ダメ人間培養記
ダメ人間培養記(2)



 先輩と一緒に住み始めても、先輩の生活は変わることなくネトゲ漬けの生活だった。
 俺は病院での研修が始まり、学生の頃と比べると格段と忙しくなった。寝る時間も減り、一日の終わりには体も疲れ果てた。しかも次の日までに回復できない。
 忙しくなると、ストレスも増えた。常に家にいる先輩にいらついたことは無かったが、それでも俺はなんとなく思い始めたのだ。
 先輩はいつも受動的だ。自分では決してアクションを起こさない。というより、何かをしようという意識が働いていないのだ。先輩の心はあの時の解剖学の授業で止まっているのだ。
 そうしているうちに時々むなしくなる事が増えた。
 あの時、先輩が俺と住むと言った時、俺は先輩の全てを手に入れた気になっていた。けれど、それは抜け殻の先輩なのではないか。俺は先輩の何を抱きしめているのだろうか。抜け殻だろうか。器だろうか。
 でもこれは仕方ない事かもしれない。
 何故なら、培養したのは俺だ。
 先輩をダメ人間に培養した責任は俺にあるのだ。

 病院で働き出して半年たった頃、俺は熱で倒れた。少し前に風邪を引いていたのをちゃんと治さなかったのが祟ったらしい。働き先で倒れて、周りにもとんでもなく迷惑をかけた。
 一緒に働いていた同期の女性になんて、家まで担いでもらってしまったのだ。
 熱でうなされている時、先輩があたふたと動き回っているのが分かった。先輩は俺がいなきゃ薬の位置も分からない。料理もできないし、爪切りもできない。俺は先輩はそんなこと知らなくてもいいと思っていたのだ。けれど。
 ああ、難しいなぁ、と思った。
 先輩の為になると思ったのだ。授業のノートをとってあげ、生活をあらゆる刺激から守って、ただ俺とコウチがいればいいという生活が先輩の為になると。
 先輩は動き回るのを諦めたのか、側に来て俺の体に影を落とした。
「……先輩?」
「うん……」
 話しかけるとか細い先輩の声を聞いた。
「……お腹、すいたの?ごめんね、すぐ作るから……」
「ううん、大丈夫だから」
「……ちょっと待ってね、先輩」
「……大丈夫だよ、武藤」
 先輩の声は小さかった。そのままどこかに消えてしまいそうなほど儚げで切なかった。
 もし俺がいなくなったら先輩はどうなるのだろう。一人で生きていけるのだろうか。縁起でも無いが、このまま俺が死んでしまったら先輩はどうやって生きていくのだろう。
 やっと気付いたのだ。
 俺は無責任だったのだ。
 何もかもが。
 こんなの優しさでも何でも無かった。

 そのことにやっと気付いたのに。
「さよなら、武藤」
 落ちていく瞼の向こうで誰かが呟く声が聞こえた。



***



 先輩がこの家を出て行った。
 コウチだけを残して。部屋を整然とさせて。

「……先輩、ちゃんと一人で掃除できたんだ」

 ぽつんと一人残され、呟いた。あんなにきつく抱きしめていたものはやはりただの抜け殻だったらしい。簡単にすり抜けていってしまった。
 先輩もこのままではダメなんだと気付いていたのだろうか。
 そう疑問を投じながら俺は涙を床に落とした。
 部屋には先輩の気配がまだそこら中にある気がした。けれど本体はどこにもいなかった。パソコンの前にいつも座っていたはずのあの人がいないせいでパソコンの画面は暗く、今日も電源が落ちたままだ。

 一人で生きていけないのは俺の方だった。
 先輩がどこかで一人で、自分とは別の場所で息を吸っていると思うだけで涙が出た。先輩の事を何度も思い出して、それでも帰ってこないあの人をずっと待ち続けた。
 もっと、自分がダメだと分からないほどに拘束すればよかった、だなんて凶暴な事を考えた時もあった。自分がもう誰だか分からないほどにめちゃくちゃにしてやればよかったとも。
 不意に思い出すのは、先輩が俺に質問してきた時のことだ。

「武藤はさ、医者にちゃんとなりたい?」

 真剣に聞いてきた先輩に俺は心の底から医者になりたい、と答えたのだ。
 なのにどうだ、俺は。病院で患者さんを助ける事より今は先輩を取り戻す方が断然大切だと思ってしまう。所詮、俺の心の底なんてそんなに浅いものだったのだ。
 あの時、……先輩が「俺にも心から夢中になれることがあればいいのに」と呟いたあの時に、俺はもっと先輩と向き合うべきだった。先輩が本当はどんなものが好きで、どんなものに夢中になれるかを一緒に模索するべきだったんだ。



 先輩がいなくなって2ヶ月以上経った。
 俺はコウチに餌をやり続けたが、コウチは日に日に痩せていった。あれこれと手を尽くすが、どうもコウチは俺に反感を持つようになった。俺が先輩を追い出したとでも思っているのだろうか。
「俺もお前も先輩に捨てられたんだよ」
 やさぐれた口調でそう言うと、コウチが指に噛み付いた。
「ってーー!」
 痛みで腕を振り下ろすと、その衝撃でリモコンのスイッチが入った。テレビがいきなりつき、コウチがびくりと体を揺らした。俺が乾いた笑みでそれを見ていると、コウチをプイッとそっぽを向いて不貞寝してしまった。
 丸くなると余計に分かる。コウチは先輩がいなくなって随分と小さくなった。
 コウチにかぎった話じゃない。俺も勤め先に行く以外は家にいるかあても無く外を徘徊するかだった。外見を綺麗にしていた時は、俺を見る周囲の目は普通だったが、最近では無精髭も生やしっぱなしだし、服もろくに洗濯していない。病院でも身だしなみをしっかりしろと叱られ、俺に好意的だったはずの同期の女性は俺を見て、鼻をつまんだ。前に倒れた俺を担いで家にまで来てくれたことのある女性だ。最近の彼女は俺を見る時必ずしかめ面だ。
「何をどうしたらそうなるのかしら」
 はぁっとため息を吐いてから、彼女は小さくあざ笑った。
「案外、お似合いだったのかもね」
 誰と誰がお似合いという意味かは俺には分からなかった。

