をするのが比較的好きだった。男性が苦手だと豪語する一悟にとって、年配の男性は彼の祖父を思い出させた。 いつも穂積にいじめられて、涙の痕をつけたまま帰る一悟に祖父はいつも優しく穏やかに寄り添ってくれた。 『じいちゃんは一悟が大好きだぞ』 そうやって昔、慰めてくれたのはいつでも祖父だった。 だから男性でも年配の男性は一悟は怖くなかった。そして、祖父に似た高梨さんもまた、怖く感じなかったのだ。 年配の男性が好きになったのは、元はといえば穂積のいじめがきっかけだった。 next 枯れ専受け。包容力に飢えているタイプ。 written by Chiri(10/28/2012) |