エレクトロ(1) 僕が沁(しん)の家に住み着いてから一ヶ月が経った。 僕のうちじゃもうずっと前から母さんの恋人が居座っているし、あいつは暴力も振るう。怖いから家に帰らなくなって、それでも生きていこうとしていたらいつの間にかウリまがいなことをやっていた。 そんな時僕を救い出してくれたのは沁だった。 沁は昔からずっとそうだったんだ。こっちに引越してきてすぐの頃、僕はいつも一人だった。その時一番最初に手を差し伸べてくれたのも沁だった。 でも僕は沁を好きになっちゃったから。沁の他に人間がこの世で一人もいなくても、ましてや沁と似た顔の人が何人いたとしても、多分沁を好きになっていた。男の癖に図々しいのは分かっているけれど。 だから僕は沁から離れたんだ。沁も別に僕を追わなかった。 なのに、なんでだろうな。 本当に。 本当にもうダメかなって思ってた時、沁は僕をまた助け出してくれた。もうずっと一緒じゃなかったのに、まるでずっと一緒にいてそれが当たり前かのように。 僕の事なんてもう忘れたかなって思ってたのに。 沁は僕に居場所をくれた。沁は沁の家を僕の家だって言う。僕の家じゃないって僕は分かっているけど、僕は嬉しくてそれを本当だと思い込みたくなる。 ……僕は幸せ者だ。 だから、それだけでいい。 それだけで、もうそれ以上は望まない、決して。 *** 沁の家には、お母さんがいない。それでいて、実はお父さんも海外に単身赴任しているから普段は居ない。沁の家に居るのは、僕と、沁と、沁の弟の琢哉(たくや)君だけだ。あとは時々心配性な父方のおじいさんおばあさんが見に来るくらいだ。 そんな生活をずっと前からしているから、沁は何でもできる。料理もできるし、勉強もできる。弟のたっくんの面倒見は良いし、朝はちゃんと起きるし、夜はちゃんとはやく寝る。宿題が出れば計画的にやるし、ズル休みなんてめったにしない。たっくんの授業参観の為なら躊躇無く休むけど。 沁の生き方はなんだか気持ちよい。 僕の今までの怠惰な生活とは比べられない。だけど、ふと思うんだ。 僕はこうやって沁に守ってもらえてこんなに幸せだけど、僕が沁にしてあげられることは? 僕は何を沁にしてあげられる? 「はい、認印」 預かっている印鑑で受領証に印を押すと、目の前の宅配員は大きく体を曲げた。 「ありがとうございました!」 ダンボールを置いていくと宅配員は沁の家の扉を閉めて出て行った。ダンボールの中にはオレンジ色をした丸い物体がぎっしりと詰まっていた。差出人は沁のおじいさんだ。 「沁! おじいさんからみかんが来たよー!」 僕が声を張り上げると、パタパタと足音が近づいてきた。この足音は沁のではない。 「何? 何が入ってるって?」 ワクワクした顔がひょっこりとリビングから覗く。沁の弟のたっくんだ。 「みかん」 「なんだーまたそれかよ」 不満を言うたっくんの頭を誰かの手が小突いた。 指が長くて、関節の形がはっきり見える。これは沁の手だ。 「文句言うな。 せっかくくれたんだから」 「はいはい」 沁の言葉を聞いてか聞かないでか、たっくんは僕のところまで駆け寄ると箱からみかんを二つとって、リビングに戻っていった。 「スキップ、お前も食えよ。 うまいんだ、じいさんのところのみかん」 僕が頷くと、沁もリビングに引っ込んだ。 そんな日常会話が僕はなんだか嬉しくなって、みかんをすぐに二つ掴み取ると二人をスキップしながら追いかけた。 僕とたっくんがこたつでテレビを見ながらみかんを食べている間に沁はおじいさんに電話をしていた。 「あ、うん、いつもありがとう。 うん、分かってるって。 ばあちゃんも体、大事にしろよな」 断片的に聞こえてくる言葉に沁のおじいさんとおばあさんへの気遣いがみえる。切れ切れにしか聞こえないのは、たっくんの笑い声が大きいせいだ。 「こらー! たっくん、電話してるんだから、静かにしなよ?」 「えー、はいはい、分かったよ」 少しだけむっとしながらも、テレビを見たらまたぷくくく……と笑っている。 