メイク・イッツ・イーブン
メイク・イッツ・イーブン(3)



 それから喜嶋の束縛はいくらか減った。否、もともと束縛なんてするような男ではなかった。実際は心の中ではそうしたいのだろうが、それを押し込めているということは見ていてありありと分かった。
 春海から言わせれば、喜嶋には束縛なんてする『資格』なんて無いのだ。
 そうして、柳田の一人で住むマンションに春海が泊まると言っても、喜嶋は顔を振り向かずに「そうか、楽しんで来いよ」と春海を送り出した。
 「二人で食べたらどうだ」と言って春海にフルーツケーキを二個持たせて。



 春海は柳田の部屋でケーキを取り分けながら、ケーキにたんまり乗ったフルーツをボーっと眺めた。
 おいしそうなフルーツ。これはわざわざ都市から取り寄せたらしい。喜嶋が用意するケーキはいつだって誰もが羨む特別なケーキだった。

(……なんかデジャブだ)

 昔、秋菜と春海が一緒にいた時、喜嶋は春海に震える手でシュークリームを持たせた。『二人で食べろ』、そう言って。その頃は、まだ喜嶋に乱暴されて間もなく、今よりももっと春海は喜嶋を警戒していた。彼は春海にとってただのストーカーだった。
 それから何年もの間、喜嶋は春海に償いをしてきた。それを経ても今も尚、あの頃の――ストーカーだった頃と同じような行動をしてくる。
 それは少し哀れで、不憫だ。春海はそんな喜嶋をどうしていいか分からなかった。

「なぁ」

 ハッと顔を上げると、柳田が春海をジッと見つめていた。今日は柳田のマンションで大学の課題をする約束だった。ただ、要領の良い柳田はさっさと終わらせ、春海だけが今だ課題に取り組んでいた。
 そんな中のブレイクタイム。
 柳田は頬杖をつきながら、春海を眺めていた。

「……ずっと三佐和のこと観察してて思ったんだけどさ」

 ポツリと柳田が話し始める。春海はよく分からず、コーヒーを口につける。柳田の入れたコーヒーはブラック無糖。喜嶋なら黙って砂糖を二杯入れてくれるのだが。

「お前って男に抱かれたことあるだろ?」

 飲み込んだコーヒーを吐き出しそうになる。コーヒーを吐き出さない代わりに春海は目を大きく見開いた。それ以上の動作をすると、バレてしまうと本能的に思った。

「はぁ? な、何言ってんの、お前」

 なるべく声色を変えずに返す。変な冗談やめろと乾いた笑いを添えて。

「いやでもお前さ、こないだの飲み会とかで抱きとめた時、なんか変だなって思ったんだよな。 女の子抱きとめた時みたいに、少し意識した感じというか」

 ギクリと春海は息をのんだ。確かに、自分でもおかしいと言われれば納得する。男に抱きとめられようが抱きしめられようが普通はあんなに緊張しないだろう。けれど、春海は喜嶋に乱暴されたことがあったから。

「あの後、お前の同居人が迎えに来て、ピンと来たね。 お前、アイツに抱かれたんだろ。 アイツの睨み方カタギじゃないみたいだったぞ」

 言葉を失う。柳田の真意が分からず、持ったコーヒーすらもテーブルに置けずに固まる。
 柳田はフッと聞こえないくらい小さく息を吐いた。そして、一歩春海の傍に近づく。

「……いいな、俺も一度試してみたかったんだ」
「なにを」
「え、男のカラダ? 一回くらいダメ?」

 そう言って、持っていたカップとテーブルを押しのけられる。
 柳田の両腕が横たわる自分の頭を囲む。春海は柳田に組み敷かれていた。

「ハハ、可愛いなお前」

 柳田の頭が春海の肩に埋まる。首筋を舐められて、カラダの芯がゾワッと沸き立つ。春海は顔を反らし、目を強く閉じた。
 ――怖い。
 喜嶋に犯された後、何度も夢に見た。もう現実に自分に起こったことなんて覚えていなかった。それよりもその後に見たおぞましい夢がトラウマになった。
 自分で自分の被害妄想を肥大化させている、そんなことは分かっていた。けれど、自分ではもはや制御できないのだ。ただ、大きく大きくなるその時の行為の記憶は、ただの恐怖でしか無かった。

「や、やだ……」

 自然と涙が落ちた。

「やだやだやだ! 離せーーー!」

 その出来事は、本当はそこまでたいしたことでは無かったのではないかと何度も思い込もうとした。そうすれば春海はもっと簡単に喜嶋を許せる。許して、そうしたらもっと……。



***



 喜嶋 慎也(きじま しんや)はため息を吐いた。久々に仕事を家に持ち込んで、ひたすらノートパソコンで資料を作成していく。最近では、プロジェクトマネジャーも任せられるようになって、仕事の責任は倍増してきていた。
 仕事は大事ではある。けれど、彼にとってはそんなことよりも春海の方が大事だった。春海が喜嶋のことが怖いというなら、距離を置くしかない。距離を置くとなるとすることもないので、仕事を頑張ってきただけだ。けれど、もし春海が一緒にいてくれると言うのならできるだけ春海と一緒にいたかった。
 ふと、パソコン横においてある携帯が光っていることに気づく。もう深夜過ぎている時間だ。誰だ、こんな非常識な時間に、と思ったが着信元を見て息が止まった。
 春海からだった。

(こんな夜中にどうしたんだろう、まさか柳田って奴に)

