我慢はできません
我慢はできません(1)



 その夜、塚田 一悟(つかだ かずさと)は夢の中で幼い自分を見つけた。
 一悟は小学生の頃、いつも同じクラスのクラスメイトにいじめられていた。幼い頃から恥ずかしがりやで赤面症だった一悟をいつもからかっていた男子がいた。その男子に「お前、本当に男かよ」とか「女なんじゃねーの」とか「男だって言うなら脱いでみろよ」とか言われながら、いつも反論ができなかった。
 そんなことない、というだけのその言葉が口から出てこなかった。言葉を紡ぐ機能がまるごと取り払われてしまう感覚だ。いつも、一悟は真っ赤な顔で泣き出して、その場に蹲るのだ。すると、その男子は「イチゴみてー」と大声で笑うのだ。
 一悟はいつも思っていた。いつかその男子に復讐してやると。一悟がいつもされていたみたいに、その男子を真っ赤な顔にさせて、勢いよく、

 ぎゃふん!

 と言わせてやろうと。

 ハッとして体を起こした。
 一悟は背中に冷や汗を感じながら目を覚ました。

(なんで、あんな昔の夢……)

 次第に視界がクリアになっていく。自分が寝ているベッドがいつものシーツの色と違っていて、まず眉を顰めた。そしてその次に視線をあげる。
 どこかのホテルだ。
 妙にごてごてとした装飾で、燃えるように真っ赤なシーツの色を見て、嫌な気分になる。まるでここは趣味の悪い城のよう。

(まるで……ラブホ……)

 そんな場所に行った事の無い一悟は頭を振った。しかし目線が下がると、更に驚いた。自分は裸だった。

(え? パンツは……)

 パンツを探そうと布団をあげた瞬間、声にならない悲鳴を上げた。
 そこには男が寝ていた。
 目をまんまるくしながら、その男を凝視する。

 眉が凛々しく、骨組みでも組んでありそうにしっかりとした鼻筋。目は瞑っているが切れ長だ。そんな男がやはり自分と同じ裸で寝ている。
 そんな男の顔を見て、悪寒が走る。
 それはまるで反射神経のようなものだった。

『やぁーい、イチゴちゃんー!』

 夢の元凶はこいつが原因らしい。男は、自分が幼い時にいじめられていた男と似ていた。いや、似ているどころではない。彼の成長した姿だということははっきりと理解できた。それでも否定したい。
 せめて、別人だと言いたかった。

「に……逃げよう」

 警鐘が胸中で鳴り響く。腰をあげようとすると、そこに激痛が走る。ふとシーツが汚れていて、それに目を向けることは躊躇われたが、しかし見てしまった。
 シーツについた血と、臀部に走る鈍痛。
 さまざまな状況証拠から導かれる解を見ないフリ。まるで子供向けのアニメに出てくる無能な探偵のようだ。

「み、見なかったことにしよう」

 メガネを拾い上げながら、一悟は立ち上がった。パンツを拾い上げて、点々と落ちている衣服を身につける。時間制限でもあるように、焦りながら、それで且つこっそりと一悟は部屋を抜け出した。 頭が痛かった。
 一悟はゲイでもなく、それどころか彼女さえも彼の人生でほとんどいたことが無かった。
 社会人になった後も童貞を捨てることにある種の夢を持っていたし、彼女ができた時は少しは男らしく振舞いたいだなんて目標も持っていた。その彼女とラブホテルというものに行って、それはそれは濃厚な夜を過ごす、なんていう妄想だって人並みに浮かべていた。それが全てめちゃくちゃにされた気分だった。
 一悟は何も昨夜のことを覚えていなかった。
 けれど、それが唯一の救いだった。
 昨日という日にちを頭の中のカレンダーから消滅させてしまおう、と結論づける。

 今日見た男の顔も、自分が見たシーツの血も、お尻に感じる痛みも全てが気のせいだ、ということで決定した。
 ホテルを出ると、空は青く、まるで何もかも忘れていいと背中を後押ししているように感じた。




 それは白昼夢だった。

「ああん! あ……ひゃ、やめ……んあ!」
「相変わらず可愛いな、お前」
「やめ、て………穂積……君、もう三回目……あ……」
「とか言ってお前もそろそろ感じてきたんだろ」
「ひあ、あん……あ、ああ」

 ハッと青ざめながら、一悟は手元にあったアルコール綿を落とした。

「ちょっと、大丈夫? 一悟君」
「あ、大丈夫です。 ちょっとチクッとしますね」

 落としたアルコール綿を破棄して、新しいもので患者さんの内肘を湿らす。そうして注射器の先を肉の中に埋めると、患者さんは一瞬だけ痛そうな顔をした。
 一悟は詰め所に戻ると、テーブルにつき、大きくため息を吐いた。先ほど見た白昼夢はもしかしたら現実に起こったことかもしれない、とふと思ったのだ。

