メイク・イッツ・イーブン
メイク・イッツ・イーブン(1)



 三佐和春海がこの春、大学生になれたのは彼の実力だと自負していた。高校三年生の夏、成績の振るわなかった春海は身近にあるものを全て有効活用することに決めた。テキスト、塾、そして春海の元義父。
 元義父である喜嶋は再び春海と出会ってから毎日のように春海のアパートに立ち寄っていた。春海は喜嶋に過去にされた仕打ちから、喜嶋をまるで下僕扱いしていた。
 喜嶋に対するしゃべりは全て命令口調。それでも普通の常識ある人間だったら突っぱねるような我侭も喜嶋は喜んで聞いた。文字通り『喜んで』だ。
 真夜中にケーキを買いにいかせたり、受験勉強をしていた時は『一時間後に起こして』と言ってぐーすか寝たり、分からない問題は喜嶋に噛み砕いて説明してもらったり、説明が下手だと罵ったり。喜嶋は春海の為ならなんでもした。
 喜嶋は狂気の愛情を春海に対して持っていた。それゆえに過去に春海を苦しめたのだ。その償いだと春海は割り切っていた。春海からすれば『償わせてやっている』、と。
 喜嶋は春海が隣で寝ると、いつもそわそわと動きだす。指や足先などの体の末端が動くのだ。それは不憫なほどに分かりやすい。それでもその仕草に気づくと、春海は心臓がバクッと飛び出しそうになる。春海は喜嶋に対して複雑な感情を持っていた。それは渦のようにグルグルと綺麗な記憶で恐怖の記憶が織り交ざっていた。
 昔、顎の骨を折るほどに殴られたことがある。そして、その後には一方的に犯されたことも。しかしそれよりも昔は確かに優しい義父だったのだ。それらは全てひっくるめて喜嶋の深く恐ろしい愛の形だった。
 喜嶋が挙動不審になった時、春海は一呼吸を置いて、冷静な声音で言う。

「……手、出したら今度こそ大嫌いになるからな」

 いつもよりツートーンくらい低い声音でピシャリと。すると、喜嶋はビクリと背筋を伸ばす。そうして、静かに笑みを浮かべる。

「ということは、今は大嫌いじゃないってことだろうか……」

 きつい口調で言ったはずなのに、喜嶋を漂うオーラは優しく暖かい。もともとあまり笑うことのなかった喜嶋はいつしかまるで仙人のように笑うようになっていた。

「……大嫌いじゃなくて嫌いくらいになったか?」

 喜嶋の質問に春海は言葉を詰まらせた。

「大嫌いなままだよ、勝手に期待すんな、バーカ」

 喜嶋の手先の不自然な動きが止まる。春海がこっそりと喜嶋の顔を覗くと、喜嶋はやはり仏のような顔をしていた。孫を見るような祖父の目? いや、そんなのじゃない。愚かなる子供をどこまでも見守る母の目というか。ともかく、喜嶋はどこか達観してしまったようだ。前は鬼神のような顔をしていながら中身は不器用な男だと思っていたが。
 春海は心の中で『オイオイ』と突っ込む。いつからか喜嶋は本当に『喜んで』春海の行動全てを許すようになっていた。
 飴と鞭。鞭しか与えずにいたら、鞭すらも飴と感じるようになったような。人間とは不思議なものだ。
 春海はそれから第一希望の大学に合格した。喜嶋は手放しでそれを喜んだ。春海が寝不足で勉強した期間、喜嶋も同じように寝不足だったはずだ。そのくせ、仕事を朝から深夜まで終えてからその足で春海のアパートに来ていた。もしかしたら春海よりもよっぽど大変な生活を送っていたのかもしれない。変なドーパミンが出てたとしても納得だ。
 春海は一度も喜嶋にキス……抱擁すら許したことが無い。昔、春海は喜嶋に宣言したことがある。「これからずっと生殺しをする」、と。それを忠実に実行していた。しかし、その時まだ子供だった春海には分かっていなかった。人を許すということの難しさ。春海に起こったことを百パーセントの主観で捉えて、その事象を主観的に許すと言う行為。それは春海の裁量で決まる。春海は人を許すには何をクリアすればいいのかが分からなかった。
 喜嶋は二年半の間、春海に下僕のような生活で尽くしてきた。いつまでそれを続ければ春海は喜嶋を『許す』ことができるのだろうか。そんなこと、教科書にも載っていなければ、周りの人に聞いても分からない。聞きたくも無かった。
 まるで実験のようだ。春海は今、もはや喜嶋を『許す』為の手順をおっているのではない気がした。
 この男がどれほどの仕打ちに耐えられるか。どれほど、自分を好きなのか。それを秤にのせて計ろうとしている。
 喜嶋がいつ根をあげるかを、予想すらつかない靄の中で息をひそめて推し量っているのだ。



