我慢はできません(4) 次に穂積に会ったとき、穂積は珍しく無造作な髪の毛をまとめ、ワックスで後ろに流していた。そうしてスーツも身につけていた。その姿に一悟は少しだけドキッとした。 「……どうしたの、今日」 「ああん? お前が枯れ専だから、少し大人っぽい格好してきたんだろ」 仕事でもないのにスーツなんてめんどくせーな、と穂積は呟いた。 枯れ専と言われるのは納得がいかなかったが、穂積のスーツ姿は思いのほか、見慣れなかった。その見慣れなさが胸の鼓動を早める。 「……なんか今日の穂積、穂積じゃないみたい」 そう顔を俯けて言うと、マスターが「おっと、まさかの高評価か」と口笛を吹いた。高評価だなんて口に出して言っていないのに、見透かされてしまい、一悟はマスターを睨んだ。 マスターは笑いながら「イチゴちゃんの睨み、可愛いな」と笑っていた。何故かマスターにまでイチゴちゃんと呼ばれ始めて一悟はうんざりとした。しかし、想像に反して、嫉妬深い穂積が怒らないのを不思議に思っていると穂積は口をへの字にして黙っていた。 「……穂積、今日も機嫌悪いの?」 「バカ、悪くねーよ」 「ふーん?」 穂積は「くそっ」と呟くと突然、立ち上がった。一悟は驚いて穂積を見たのだが、穂積は一悟を手から引っ張りあげると、「ちょっとこい」と言った。マスターはブフッと噴き出した。マスターはまるで何もかも分かっているようだった。 店のトイレの個室に連れこまれて、いきなりキスをされる。 「んー!」 一悟は驚きながら、穂積を両手で遠ざけた。穂積は我慢の限界とズバリ顔に書かれたような表情で、一悟を見つめていた。 「ちょ、穂積」 「抱かせろ」 吐く気荒く、抱きしめられる。 一悟は目を見開いた。下半身に固い何かを押し付けられる。最悪だ。 「や、やだ」 「お前が悪いんだろ、俺のこと挑発した」 最悪だ。一悟は何もしていないのに。 「してない」 「いや、した」 そう言いながら、服をめくりあげて、舌を這わす。 「あ……」 一悟の乳首をつまみあげながら、「ここにも苺見っけ」とかじる。 一悟は顔を真っ赤にしながら、頭の中をぐるぐると駆け巡る。 (最悪、最悪、最悪) こんなトイレでされるなんて最悪だった。 (やっぱり、穂積はひどい) 涙目になりながら、幼い頃からの穂積、そして大人になってから現れた穂積が頭の中を流れて行く。 昔はいじめられた。その時も一悟が悪い、と穂積は言った。いじめられる方が、いじめて欲しそうな顔をしている。それがいけない、と。 そうして、今もまた同じ論理で言っている。 一悟が挑発したといって、こんなところで無理に抱こうとしている。 結局何も変わっていないのだ。何ひとつ、穂積は変わっていない。 穂積がズボンに手を入れてきたその時に、一悟は穂積を突き飛ばした。 「やめろって!」 思いのほか、力が入ってしまって、穂積が個室の壁にバランスを崩す。その隙に一悟は逃げ出した。穂積が、理性に負けた猛獣が、追いかけてくるのは分かったが、一悟は全速力で逃げ出した。店を避けて、裏の通路から逃げようとすると誰かにぶつかった。 「あ、すいませ」 「あれ? 一悟くん?」 一悟はハッと顔を上げた。 そこには高梨さんが立っていた。 高梨さんは一悟の乱れた衣服を見て、眉を顰めた。一悟は顔を真っ赤にしながら 「や、見ちゃダメです」 と涙目で言った。高梨さんは目を細くする。そしてしばらく二人の間に沈黙が降り立った。 一悟が痺れを切らしてそのまま逃げようとすると、高梨さんが手でとめた。 「……えっと、一悟クン? とりあえず、服なおそっか? ほら、僕についておいで」 その優しそうな笑みに一悟は祖父を思い出す。その面影に返答するように、一悟はうなずいた。 そこはどこかのギャラリーだった。高梨さんに連れられて足を踏み入れると、よく分からないオブジェと壁にかけられた絵が飾られていた。正直、一悟には一切値打ちが分からないような抽象的な芸術品ばかりだったが、高梨さんは少しだけ誇らしげに説明した。 