たっくんは中学二年生だ。沁とは三つ離れている。体は沁に似て結構大きい。僕よりも既に背は高いし、きっとそういう家系なんだろうな。なんだか悔しい。 僕がむくれていると、沁が電話を切ってコタツに入ってきた。少しだけ僕たちよりも冷えた足が僕のそれに触れる。僕はちょっとだけドキッとする。ほんのちょっとだけ。 だって僕は沁が好きだ。 だから、こんな些細な事があるだけでなんだか町内を走り回りたくなる。走ってジャンプしてホップしてスキップしたくなる。 まぁ、だから僕は沁にスキップだなんて呼ばれているんだけど。 「スキップ」 名前を呼ばれて、振り向くと頭を撫でられた。沁の手は大きいから僕の頭をすっぽりと覆えてしまうくらいだ。 「え……っと……、沁?」 僕が目をぱちくりとしていると、沁が僕の頭を「ナデナデ」しているのをたっくんが見て、あーっと叫んだ。 「また、ナデナデしてる! やめろよ、そういうの! スキップも恥ずかしいじゃん」 「え? あ、僕は……別に……」 だってむしろ嬉しいもん、と心の中で付け足す。 「ちぇー、なんなんだよ、本当。 変なの」 たっくんは意味が分からなさそうにちらちらとこちらを見ている。いや、僕だって意味が分からない。 沁は、最近、その……時々僕の事を「ナデナデ」してくるのだ。それは本当に些細な時だったりする。 なんとなく沁を手伝って沁が料理をしている横で鼻歌を歌いながら皿を洗ってたりすると、何故か「ナデナデ」されたり。いや、それはまだ分かる。きっと「手伝ってくれてありがとう」という意味だ。でも時々目があって僕がドキドキしているだけで「ナデナデ」されたりする。これはもう意味が分からない。 あ、でも最後の有力説があると言えばある。 犬扱い。例えばペットにするような「ナデナデ」。これはかなり有力かも。 ……なんて卑下した考えで僕は気持ちが暗くなった。本当に犬だったら尻尾を垂れ下げて体中でしょんぼりをあらわしていることだろう。 と、その時。 「スキップ」 「うん?」 沁が垂れ下がった尻尾の僕を見てか、話しかけてきた。 「あとから、俺の部屋に来い」 「へ?」 「話があるから」 沁は神妙な顔だった。僕の心臓は瞬く間にうるさく鼓動し始めた。 一ヶ月前、僕は沁を好きだと言った。その答えは今だもらっていない。違う、もらおうとなんて僕は思っていない。だって、あれは打ち明けられただけで本当に幸せだった事だったから。見返りをもらえるほどに自信があることでも夢見ていいことでもないのだから。 僕が沁の部屋に足を踏み入れると沁は机に向かっていたらしい、部屋に入った僕の顔を見上げた。 「座れよ」 そう言いながら、僕はたたんである沁の布団に腰掛けた。 沁は学習机の椅子に座ったまま、僕のほうを見つめていた。 「もう一ヶ月も経っちまって悪いと思ってたんだが」 ギクッと僕は胸を鳴らした。 「いろいろ、忙しかったから。 返事が遅れちまった」 沁は右手で頭を掻いた。困っている時の仕草だ、あれはきっと。僕は沁のことをそこまで知っているわけではないけれどそう思い込んだ。 沁を息を吐いた。 「スキップ、俺は」 「僕、大丈夫だよ」 何かを言いかけた沁の口に蓋をするように僕は大声を出した。 沁は訝しげに僕の目を見据えた。 「僕、別に沁を困らせたいわけじゃないし」 張り付いたままべったりととれないような笑顔を顔に浮かべて、僕は明るい声を出した。 「いいんだ、僕。 別に、沁に何かして欲しかったわけじゃないから」 「……お前、俺に何もして欲しくないのか?」 沁は眉頭に肉を集め、まるで少し怒った顔だ。 僕は早鐘のように鳴る心臓を押さえつけながら、それでも笑った。 「いらないよ! 僕、沁にはもう何も求めてないよ!」 「そうなのか……」 沁は俯いたまま、押し黙ってしまった。僕は、なんだか嘘を吐いてないはずなのに泣きそうになった。 「ただ……僕は」 沁の目線がまたゆっくりと上がる。 