***



 久々に会う高校時代の友人は相変わらず変わらない態度だった。大樹と秋菜は高校から特に仲が良く、本当につらい時は支えになってくれたものだ。ただし、春海は喜嶋にされたことを誰にも話したことは無かったが。

「恋愛ってさ、イーブンじゃないとつらくならないかな」

 ファーストフードでジャンクを食べながら、ポツリと春海が言うと大樹は意味が分からないという表情で顔を上げた。

「はぁ?」
「え、何? 恋バナ? 珍しい!」

 秋菜の方はテーブルに乗り出すほど、顔を近づけてくる。春海は「恋バナ……」と呟いて苦虫を噛んだような表情になった。
 恋の話とは認めたくはないが、少なくとも喜嶋にとってはそうなのかもしれない。

「やだやだ、んなわけないし」

 両手を耳にあてて頭を振る春海。
 秋菜は両手で頬を挟みながら「やだ、春海ちゃん可愛い。 恋愛だって認めたくないんだ」といきなり女子になったようにウフフと笑う。男同士でいるみたいにガハハ笑いができるところが秋菜の良いところだというのに。
 春海は頬杖をついた。詳しいことは知らないにせよ、やはり喜嶋のことを恋愛と呼ばれるのは癪に触った。けれど、客観的に話そうとするとやっぱり分類は恋愛な気がする。勘弁して欲しい。

「でもさ、ある程度上下あったほうが上手くいくんじゃね?」

 大樹は炭酸を飲みながら、ハンバーガーにがっつく。もう女子化してしまった秋菜は放っておいて大樹と話すことに春海は決めた。

「そういうもんか」

 春海がすがりつく想いで大樹の話に乗ると、大樹は突然神妙な顔になった。

「……そうだよ、俺なんか秋菜にどれだけ虐げられているか」
「ちょっと何よー文句あるのー?」

 大樹はこれ見よがしに大きくため息を吐く。秋菜はそんな大樹の頭をポカポカと殴っていた。

「ハハ、お前らの場合そうだったな」

 二人がつきあいだしたのは高校卒業の頃だ。春海は別に秋菜に恋心を持っていなかったから、大樹と付き合いだしたことは単純に嬉しかった。けれど、姉御気質な秋菜と面倒見の良い大樹にむやみに甘えられなくなったのが少しだけ寂しかった。自分はどこかで他人を求めている部分があったから。

(でも上下かぁ……。 そういうのって、ある時『下』が爆発して、『下』克『上』したり、さ)

 ストローで飲料を吸いながら、手元を見る。汗のかいたコップから水滴が流れ落ちた。

(そういうことって……ないのかなぁ)

 春海は頭を振った。
 さっきからずっと考えていたのは喜嶋という存在についてだ。昔、春海に酷い真似をして、今は奴隷のように春海に尽くして罪を償っている男。そんな男がいつまでも耐えられるものだろうか。
 下克上。自分の考えに寒気がした。喜嶋が爆発して、下克上なんてしたら春海は何をされるか想像すらできなかった。そんなことは無いと信じたかった。



 自宅に戻ると、部屋の中に物音を聞いた。春海が喜嶋に合鍵を渡すようになったのは大学生になって、大学がより近いこの部屋に引越してからだ。合鍵を渡された喜嶋はまるで氷にでも触れるかのように恐る恐る手を伸ばした。

『いいのか……』

 喜嶋の言葉に真意を見つけられなかった春海は眉を顰めた。

『いいって何が? 言っておくけど、俺はあんたのこと一生許さないし、一生恨み続ける。 鍵は単純にあんたが便利だから渡すだけだ』

 その時口から出てきた言葉が如何にスラスラと出てきたかは春海が驚いたくらいだった。喜嶋に勘違いされたくない、と心の中で思いながら、もう一人の自分は「なら、合鍵なんて渡すなよ、馬鹿かお前は」ともっともなことを言って春海を責めた。
 自分の相反する行動と言葉に自分でもわけが分からなかった。



 喜嶋はどうやら風呂場を洗っていたらしい。勝手に彼がいつの間にか用意していたエプロンをつけて、ズボンをめくったままの姿で春海を出迎えた。

「おかえり、春海」
「……ん」

 ジャケットを脱いでハンガーにかける。その間、喜嶋は春海の行動を見守る。

「秋菜ちゃんと会ってきたのか」
「……うん」

 喜嶋の声のトーンは変わらない。大樹もそこにいたことはあえて言わない。春海は注意深く喜嶋の表情を伺った。

「……そうか」

 喜嶋の俯く角度が10度くらい傾く。
 この男は今だに春海と秋菜が交際していると誤解したままらしい。大樹や秋菜とは大学が遠くなったこともあり、そんなに頻繁には遊んでいない。確かに一度も誤解を解いたことはないが、こんな一、二ヶ月に一度しかあわないような彼女はおかしいと思わないのだろうか。

