メイク・イッツ・イーブン
メイク・イッツ・イーブン(4)



 ――ここは夢の中だ。ここ最近ではいつも同じような夢を見る。何か黒い煙のようなものに押しつぶされる夢だ。
 その黒い煙を無意識に春海は『罪悪感』と呼んでいた。

(また、罪悪感が俺を殺す)

 罪悪感? それとも違和感だろうか?
 毎日のように春海を追い込む。罪悪感は言う。『本当はもういいのだろう?』と。

 だって春海はもう恨んでいないのだ。
 でも、今更どういえばいいか分からなくて。
 それが怖かったのだって事実は事実なのだ。
 こないだだって喜嶋が来てくれて嬉しかったのに。
 それがただいえなくて。

 『罪悪感』は『恐怖』や『意地』と手を組んでいて、毎夜かわるがわる春海を攻撃した。

 ダメだ。喜嶋はきっと根をあげない。
 ずっとこのままの状態を感受し続けるのだろう。
 だから春海から言わなくてはいけないのだ。
 春海から、喜嶋を――だと。



***



 あれから大学に行くなり、柳田にはすぐに謝られた。

「悪かった」

 90度の直角で謝る柳田に春海は「もういいよ」と笑った。実際、喜嶋とのことがなければ、冗談にして終わりか、それか一言断って終わる話だったのだろう。
 柳田にとっても衝撃だったのだろう。
 とはいえ、それ以上に春海にも衝撃だった。自分がそこまで今だ恐怖を抱いている事実が不思議だった。
 だって、春海は喜嶋をもう恨んではいなかった。
 否、恨んではいるけれど、もうそれは置いておいてもいいかと思うのだ。その感情をゴミ袋に固めて、心の隅にでも退けておいても良いかな、と思っていた。
 ふと頭を切り替えると、和解を終えた柳田は唯一できる相談者であるような気がした。
 春海は恥を忍んで柳田に質問した。

「なぁ、柳田。 俺って喜嶋のことどう思ってる風に見える」
「あー?」

 柳田はチラッと春海を見ると「そりゃー」と意味深に呟く。

「んー……好きなんだろ」
「そういう風に見える?」

 春海は目をぱちくりとさせた。客観的に自分たちがどう見えるかなんて考えたこと無かった。

「すげー意地張ってるように見えるけど……。 ってか彼女いるなんて嘘だろ? 聞いたことねーし」
「……うん、まぁ」

 気まずそうに目をそらす。
 柳田は春海と喜嶋の過去を知らない。けれど、今の二人を見る限りそう見えると言う。それが答えなのかもしれない、と春海はぼんやりと考えた。
 人はどうやって告白をするのだろうか。
 その人に好きだと知られることは恥ずかしいだろう。お前今まで俺のこと好きだったのか、と過去を思い浮かべられるなんてすごく恥ずかしい。ましてや自分の場合は絶対好きになんてならないと思っていた相手だ。
 でも、春海から言わないといけないのだ。
 喜嶋からなんて死んでも言葉にできないだろうから。



***



「あーー」

 頭をガシャガシャと掻いて、春海は奇声をあげた。
 あれから喜嶋の態度は変わらない。

「どうかしたか」

 喜嶋はコーヒーを入れながらケーキを切り分ける。まるでそれが自分のする当然の業務かのように。お前はセバスチャンか、と心の中で呟く。

「うぅ……なんでもない」
「そういえば明日出張だ」
「へ」

 何も変わらないというの間違いかもしれない。
 喜嶋は前ほどここに来なくなった。
 彼曰く、出張が増えたらしい。春海が喜嶋が勝手にいなくなるのを嫌ったから喜嶋は律儀にいつも報告していく。
 前は一日しか空けなかったのが、三日、一週間。喜嶋は海外企画グループに転属となったらしい。それ以外は相も変わらずここに来るのだけれど。
 一人で過ごす日は何もすることが無い。華の大学生だ。友人を誘って外に繰り出せばいいのだがそれもする気になれない。
 寂しい、と。
 そう言えば良いのかもしれない。今までそうしてきたように喜嶋に命令をすれば喜嶋はきっと出張も断りここに来るだろう。けれど、春海は喜嶋を下僕にしたいわけではなかった。
 逆に、だ。寂しい、と喜嶋は感じないのだろうか。昔なら毎日のように付きまとった。それこそ犯罪と呼んでも簡単に勝訴できるレベルで。
 春海はちらりと喜嶋の様子を伺う。喜嶋の態度は変わらない。変わらないけれど、実は変わっていっているのかもしれない。

(例えば……飽きた、とか)

 もしかして下克上というものなんて無いのかもしれない。ただ、単に興味をなくす、そんな終わり方かもしれない。
 実際、今まで毎日会っていたものが減るというのは、自分でもおかしいが喜嶋の春海に対する愛も減っている感じがした。それは執着ともいうべきものか。

