ダメ人間培養記
ダメ人間培養記(1)



 先輩を初めて見た、というより意識したのは俺が一年の時にあった解剖学の授業の時だ。
 うちの大学は四年生が履修する人体解剖実習の様子を一年生に見せるのが慣習となっていた。だから俺たち一年生は解剖実習を見ていて「わーまじで切るの?」「ちょっと怖いね」とか思い思いにいろんな事を囁き声でしゃべっていた。その中で生徒が一人、逃げるように走ってそこを出て行ってしまった。それが先輩だった。
 解剖実習で気を失う人は少なくない。特に男子は女子よりも弱いという。
 きっと先輩も気持ちが悪くなったのだと思う。誰も先輩が居なくなった事に気付いていなかったので、俺だけでも励まそうと思い後を追った。
 外まで出て、校舎の影で先輩は吐いていた。
 嗚咽を漏らして、盛大に泣きながら。
「嫌だ、怖い。嫌だ、絶対、嫌だ。怖い、切りたくない、怖い、医者になんか……なりたくない……!」
 おいおい医大に来て置いてそれは無いだろう、と思ったが俺は結局何も言わずにじっと先輩の様子を見ていた。励まそうと追ってきたくせに何もできず、そこに立ち尽くした。
 俺は正直あの解剖を見ても何も思わなかった。そりゃ、怖かった。でも遺体そのものに恐怖感はあっても、あれをいつか自分で切る事までイメージができていなかったのだ。
 単純にああ、俺も四年になったら他の人と同じようにあれをやるんだなぁとしか思えなかった。
 精神が強靭というよりは、俺はただ何も分かっていないだけのような気がした。先輩の方がよっぽど命の尊さを知っている、そんな気がした。

 それから先輩は一週間学校に来なかった。

 俺はそれほどまでにあの人がダメージを受けていたと知り、なんだか可哀想になった。
 医者になりたくない、とあそこまで思う人が何故ここにいるのだろう。

 教授は「やっぱり医者という職業が肌にあわない人間もいるんだよ」と言っていたが、先輩こそがそれだろう、と思った。いや、本当ならあれほどまで人間の体や命に畏怖を抱いている人こそがなるべきなのかもしれない。しかしそこは医者が抱えた目をつぶるべき矛盾とも言えるような気がした。

 俺はそれ以来、先輩をよく見るようになっていた。
 肌が合わない環境に血を流しながらも必死にすがりついているような存在に見えた。

 ある時、1年上の先輩が言っていた。本当なら先輩と同じ年次だったはずの人だ。
「やっぱりしばらく経つとさ、いつのまにか消えていく生徒っているんだよな。あいつらって今どうしてるんだろうな。やっぱどこかでダメになってるのかな……」
 俺はどきりとした。
「大内はまだいるけど……。あいつもいつまでもつかな……」
 その人は別に去っていた人々を見下すように言ったわけではなかった。ただ懐かしいものを思い出すようで、少し寂しそうだった。
 確かに俺の学年にも入学時にはいたはずの奴がいなかったりした。あいつらは一体今はどうしているんだろう。一緒に大学に入った時は皆明るい顔をして、授業に出ていたのに。どうして皆が俺やその他大勢のように頑張れないのだろう。心がもやつく。
 そして同時に、先輩も皆が知らない間にこの大学からひっそりと消えて、どこかに行ってしまうのかと思ったらぞっとした。
 その時なんとなく芽生える感情があったのだ。
 そう、どこかで消えていなくなってダメ人間になるくらいなら……。

 俺の側でダメになっていってくれたほうがいい、と。

 先輩が困った様子で猫を連れて行くのを見たのはそれからすぐ後の話だ。
 どう先輩に話しかけようか悩んでいた俺はそれをチャンスだと思った。
 実家では猫を三匹飼っていて、飼い方なんてお手の物だ。
 俺は「自分の世話もできないのに、猫の世話なんかアンタにできるんですか?」とかなんとか意味不明なことを言って、先輩に近づいた。
 正直猫のことなんてただの口実だった。

 結局のところ、それは成功して俺は先輩の家に居つくことができた。
 先輩の生活は正直言って堕落していた。夜は無駄にテレビを見ていたりインターネットをしていたりゲームをしていたりで遅くまで夜更かしして、けれど朝は滅法弱い。授業にも行く時は必ず遅刻かギリギリだ。食生活だって、ひどかった。家の前にあるコンビニを行ったり来たり。仕方なく、俺は悪態をつきながらも簡単な手料理を披露した。チャーハンだったり丼物だったり簡単なものが多かったが、先輩の目はキラキラと輝いた目で俺を見ていた。
 先輩は俺が代返してくれると分かると、授業にもてんで出なくなった。俺は先輩の代わりにノートをとって先輩に渡していたが、先輩はそのノートをじっと見つめると物憂げになり言葉数が少なくなる。そうすると、俺は悪い事をしてしまったように罪悪感を覚える。先輩に無理矢理授業を受けてもらいたいなんて本当の本当は思っていないのだ。だって、それは先輩を傷つけることなのでないだろうか。先輩を医者にするというのは、先輩にとって幸せな事ではないのかもしれない。
 それでも先輩の今の生活が正しいだなんて思えないけれど。
「なぁ、武藤」
 先輩が話しかけてきて、俺は慌てて笑みを作った。
「なんですか?」
「武藤はさ、医者にちゃんとなりたい?」
 先輩は「ちゃんと」の部分に力を入れて聞いた。真剣な質問だったので、俺は素直に頷いた。
「はい」
「心から?」
 少し迷ってからまた答えた。
「はい」
 嘘を吐いてもきっと意味は無いだろうから。
 俺が先輩を真っ直ぐに見つめていたら、先輩が突然くしゃりと顔を歪ませた。泣き出すかと思ったら、何故か先輩は笑った。