「一悟君、大丈夫? なんか疲れてる?」

 同僚の女性看護師に声をかけられて、一悟は弱弱しく返した。

「なんかね。 幻覚がひどいんだよね……」
「何それ? 心療科の先生に診てもらったら?」

 職場が病院のおかげで、確かにどの科にもすぐにかかれるが……。
 一悟は苦笑した。そういう問題じゃない。

「いやー、本当は幻覚じゃないんだけどさ、いろいろ忘れたいというか……」
「あー、苦い思い出って奴? 分かる分かる」

 ずばり当てられて、一悟はなんともいえない笑みを浮かべた。
 看護師という職についたのは同僚に女性が多いからだった。言い換えれば、男性が少ないから。あの野蛮で競争意識の高い生き物を一悟は苦手としていた。がさつでデリカシーがなくて人の傷つくことを平気で言う。しかもそれで支配欲まで刺激されるのか、時々光悦とした表情をする。
 そんな男のイメージを最初に作ったのはアイツだった。
 忘れたいと言うのに、それが今の自分を作ってきたと思うと情けない気持ちにさえなった。

「あ、トキばあちゃん、また部屋出てきちゃったの?」

 ふと顔をあげると、病室から老婆が点滴を連れながら立っていた。トキばあちゃんは305号室の患者で、齢95歳だ。自称、高名な占い師だ。最も、ご家族はそれを否定している。
 トキばあちゃんは同僚の看護師ではなく、一悟の顔を見て、ムゥと眉を顰めた。

「私には見える……一悟クンの顔に『失せものの相』が……」
「もうまたトキばあちゃんったら」

 ギクッと胸が鳴る。

(うせもの……)

「一悟クン、最近何か大切なモノをなくしたでしょう」

 歯も丈夫でしっかりとしゃべるトキばあちゃん。
 まさか、と思い浮かべる。
 確かになくした。大事なもの。お尻の貞操。
 一悟は頭を抱えて立ち上がった。

「わあああ、当たってるぅぅ!」
「ちょっと、一悟くん。 トキばあの予言なんていつものことじゃない」

 そうは言っても絶望の未来しか見えない。

「トキばあちゃん、俺どうすれば、アイツから逃げられるんだ!」
「若人よ、運命からは逃げてはいけないよ。 背中を見せて逃げようとした瞬間、人は不意にやられるんだよ。 侍のようなものだ」
「背中なんて見せるもんか、ケツなんて見せるもんかぁぁ」
「ちょ、一悟くん、意味分かんない」

 トキばあの言うことを間に受けながら、一悟は涙ぐんだ。復讐してやるという思いは、小さい頃から一度も晴れたことがない。当たり前だ、復讐できたことが無いのだ。ずっとアイツのことをどうにかしてやると思っていたのに、一度も一悟は奴に勝ったことが無かった。
 けれど、いいかげん、そんな自分とも決別したかった。




 しかし、時は突然来るものだ。もう会わないと思っていたけれど、どこかで予感していた。トキばあがいう運命というものに近いのかもしれない。

「おーい、イチゴちゃんー」

 病院を出たその瞬間に誰かに呼び止められる。こんな冬の日に業者でもないのに、ご苦労様だ。他人事のように取り繕って足を進める。
 奴の大人になってからの声に聞き覚えがなかった。なぜなら彼は今朝寝たまま起きなかったから。そして自分には昨夜の記憶が無かったから。
 当たり前だが、彼の声は幼い頃と比べて幾分か大人びていた。その声を張り上げて、一悟の名前が叫ばれる。

「おーい、イチゴちゃんってば」

 一悟は歩を進めた。耳を塞ぎながら、早歩きする。

(聞こえない、聞こえない)

「おいってば!」

 その瞬間、誰かが一悟の肩を掴んだ。一悟が驚きながら、振り向くと奴は笑った。右手に何かを持ってヒラヒラと振っている。

(あ、俺の保険証……!)

 手を伸ばした瞬間、奴はその保険証を手の届かない宙に置く。

「返して欲しいか?」

 失せものはこれだったのか、とトキばあの言葉を思い出す。背が一悟より幾分も高い彼が手を上方に伸ばしてはもう自分では届かなかった。
 どうしようかと困りきった顔をしていると、

「やぁっぱり可愛いなぁ……イチゴちゃん」

 男は見下すように歯を見せて笑った。
 その瞬間、ぶわっと記憶がよみがえる。
 最悪だ。奴の表情が何も変わっていないことを知る。昔と同じいじめっ子のまま。
 一悟は何も言えないまま、立ち尽くした。

 男の名前は 穂積 陶也(ほづみ とうや)。
 ――一悟のトラウマを作ったまさにその人だった。





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王道?(やや変態攻めか……?
written by Chiri(10/21/2012)