(なんだか、喜嶋の愛って玩具に対するものみたいだ)

 春海は切り分けられたケーキをぼんやりと眺めた。こんなに美味しいフルーツケーキだって食べ続ければいつか飽きるのだろうか。自分は余計に好きになるというのに、喜嶋はそうではないのかもしれない。
 空いている時間でだけ春海のことを大事にするとか。そんなのずるい。

(……ならいいよ。 こっちから捨ててやる)

 大体なんで犯された相手を好きにならないといけないんだ。そんな恥も外聞もないことを自分からしないといけないなんて。人を好きになるのは悔しくて恥かしくて嫌だった。

「出張って何処に行くの」

 春海から声をかけると、喜嶋は静かに微笑んだ。

「ああ、今度はアジア中心なんだ。 だから上海に」
「ふぅん、じゃ、本場の滝に打たれてきたら? せいせいするよ」

 突然の春海のトゲのある言い草に喜嶋は眉を上げた。
 春海は目もそらしたまま、わざとらしく笑った。

「そのまま、帰ってこなくても良いよ」

 冷たい微笑を心がける。喜嶋は心折れなかった。

「帰ってくるよ。 春海に会いたいから」
「キモいんだよ」

 語気荒く言い返す。喜嶋の心はやはり折れない。

「なんだか久しぶりだな、その悪態も」
「本当に思ってるんだよ」
「知っているよ」

 暖簾に腕押し。喜嶋に悪態。
 喜嶋は静かに微笑を浮かべたままだった。焦れているのは春海だけらしい。それが無性に腹立たしかった。

「お前なんて大嫌いだ、バーカ」

 と誰にも聞こえない声で呟いたが、喜嶋には聞こえたらしい。

「知ってるよ」

 とさも当然のように言い放って、春海は唖然とした。
 まるでもう完全に諦めたかの様相ではないか。



 どうやら飽きたということはあながち間違いでもないようだ。喜嶋の出張は更に延びていった。彼はその報告を悪びれずに平然と言う。

「次の出張、帰ってくるの三ヶ月後なんだが」

 喜嶋のそんな言葉を聞いて、春海は呆然と立ち尽くした。

「え」

 三ヶ月というのは、九十日程度。そんなに放っておかれれば、一人彼女ができていてもおかしくないだろう。
 春海は俯いたまま、どう言葉にしていいか分からなかった。
 この間の出張は一ヶ月だった。放物線を描くように増えていく出張の日数。もう喜嶋はこのまま本当は帰ってきたくないのかもしれない。春海と一緒に過ごすのが嫌になってしまったのかもしれない。
 春海は頭を何度も振った。
 だって言えない。寂しいだなんて。
 そんなこと言える雰囲気ではないのだ。
 喜嶋はあくまでも飄々としていたから。

「春海に会えなくて、寂しくて死んじゃうかもな」

 そんなタイミングで喜嶋が冷静な口ぶりでそんなことを言うから、春海は心の底から怒りがこみ上げた。喜嶋の言葉が異様に軽いと感じてしまったのだ。

「……じゃあ、そのまま死ねば?」

 滑り出すように出た酷い言葉。喜嶋は何も答えなかった。喜嶋の顔には何の感情も見当たらない。怒りも、憎しみも、愛しさも。
 春海はそんな物語のヒントといえるものを喜嶋の顔にひたすら探した。けれど、喜嶋の心は分からなかった。
 そうして、喜嶋は日本を旅立っていった。



***



「お前ってさ、結構酷い奴だよな」

 柳田に言われて、「そうかもしれないー」と春海は答えた。頭をテーブルに俯けたまま、魂は体の外に出てしまったような呆気ぶりだ。
 あれから柳田にはことあるごとに喜嶋のことを相談をしていた。
 今まで喜嶋のことを誰にも話したことのなかった春海にとって柳田の存在は正直有難かった。
 柳田の視野は広い。そんな柳田がため息を吐きながら、物思いにふけている。おそらく春海を説得する言葉を探しているのだろう。

「例えば、ベタな話だけどさ」
「うん」

 柳田の例え話に春海は耳を傾けた。

「そのまま喜嶋さんが乗っている飛行機が墜ちたりしてさ、死んじゃったらどうするの、お前」

 春海は勢い良くテーブルから顔を上げた。
 喜嶋が死ぬ。春海の最後の言葉が『死ねば?』だなんて。そんなこと、考えるだけで涙が出そうだった。
 柳田は呆れた顔で春海を見た。

「もうー、情けない顔すんなよ。 だからさっさと素直になれば良かったんだよ」

 たった五秒で涙が出てしまう春海の頭を柳田はポンポンと撫でた。
 そんなの春海だって分かっていた。自分が素直になればいいだけだって。でも過去が全て邪魔をする。言いたいことを言えないようにするのだ。