「そうだ、風呂入れておいたぞ」

 喜嶋の顔の角度がまた10度上がる。どうやら頭を切り替えたらしい。
 春海は喜嶋の言葉に頷いて脱衣所に向かった。今日は休日だ。さっさと風呂入って、部屋でぐうたらしていたい。

 シャワーを頭のてっぺんに当てながら、春海は思考をめぐらす。仮に春海が喜嶋に『秋菜とはもともとつきあってないし』とでも言ったら喜嶋はどんな反応をするのだろうか。
 勝手に喜嶋が誤解したのだが、本当は嘘をついている状態であること自体嫌だった。けれど、春海からわざわざ訂正してい言うことは憚られた。

(だってなんかそれって『もういいのよ』って誘ってるみたいじゃないか……)

 春海の中はグルグルと思考が巡っていた。受験が終わってから考える時間が増えてしまった。それが少しだけ恨めしい。

(俺はまだ喜嶋のこと許していないんだし)

 頭を引っかきながらうなり声を上げる。声ともいえない声はシャワー音でかき消された。
 実際どうやって許すのかも分からなかった。同じ目にあわせるとか? 喜嶋のお尻にゴボウでも刺せばいいのだろうか。
 自分の考えが気持ち悪くて、濡れた犬のようにブルブルと頭を振って水滴を散らす。右手だけでシャンプーを使おうとすると、ポンプが空振りした。
 春海は小さく「チッ」と舌打ちをすると、大きく声を上げた。

「ねーシャンプー無いよー」

(あいつ、わざと補充していかなかったんじゃねーの)

 口を尖らせながら邪推をする。
 喜嶋は風呂場に入る磨りガラスの扉をノックした。

「……入っていいのか」
「うん」

 春海は強気で答えた。自分を犯した相手に裸を見せることは怖いといえば嘘になるけれど、喜嶋は約束したから。
 喜嶋は息を殺しながら、手にもつ詰め替え用のシャンプーを春海に差しだした。春海はムッとして、喜嶋に言う。

「やだ、補充するとこまでやってよ」
「……そんな」

 喜嶋の情けない声がした。春海はジッと喜嶋の顔を睨んだ。喜嶋は目をあわせずに風呂場に足を踏み入れる。
 どうだ。これぞザ・生殺しプレイだ。
 決して目をあわせないでシャンプーを入れ替える喜嶋。それを春海は複雑な気持ちで見ていた。春海だって自分が正直何をしたいか分かっていなかった。
 けれど、こんなこと普通の男同士なら気にせずやってのける話だ。なのに、喜嶋と春海の場合だとこんなにもギクシャクと不穏な空気が流れる。
 春海はこの状況に罪悪感を感じ始めていた。

(正常化。 ……ってどうやるんだろう)

 喜嶋の緊張した背中を見ながら春海は唇を噛んだ。
 ここまで複雑になってしまったらもう元に戻すのなんて難しいのかもしれない。



 風呂からあがると、喜嶋がすかさず声をかけた。上気した春海の顔を見て、喜嶋は一瞬だけ目をそらす。それだけで喜嶋の考えていることなんてお見通しだった。
 喜嶋は一呼吸してから言葉を発する。

「……なぁ、ケーキ食べるか」
「あ、買ってあるんだ」

 春海はその一瞬でケーキに思考をとられて、笑顔で答えた。冷蔵庫からケーキを取り出しながら、「あ、フルーツケーキだ」と歓声をあげる。

「あとお前の好きな『今日のにゃんこ』も録画してあるぞ」
「マジで? それ見ながらケーキ食う!」

 喜嶋のマメっぷりは嫌いじゃなかった。春海は幼い頃、実父が死んでおり、母は夜の商売で養ってくれていた。けれど、だからこそ春海はいつも夜は一人で過ごしていた。
 春海は一人で基本何でもできる子供だった。何でもというのは主に家事だ。母がいなくても最低限のことができるように躾けられていた。
 けれど、どこかに大きな穴を持っていた。穴の名前は孤独。その穴に毛布でもかけて、自分には見えないようにしていたのだ。
 喜嶋の愛は狂気の愛だった。けれど、その喜嶋と暮らすことで空いていた穴がふさがり、何か別のものであふれるほどになっていた。
 ケーキを口に入れると甘さが広がる。喜嶋は餌付けといってもいいのかもしれない――とにかくここ二年半の間にケーキを何百個も春海に食べさせた。ケーキが胃を満たしてくれると同時に、春海の心の中にぽっかり空いた穴も塞いでいったのかもしれない。
 春海が「おいしーにゃんこ可愛いー」と笑うと「そうか」と喜嶋も不器用に笑った。
 こうやって普通にケーキを食べあうところまではできるようになったのだけれど。





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幸せのハードルが俄然低くなっている元義父。
written by Chiri(5/19/2012)