「沁の事、好きなのは……やめらんないけど」 反射的に足が揺れてしまう。たんたたんと鳴るこの音は多分僕が無意識にしてしまう沁へのラブレター。 視線が交差すると、沁の口がかすかに開いた。 その時。 「え、今の……何?」 たっくんがドアの隙間からひょっこりと頭を突き出した。僕は目を見開いた。 「……たっくん、今の聞いてたの?」 僕がたっくんの顔を見つめると、たっくんは居心地悪そうに小さく頷いた。 サーッと一瞬で青ざめて、沁の表情を横目で伺う。沁は何も気にしたそぶりは無いように見える、けれど。 「え、兄貴とスキップって……ホモなの?」 あまりにもデリカシーの無い言葉はまるで悪意があるように聞こえる。 僕は首を横にブンブンと降った。台風でも起こせるくらいに激しく否定する。 「違うよ! ホモは僕だけだから!」 「え、スキップってホモだったん?」 たっくんは目を丸くした。僕はとにかく沁とたっくんの仲が変にならないように、僕だけが悪者でいられるように全てを肯定した。実際、僕が言っていることに間違いは無いのだから。 「そうだよ! 僕がホモで勝手に沁を好きになっちゃっただけだ」 たっくんは目を細くして、僕を眺めた。ボソリと蚊の鳴く様な声で呟かれた。 「……まじかよ……気色わりー……」 その針のような本音に僕は全身を刺されたような気分になった。 「ぁ……」 自分で自分のことをホモと呼んだのだから、そう言われて仕方ないのは分かっている。むしろ覚悟が無いのにホモだと名乗るなって話だ。けれど、身近な人、それも沁によく似ている沁の弟に言われるのは思った以上にきつい。 ふと、畳が人の重みでギシリと鳴った。 「え?」 スパコーーーン たっくんの一瞬の言葉は衝撃音で掻き消えた。 右手にスリッパを持った沁はまるで楽器を鳴らすかのように彼の弟の頭にそれをはたきつけていた。 「いてーー!」 「琢哉、お前、スキップに謝れ」 たっくんは頭を手で押さえながら、沁を見上げた。沁はまるで夜の海のように静かで冷静にたっくんを見つめていた。 「お前、今までスキップのこと気色悪いなんて思ったことあったのか?」 沁が鋭い視線でそう口にすると、たっくんは口を尖らせた。 「別に、そんなこと思ったことも無いけど……」 「なら、あいつが気色悪いなんてことは無いんだ。 偏見だけで人を傷つけるのはやめろ」 沁の言葉に胸がざわつく。沁が僕の為に言っていてくれていることは分かる。けど、僕は。 (そんな、僕の事、かばわなくていいのに……) だって僕は沁のなんでもないのだから。家族でも、恋人でも、純粋な友達でさえ。 たっくんはむくれたまま、沁の顔を下から見上げていた。 「でも男が男を好きになるんだぜ? 兄ちゃんは気持ち悪くねーの?」 まるで沁を試すような物言いと視線。それに僕が気づくと、胸騒ぎが一層増した。 「俺は……」 「気持ち悪いよ!」 沁の言葉をさえぎり、僕は叫んだ。 「男が男を好きになるなんて気持ち悪いに決まってる。 でもその気持ち悪いのは僕一人だから」 「スキップ!」 怒気を含んだ沁の声に僕はビクついた。 怖い、沁の顔を見るのが。 けれど。沁の気持ちよい生き方。弟の面倒をきちんと見て、朝はちゃんと起きて、夜はちゃんとはやく寝て、宿題が出れば計画的にやって、ズル休みなんてめったにしなくて、多分女の子たちにも実は影でもてていて、いつか真っ当な家庭の父親になる、そんな生き方を自分が邪魔したいわけじゃないのだ。 「……沁、ごめん」 僕はそう言い捨てると、沁の部屋を足早に出て行った。自分の部屋だと言われ、荷物を置かせてもらっているその部屋に塞ぎこむ。 布団の中で丸くなり、このまま小さくなっていって最終的にひからびてしまいたいと思った。 迷惑をかけたいわけじゃなかったのだ。ただ、好きだと伝えられればそれで良かったのに。 なのに、なんでこうなっちゃったのかな。 next スパコーンって音が好き written by Chiri(7/16/2010) |