 家に帰って、真っ暗な部屋の中、ベッドに寝転がる。喜嶋の携帯は海外でも繋がると言っていた。そう、メールは繋がるのだ、ならば普通に会話するようにメールをすればいい。

『今、何してる?』
『俺に会えなくて寂しくないの?』

 そんなの簡単だ。何度か指を動かすだけでいいじゃないか。けれど、春海にはそんな簡単なことすら出来なかった。
 そうしてしばらく携帯と睨めっこした後、春海の心で喜嶋が占めていた部分がとてつもなく大きくなっていたことに気づいた。幼少期から、高校生になって、大学生になる今までの間。喜嶋が居なかった日々の方が少なかったのだ。
 自分がすごく寂しいという事実に今更ながら思い当たる。そしてその寂しさは考えれば考えるほど当然な気がした。ずっと居なかった人が今そばに居ないのだ。寂しい。尋常じゃないほどに寂しい。
 喜嶋が自分を玩具のように思っているとしたなら、春海も玩具のように喜嶋を捨てればいいと思っていた。けれど、それはできない。喜嶋は玩具じゃない。もう好きになってしまった。好きになったら一生嫌いになれない。春海にとって、『好き』とはそういうものだ。
 ずっと何を書けばいいか考えていた。でも考えすぎて疲れてしまった。
 そうして眠れなかった春海はボーっとした頭でとてつもない我侭を書いた。


 会いたい


 携帯に打った文字は一瞬で文を成す。文章にしてからそのメールを送るかどうかまた一時間迷った。もし喜嶋のソレが余暇の上での愛ならば、こんなメールは迷惑にしかならない。玩具から来たメールだ。戯言だと思い、無視するだろう。
 そうして迷うに迷ったあげく、脳が疲れて、瞼が重くなった。おそらく寝ぼけ眼で春海はそのメールを送った。ピロリーンと鳴ったその時にはもう夢の中だった。



***



 朝起きるとかなり寝てしまっていたことに気づく。平日の水曜日だったが授業なんてサボったれ、と二度寝を決め込む。ここに柳田が居たら一言注意されただろうが、そんな想像の中の柳田は無視する。
 正直、何をする気にもなれなかった。
 喜嶋が居ない自分はぽっかり空いた穴人間。体の芯に風穴が空いてしまったため、地面に立てないのだ、そう誰ともなく言い訳をした。
 と、その時。呼び鈴が鳴った。

 春海は舌打ちをした。その呼び鈴さえも無視しようとしたが、何故か何度も連打される呼び鈴。どこの小学生が悪戯しているのだろう。今の俺は虫の居所が悪いんだ、と春海はムクリと起き上がると玄関にドスドスと駆けていった。
 勢いをつけて扉を開くと、――喜嶋がそこに立っていた。
 春海は「ヒッ!」と背筋を凍らせた。

 喜嶋は焦った様子で春海を見つめていた。

「あ、会いたいって書いてあったから」
「え、でもだって中国じゃ」

 喜嶋の足を確認する。ある。幽霊じゃない。心臓が飛び出たかと思った。

(本当に死んで帰ってきたのかと思った……)

 喜嶋の靴は汚れていた。どこから走ってきたのか分からないほど、スーツの裾から。
 そんな喜嶋を一目見て一瞬遅れで、涙が出そうになった。その出てきそうになった涙を意地で引っ込める。
 喜嶋は口早に答えた。

「……身内が倒れたことにして帰ってきたんだ」

 その途端、引っ込めたはずの涙がとめどなくあふれ出した。
 春海は首を横に振った。
 別にこんな風に試すつもりは無かったのだ。ただ本当に会いたかっただけだ。
 けれど、この無意味で長かった試練はもう終わりだ。喜嶋の愛情は本物だ。そしてその喜嶋に対して自分も好きでたまらない。
 喜嶋は泣く春海を見て、オロオロと挙動不審になる。春海に触れていいかわからず、手を差し出しては引っ込めたりする。

「もういい」

 春海は不意に言った。

「え」
「俺もあんたのこと、好きだって言ってんの」

 喜嶋の動作が止まる。

「今までのこと無かったことにはできないけど、あんたがずっと積み上げてきたものは知っている。 だから好きになった」

 言葉が勝手にスラスラと出てきた。意地を張っていたことが嘘みたいに。 

「もうあんたが俺を好きなくらい、俺はあんたのこと好きだと思う」

 春海が断言すると、喜嶋はそこだけ否定した。

「そんなわけあるか」
「なんでそう思うの」

 分かってくれない喜嶋に腹立たしさを覚える。ならどうすればいいのだと言うのだ。言葉がダメならば、どう示せと。
 春海は息をのむ。
 そして。
 喜嶋の首を引っ張るとそのまま勢いのついたキスをした。ガチッと歯がぶつかりあう音がしたが、春海はそのキスを失敗だとは思いたくなかった。思わなかった。
 何故なら喜嶋の顔は真っ赤だったから。