 と、そこまで考えてその考えを振り切る。自分の飛躍した考え方を春海は良しとしなかったから。平常心を装いながら携帯に出ると、第一声で見知らぬ男の声がした。

「……誰だ、お前は」

 今度こそ自分の声が殺気立つことを止められはしなかった。



 電話で説明されたマンションに行き、エレベーターを上る。言われた部屋番号のドアを叩くと、ほどなくして中から大学生の男が出てきた。
 柳田 孝祐、と言った。
 柳田は目をあわさずに頭を下げた。

「……春海はどこだ」
「中にいます」

 靴を脱ぎ捨てて、ズカズカと部屋に上がりこむ。いわゆる学生向けマンションだ。奥の部屋に寝室と生活空間が一緒になった部屋があった。

「春海」

 その部屋の隅で春海が小さく縮こまって震えていた。

「春海、大丈夫か」

 しゃがみこみ、春海の背中を擦ると春海が急に気がついたようにビクリと顔を上げた。喜嶋と目があった瞬間、春海は喜嶋の胸に飛び込んできた。
 まるで子供のようだった。震えながら、覚束ない手つきで喜嶋の背中にすがりつく。
 少しはだけた春海の服に気がつき、喜嶋は人を殺しそうな視線で柳田をにらみつけた。柳田はため息を吐きながら、肩を一度だけ上下した。

「言っておくけど未遂ですよ。 一応合意のつもりだったんですけど、途中で泣き出しちゃって……」

 憎しみが湧き出る。殺してやりたい気持ちになり、拳を固める。
 春海はぎゅっと喜嶋の服を握り締めたままだった。こんな幼い心の春海の前で、柳田を殴ることはできないと心を改める。
 が、震える春海は何かを呟く。
 喜嶋はその声に耳を澄ました。

「――えのせいだ」

 喜嶋は目を見開いた。

「お前のせいだ」

 春海の目が真っ直ぐに喜嶋を射ていた。憎悪の心で。喜嶋は言葉を失った。

「……お前のせいで俺はこんなに」

 春海の目から涙があふれ出る。ボロボロと何粒も。

「……すまない」

 喜嶋は春海を抱く手に力を込めた。

「すまない、俺が全て悪い」

 自分はどうやら思い上がっていたらしい。
 自分には柳田を殴る『資格』などない。柳田は思いとどまったが、最後までしてしまったのは喜嶋の方なのだ。喜嶋の方が春海に憎まれている。
 春海に許してもらおうなんて思ったことは無かった。
 それでも夢に見たことはある。春海が昔のように穏やかに笑顔で喜嶋と暮らす日々を。望んでいなくとも、心は無意識に望んでしまっていた。
 その浅ましい心を春海には見抜かれていたのかもしれない。
 喜嶋は深く息を吐くと、立ち上がった。春海の手を離すと春海は「……あ」と心もとない声をあげる。だが春海の涙は止まっていた。
 喜嶋は柳田に向き直ると、静かに言葉を発した。

「……この子にはちゃんと可愛い彼女がいるんだ。 合意というのはお前の勘違いだ」

 柳田は眉を上げる。春海から何も聞いていなかったようだ。

「それに私は確かにこの子が好きだが。 ……この子はノーマルだ」

 柳田は考えるように腕を組んでから、不意に口を開いた。

「……へぇ、貴方って結構健気なんですね。 嫌われてるみたいなのに」
「いいんだ、それが俺の報いだから」

 ふぅん、と柳田は顎を擦る。そして、ニヤリと笑みを浮かべた。

「ぶっちゃけ貴方でも俺いいですよ」

 柳田は冗談を言ったつもりなのだろう。けれど、その言葉を遮る声が響いた。春海の声だった。

「――ダメだ!」

 柳田は少し驚いたらしい。すぐに、

「いや、今のは冗談だって」

 と言葉を返していた。喜嶋も心の中で静かに驚いた。
 春海はもしかしたら、自分自身に関係なくともそういう行為自体に嫌悪感を持っているのかもしれない、と考え至る。そんな風にしてしまったのは喜嶋なのだ。

「春海、帰ろう」

 喜嶋が優しく声をかけると、春海は小さく頷いて立ち上がった。
 彼は何か小さい声で呟いていた。また、お前のせいだと言っているのかもしれない、と喜嶋は身構えた。けれど、先ほどとはどうも様子が違うかった。

「……がう。 ……違うんだ」

 春海は自分でも混乱しているかのように頭を振り続けていた。そんな春海に喜嶋は優しく穏やかに声をかけた。

「大丈夫だ、もう分かっているから」
「違う……、違うんだって」

 春海の言いたいことは分かっていた。喜嶋はもう本当の意味で春海を開放するべきなのかもしれない。こんな風に近くにいるよりも、春海が忘れられるように遠くで暮らしたほうが。

「嘘だ、喜嶋は何も分かってない」
「そうか、すまない」

 春海を車に乗せながら、喜嶋は何度も頷いて謝って見せた。
 春海が後部座席で呟く。

「クソッ、喜嶋なんて……大嫌いだ」
「分かっている」

 そんなのもうずっと前から知っているよ。

「……また嫌いから大嫌いに戻ってしまったな」

 喜嶋がそう呟くと、春海がまた後ろで「……クソッ」と悪態吐いていた。

 喜嶋はミラー越しに春海の姿を追った。
 もう彼は喜嶋を嫌いから好きになることは無いのだろう。
 そんなことはもうずっと前から心得ていたことだった。けれど、今だけはそれを寂しく思う心を許して欲しかった。





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テンパると幼くなる春海くん。
written by Chiri(5/20/2012)