「そっか。 ……いいなぁ、武藤は」

 そう言うとすぐにそっぽを向いてネトゲを始めた。ゲームのやりすぎのせいか、少しだけ目が潤んでいた。その後本当に小さな声で先輩が何かを囁いた。俺にも心から夢中になれることがあればいいのに、そう聞こえた。

 その瞬間だ。俺の心臓の裏側からいろんな気持ちがあふれかえったのは。

 可哀想。
 守ってあげたい。
 愛しい。
 放っておけない。
 好き。

 どれが一番大きな感情だなんて分からなかった。全てが真実だったから。
 でも、その時俺は自分の気持ちを知った。俺は先輩が好きなんだ。理由なんて分からないし、どうでもいい。

 俺が、先輩を守りたい。

 まるでどこかのヒーローの科白のようなものがすんなり出てきて俺は自分に驚いた。だって先輩は成人した大人なのに。皆がそうであるようにこれから一人で生きていかないといけない一人の人間だというのに。

 その日、俺は先輩に初めてキスをした。先輩は思いの外、驚かなかった。ぼーっとした瞳で俺を見て、「え、今の何?」と聞いてきだけだ。俺は答えであって答えでないような事を言った。
「好きです」
 そう伝えると、先輩は「……そう」とまるで言葉を理解していないような曖昧な返事をした。そうして不意に顔を背けて、小さな声で呟いたのだ。
「……変な奴」
 まるで分かっていないんだろうな、と俺は思った。
 俺が自分の底にどれだけ先輩を想う気持ちがあるか分からないくらいに。

 俺が先輩を好きと思う気持ちは今までつきあってきた女の子たちのどれとも違っていた気がした。軽いか重いかも分からなかった。でも一緒にいたかった。多分、先輩は何かをしてあげたいと思わせるのが天才なんだ。ただし、それは俺限定の話だけれど。

 実際、俺が先輩を守る、という事は全てにおいて矛盾していた。
 何故なら俺が先輩を守るにつれ、先輩はどんどん外に出なくなった。どんどんネトゲに没頭していって、俺以外の他の人間とはしゃべらないようになっていった。
 ダメ人間レベルも度を越していく。
 ティッシュをとるだけでも、「武藤〜、それとって」と声をかけてくる。自覚してくれればまだ良いのだが、天然な先輩は俺の気持ちの機微なんてものには興味もない。一度深爪して血がだらだら出ているのを見て、わっと驚いた事もある。俺がつい「アンタ、爪きりもろくにできないのですか!」と怒ると、ちょっとムッとした顔で、「じゃ、武藤やって」と先輩は言った。それからはずっと爪切りは俺の仕事だ。
 そんな日々の中で、先輩の爪を切っていたり、先輩の好きなお菓子を買いにいったり、先輩の為にみかんをむいてあげたりすると、ハッと気付く。
「俺、何やってるんだろ……」
 先輩が何の疑問も持たない顔で不思議そうに首をかしげるので、俺はハァッとため息を吐いた。先輩、そんなんであなたはこれからどうやって生きていくの。少しでもわかってもらいたくて、その都度嫌味を言った。
「なんであなたみたいな人好きになっちゃったんだろ」
 先輩はちょっとだけムッとした表情になるが、これも長くは続かない。ネトゲを一日し続けている頭には嫌味も嫌味に聞こえないのかもしれない。
 こんなダメ人間。俺がいなくちゃどうしようもない。
 けれど、あの時の先輩が頭にちらついて離れない。人の体を切りたくないと吐きながら涙したあの時の顔。あれは堕落した人間の顔なんかじゃなかった。
 何かに真剣に突き当たり、真剣に悩み、そして真剣に迷って投げ出したくなっている顔だった。
 先輩はダメ人間じゃないなんて本当は、俺が一番知っていた。
 けれど、先輩が俺を頼って生きていく事は、なんというか、心地よかった。先輩に嫌味をいいつつも、俺はどこかで安堵していた。俺はいつのまにか先輩の事より先輩に頼りにされる自分の事を優先させていたのだ。

「武藤、俺、勘当された」

 俺が大学を卒業した時、今だ大学生だった先輩はそう困った声で俺を訪ねてきた。俺は心の中でやった!と雄たけびをあげた。
 先輩には俺しか居ないんだ、なんて思い込みを激しくさせながらの勝利宣言だった。

「嫁にきませんか?」

 先輩はこくりと頷いた。





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一応先輩にだってダメ人間になった理由がある。
written by Chiri(4/6/2009)