「だって、お前彼女は」
「あんた最初から勘違いしてるんだって。 秋菜は彼女じゃねーし。 大樹の彼女だし」
「しかし……」
「本当だ。 ちゃんとした彼女なんていたことない。 俺の初めての相手も、これからの相手も全部あんたなんだよ」

 何故か認めない喜嶋の胸に飛び込む。もう意地は張らない。

「もういいだろ。 甘えさせてよ」

 そう春海が言うと、喜嶋の何かがプツンと切れた音がした。それはもしかして理性という名の糸だったのかもしれない。
 そのまま玄関に押し込められ、扉がパタンと閉じられた。喜嶋は突然春海に覆いかぶさった。春海は驚いて身を竦めた。喜嶋の舌が春海の舌に絡まる。

「……ん、ふ」

 息が出来ずに圧倒される。自分のしたキスが如何に幼かったことを知らしめるような乱暴さ。
 今まで小さな飴でも幸せだと感じていた喜嶋はどこかに行ってしまったようだ。俗世に戻った喜嶋はまるで思春期であるかのようにがっついていた。喜嶋の下半身が硬くなっていることに気づき、春海は目を閉じ息を飲み込んだ。両思いならば当然そういうことになるのだろう。
 けれど、不思議なことに柳田に組み敷かれた時よりも嫌悪感は無かったのだ。
 怖いとも。怖いけれど、まだ頑張れると思えた。

「ねぇ……俺、ちょっとだけ怖いから……優しく……」
「……ああ、そうだな。 すまない」

 喜嶋の手が震えた。春海と同じように。
 喜嶋も怖いのだろうか。春海が何かを抱えていたように喜嶋も何かを抱えていたのだろうか。
 加害者と被害者にならないと分からない共有の何かを。別に全ての犯罪がこうなればいいと思っているわけじゃない。ただ、春海は喜嶋を許せた。否、許すという感覚ではない。過去は消せない。昔したことを許せなくても好きになってしまった、それだけだった。

 そのまま、喜嶋にベッドに連れて行かれて、強張る体を丹念にほぐされ、抱かれた。喜嶋の大きくて無骨な指が細く複雑に絡んだ糸を丁寧に丁寧にほどいていく。例えるならそんな行為だった。
 途中、喜嶋が泣いていることに春海は気づいた。
 春海は嗚咽する喜嶋の顔に手を添えた。

「すまない、それでも好きで」

 喜嶋の涙が春海の顔に落ちてくる。

「報われていいなんて思っていなかった」

 春海は胸が苦しくなった。やっと喜嶋のところまでに自分の気持ちが追いついた気がした。

「けど……」

 春海は喜嶋を守りたいと思った。ふと、喜嶋にとって春海と一緒にいることは彼にとっても罪悪を自覚する為の苦しいことなのかもしれないと思った。春海は喜嶋の苦しみを強いているのかもしれない。
 春海はそんな風に大人みたいに考えた上で、喜嶋に微笑みかけた。

「もういい。 それ以上言わなくて。 俺があんたに甘えたいんだから」

 ツンで居続けることって結構疲れるんだぜ、と春海が言って、喜嶋の胸に顔を押し付ける。喜嶋は硬直しながら春海の背中に恐る恐る手を伸ばす。春海は当たり前のようにそれを受け入れて、二人並んで狭いベッドで眠った。

(――なんだか、サナギみたいだ)

 久しぶりに春海は安心して夢を見た。
 守られて寝るという感覚。どこにも敵は無いという感覚。
 苦節何年。長かったなぁ、だなんて思いながら目を瞑る。もう切り離して生きていくのは難しいだろう。今までの過程が例えば蝶になる為の準備だと思えたらそれでいいと思った。

 ふと目を開くと喜嶋も安心したように眠っていた。その顔に触れながら、春海はやっとありのままの姿に戻れた気がした。自然と涙がこみ上げる。今までの不自然な関係にやっと終止符が打てたのが嬉しかった。今までと関係がどう変わるかなんて想像がつかない。けれどこれからは童心に戻って、喜嶋に思う存分甘えられる。意地なんて張らなくてもいいのだ。

 例えば、不意にこみ上げる幸せに対しては「幸せだー」と口にすれば良いし、同様に不意に喜嶋を好きだなと感じたら素直にそう言えば良い。そうやって自分に素直に生きていける。

 その夜の春海の夢の中では蝶が二匹、自由に羽ばたいていった。





おわり



もういっそ許した方が自分も幸せになれると気づいた春海くんでした。
written by Chiri(5/20/2012)