「ここね、僕が趣味で経営してるギャラリーなんだけど、いいでしょう?」 やはり何も分からないまま、それでも高梨さんの気分を害さないように一悟はうなずいた。 「やっぱり、男なら綺麗なものは集めたくなるよね」 高梨さんに連れられて奥に通される。細い通路を通って、最奥にあった小部屋の扉を開ける。その瞬間、一悟は言葉を失った。 そこはコンクリートで打ち付けられた、灰色のスタジオ。そうして、壁に貼られていた写真を見て、一悟は目を見開いた。 裸の男の写真。局部の写真。縛られた男の写真。皆、瞳の光を失っている。 危険を察知して振り返ると、ガシャン。扉の閉められる音がした。 高橋さんはやはり穏やかな笑顔のままだった。 「驚いた? どうかな? 僕のビフォアアフターコレクション」 (うわぁ、穂積の上をいく変態さんだ……) 絶望感が満ちる。 「でも、一悟クンが悪いんだよ? そんな無防備なんだから」 その笑顔と裏腹の言葉を投げかけられて、一悟は何を言っていいか分からなくなった。だまされた、と気がつくと、顔の色を失った。 「あの、俺、こういうのはちょっと」 「君の意思は関係ないんだよ」 そう言うと、高橋さんは笑顔のまま近づいた。一悟が逃げようとすると、腕を掴まれる。振りほどこうにもほどけないほどの力。一悟は驚いた。 「服が邪魔だね」 そう彼が言うと、次の瞬間、視界が裂けた。否、一悟が着ていたシャツがやぶかれたのだった。一悟は真っ青になって、肩を震わした。 「あの、俺、本当にこういうのは」 涙目になりながら、喉を震わす。 (優しい人だと思ったのに) 裏切られた、と思ったが、違う、そうじゃない。自分があまりにも馬鹿なせいだった。自分は人間の本質を見抜けない。だから、先入観で思い込む。若い男が怖くて、年配の男性が優しい、と。そんなわけない。人にはいろんな人がいるのに。そんなわけないのに。 「可愛い顔。 僕はね、苦痛に歪む顔が好きなんだよ」 そう言いながら、腕を一つにくくられる。そのために誂えたような鎖をつけられて、高梨さんが一悟の上に覆いかぶさる。 ズボンを取られ、下着も取られてしまう。冷たいコンクリートが肌に触れて、体温を奪っていく。すっかり萎んでしまった一悟の局部を高梨さんはカメラに収めた。 「ふふ、これが事前の写真ね」 意味が分からず、脚をそろえて隠そうとする。けれど、高梨さんが脚を開いて、カメラを向ける。 それは、今までで感じたことの無い恐怖だった。本当に人の意思を無視するということ。意思以上に体の自由も奪われるということ。 「本当……やめてください」 「そんなこと言ってきっと君も気に入ると思うよ」 そう言うと、高梨さんは指を一悟の奥に滑らす。一悟は息を止めた。 その時。どこかでガシャン、という音がした。高梨さんが眉を顰めて顔を上げた。 (まさか……) そうしてドタドタと走り回る音。部屋の扉が開けられる音が順々に近づき、そうして最後にこの部屋の扉が開く。 「カズサト!」 初めて本名で呼ばれたかと思った。 一悟は自分の目を疑った。 スーツ姿の彼はせっかく整えたはずの髪の毛を振り乱し、肩で息をしていた。 穂積はスタジオで襲われる一悟を見るなり、ギンと目を光らせた。 「今くらい昔の自分に腹立った瞬間はないぜ」 そう言いながら、穂積は突進してきて、一悟の上に乗っていた変態男を蹴り飛ばした。高梨さんは壁に打ち付けられる。そうして、穂積は倒れた高梨さんの胸倉を掴むと、もう一度ズドンと拳を埋める。高梨さんは蛙が鳴くような声を出して、動きを失った。 そうして呆然とする一悟の方を振り向く。気絶した高梨さんを指差しながら説教される。 「アレ見たか? こいつはなあ、ハメ撮りコレクションをご丁寧にビフォアアフターにわけて撮影しているような下種野郎だぞ」 一悟は素直に頷いた。初めて穂積の存在をこんなにも必要だと思った。 「お前なんてすぐだまされちゃうんだぞ」 もう一度頷く。言葉が出なかった。けれど、穂積の顔を見たらダーっと滝のような涙が流れてきた。それは安堵の涙だった。 いつの間にかこんなに穂積に心を許していたことに今気づく。 穂積はあまりにおびえる一悟に顔を顰めた。 「……おい、お前大丈夫か」 一悟は首を横に振った。小さい震えはとまらない。 「大丈夫じゃない。 だってシャツが、シャツを」 穂積は一悟の服を見ると、舌打ちをする。一悟は裸も同然だった。 「だってシャツをさ、やぶくんだよ? 信じられない、俺、やぶかれたことなんて人生で一回もない」 「そりゃ、普通はないだろうな」 「死ぬほど怖かった……」 わーん、と言いながら、穂積に抱きつく。穂積は一瞬固まって、ポンポンと背中を撫でる。 「ほら、俺の上着着ろ」 穂積は聞いたことも無いような優しい声音だった。いつもそうあってくれればいいのに、と心の中で呟く。人の本質なんて人はそう簡単に見せないのかもしれない。けれど、こうやって些細なところにそれらはちりばめられているのかもしれない。 穂積は一悟に上着を羽織らせた。嗅いだことのある穂積の香りに、一悟はやっと息を深くつけた。 「こんな胸糞悪いところは出てって、俺んち行くぞ」 「穂積んち」 一悟はつい疑った目線で穂積を見つけた。さっき、同じ方法で高梨さんに連れ出されたばかりだったから。 けれど、穂積は一悟の頭を撫でただけだった。 「なんもしねーよ。 お前、怖がってるだろ。 今は我慢してやるよ」 一悟は疑いを向けて少しだけ後悔した。人の本質をやっとひとかけら拾えた気がした。 穂積はもしかして優しいのかもしれない。 そのまま彼の家に連れられて、部屋に入った途端、穂積に抱きしめられる。抱きしめられたまま、動かなかった。 「もう勝手にいなくなるなよ」 それは不思議な感覚だった。 穂積は怖いものなしだと思っていた。人の気持ちなんてどうでもいい。一悟が何を言おうとかまわない、そんな傍若無人な人だと思っていた。けれど。 ふと、最初に会った日の記憶が舞い戻る。穂積は街で一悟を見かけると、迷いなく声をかけた。 『カズサト! お前、一悟だよな』 そういう彼の目は何故か潤んでいた。否、潤んでるどころではなかったのだ。ボロボロと次から次へと大粒の涙を落としていった。 その時一悟は穂積と15年ぶりに会ったのだ。一悟が穂積の顔を忘れられなかったように、穂積も一悟の顔を忘れていなかった。 『なんでお前、あの時勝手にいなくなったんだ』 彼の言葉を聞いて、一悟はもう長らく忘れていたことを思い出した。最後は逃げるように彼の前からいなくなった幼い自分のこと。親の仕事の関係で、一悟は彼の住んでいた町から引っ越した。誰にも知らせずに、穂積にも一言も言わずに。その時はそれが唯一できた抵抗だった。 『もう、逃がさないからな』 そう言ってガッシリ抱きしめられたあの瞬間。一悟は穂積を可愛いとどこかで思ってしまった。 彼はその後の会話で言っていた。別にずっと忘れられなかったわけじゃない、と。けれど彼がつきあう人はいつも根本に一悟がいた、と。それを聞いて一悟は許してしまったのだ。 穂積を許す。そんな途方もなく難しいと思われたことを一悟は彼と会った最初の日に、いとも簡単にしていたのだった。 だから一悟は気を許して、酒に酔って、彼と寝てしまった。 それが最初に会ったあの日の出来事だった。 一悟は目を瞑り、穂積の背中に手を添えた。穂積は一悟を抱く手に力を入れて、そのまま二人が一つの固まりになったまま、しばらく立ち尽くした。 そうして、そのまま半時ほど時間が経過すると、ふと岩のように動かなかった穂積がムクリを顔を上げた。一悟は首をかしげた。 「どうしたの」 「もういいだろ」 嫌な予感がした。 「……何が」 「俺も結構我慢したからもういいだろ。 抱かせろ」 一悟は口を曲げた。 「最低」 「うっせー、俺は愛があるんだからいいだろ」 穂積は大真面目にそうのたまう。一悟は穂積を眺めながら、頭で考える。 「まぁ、確かに笑いながら襲われるよりは、穂積の方が分かりやすいし、ある意味心の準備もできて」 「ってそうじゃなくて」 穂積は一回り大きな声で言った。 「俺の方があいつよりお前のこと愛してるってことだろ」 そう言いきると、突然穂積は顔を赤くした。苺のように真っ赤な顔で、口をへの字に曲げる。一悟はそんな穂積を見たことが無かった。 「……愛してるんだったらなんで我慢できないの」 「……愛してるから我慢できないんだろ」 一悟がジトーと穂積を見ると、穂積は 「あー! わかったよ、我慢すればいいんだろ。 分かったよ、分かりましたよ。 俺はお前のことを愛してるんだもん、こんなん簡単だぜ」 と言って、その場で胡坐をかいた。穂積は真っ赤な顔を両手で塞いで、「あー、愛し方が分からない!」と頭をくしゃくしゃに掻いていた。 一悟はプッと吹き出した。なんだか少しだけ可愛いと思ってしまったのだ。また脳が判断ミスをしているのかもしれない。 そうして、一悟は少しだけ考えてから、 「穂積はシャツやぶかないよね……」 と穂積の袖を掴んだ。 「ああ?」 穂積は不器用そうに返事をする。一悟は穂積を下から見上げた。 「優しくシャツ脱がしてくれるなら、……いいよ」 一悟がそう言うと、穂積は固まった。口を開けたまま、「お前そういうこと言っちゃうとしらねーからな」とブツクサ呟く。そうして彼は一悟に抱きついた。何度も角度を変えてキスをしながら、服を脱がせる。その手がゆっくりで、慎重だったから、一悟は薄く目を開けて思った。 (俺、今、たぶん愛されてる) 彼の本質が少しだけ見えた気がした。一悟は自分の心が温かくなっていくのを彼の腕の中で自覚した。 朝、起きると隣には幸せそうにいびきをかいている穂積がいた。一悟はいつぞや決めていた人生の目標を思い出す。 穂積を赤い顔で『ぎゃふん!』と言わせること。 赤い顔にはさせることができた。もうそれは満足だ。 けれど、まだぎゃふんとは言わせていないな、と冷静に一悟は思った。目標はやはり達成させたい。 一悟は、穂積の肩をつつく。穂積は「うーん?」と目を閉じたまま、手で宙を探る。一悟の顔を見つけると頭ごと引き寄せて唇にキスをした。一悟はそのキスに応じながら、耳元で囁く。 「穂積」 穂積は目を薄く開けた。 「……ああ?」 「ねぇ、ぎゃふんって言ってみて」 眠気が吹っ飛び、穂積の頭が冴え渡る。一悟は少し残念に思いながら、もう一度お願いした。 「ぎゃふんって一回言わせたかったんだ。 言って」 「はぁ? 意外にお前子供っぽいんだな」 「うん」 穂積はやれやれ、といいながら体を起こす。一悟はわくわくしながら携帯を取り出して、背中に隠した。 穂積は一悟の顔をじっと見た。 「……そのかわり、お前も俺のことを好きって言えよ」 少し恥ずかしそうに奴が言う。 (どっちが子供っぽいんだか) 一悟は心の中で笑いながら、神妙に頷いた。穂積は小さく咳払いする。 「ほら。 思う存分聞けよ」 そして。穂積の口が大きく開けられる。 「ぎゃふん」 一悟は一言一句聞き漏らさなかった。 これで一悟の念願は果たせたわけで。一悟はご満悦で、穂積に「好き」と囁いた。穂積は嬉しそうに「俺も」と言う。 一悟はあれほどいじめられていた穂積を好きになることなど無いと思っていた。けれど、口から発したその言葉には一悟の素直な気持ちがこめられた気がした。 一悟の心はこれにて晴れたのだ。 そうして次の日、こっそり録音していた穂積の「ぎゃふん」を一悟のアラーム音にして嫌がらせをしようと思っていたら、こっそり録音されていた一悟の「好き」が穂積のアラーム音になっていて、二人はちょっとした喧嘩をしたのだった。 おわり 「驚いた? どうかな? 僕のビフォアアフターコレクション」←すごく突っ込みたい台詞だった。(そこかよ) written by Chiri(11/5/2012) |