 俺は俺から一定距離を保って眠るコウチの側に寄った。俺がコウチの背を撫でても、コウチは構わず眠り続けた。閉まったままのカーテンの隙間からはあたたかい日差しが差し込んでいた。

 こんな天気の良い休日の昼だ。先輩がいたなら、一緒に散歩をするのに、と俺は思った。実際、ひきこもってばかりだった先輩と外に出ることなんてあまり無かったが、だからこそまた一緒に外に出たいと願ってしまう。まだひきずる気持ちが重すぎる。俺もコウチもきっと同じ病気だ。
 不意にコウチの耳がぴくりと動いた。
 眠っていたはずのコウチは眠気が一気に覚めたように体をぴょんと起こした。見つめる先はテレビだ。俺は不思議に思って、コウチの視線を追った。

「え……」

 先輩がテレビに映っていた。
 どこかの弁当屋の特集のようだ。ハイテンションな司会の女性が少し困った様子の先輩にマイクを向けていた。
 俺はすぐさまテレビに駆け寄り、テレビの淵を両手で握った。視界いっぱいに先輩の顔が映る。画面が見えなくて怒っているのか、コウチが俺の背をガリガリと引っかいた。
 ――先輩だ。
 テレビの中の先輩は弁当屋で住み込みのバイトをしていて、前の頃よりも少し日に焼けていた。時々こぼす笑みにはどこかほこらしげで自立した人間のオーラが感じられた。
 ――先輩だ、先輩だ。
 先輩は変わってしまったようだ。俺なんて必要のない立派な人間に。
 けれど、変わったかと思ったら変わってない。俺が先輩を思う気持ちはやはり変わらず、「好き」と「愛しい」と「ずっと一緒にいたい」だった。
 だらだらと溢れてくる涙を右腕でぐいっと床に落とした。テレビから手を外し、俺はカーテンを開けた。窓の外の日差しが眩しかった。

 ……迎えに行こう。

 唇をかみ締めて、決意した。
 先輩を守るとか、本当はどうでもよかったんだ。俺はただ、先輩と一緒にいたかった。その口実をいろんなところから拾っては、先輩を外から雁字搦めにしていた。
 もう、そんなことしない。
 先輩は一人の人間で、俺も一人の人間だ。一緒にいることに大層な理由なんて必要ない。守るも守らないも必要ない。ただ好きだってそれだけでいいのだから。



***



「む、……武藤?」
「先輩! やっと見つけた!」
 先輩の働く弁当屋まで押しかけると、俺は問答無用で先輩を抱きしめた。
 弁当屋にいた客が目を剥いて驚いていた。
 先輩は髪の毛が伸びていた。けれど、俺が前してあげたように前髪を上で縛っていてそれに俺は何故かひどく安堵した。
 それから俺は、先輩にすがるような科白をたくさんぶつけた。先輩が帰ってきてくれるなら、もう何でも良かった。恥も外聞も知らない。
 先輩は俺を落ち着かせるためか、静かに口開いた。
「武藤、俺、今ちゃんと一人で生活してるんだ。 お前は、もう俺の世話をしなくていいんだよ」
 俺をたしなめるような言い方だった。そんなに俺のところに戻ってきたくないのだろうか。俺は泣きそうになったが、先輩は続けた。
「なぁ武藤?お前は俺が何もできなかったから、助けてくれただけだろ?もう、無理しなくていいよ」
 先輩の言葉は俺にとっては的外れに聞こえた。分からない。最初はそうだったかもしれないけど。
「違う! 俺はあんたが好きだ! どうしようもなく好きなんだ!」
「違うって、それは。 ただほうっておけないだけだよ。 お前だってなんで俺のこと好きなのか分からないっていってたじゃん」
 先輩の声は優しかったけど、頑固だった。先輩、ずっとそんな風に俺のこと思っていたの?一緒に住んでいた時、そんなこと、考えていたの?
 俺は首を横に大きく振った。
「そんなの未だにわかんねーよ! きっと理屈じゃないんだよ! 俺、アンタのことテレビで見た! ちゃんと一人で頑張ってるの、分かってる! ほうっておけないとかじゃないんだ! 俺が! アンタを欲してるんだよ!」
「武藤……」
 先輩は悼むような目で俺を見た。
 俺がまっすぐに見返すと、先輩は視線を下げた。困ったように手を頬にやり、小さく首を横に振った。

「だ、だって、武藤、だめになっちゃうって」

 声が震えていた。
 静まり返る店の中で、先輩の声は誰にでも分かるくらい悲痛に震えていた。
 俺は間髪入れずに聞き返した。まだ望みはあるように思えた。
「何がですか?」
 先輩は一瞬だけ沈黙してから、消えそうな声で続けた。
「だ、だめになっちゃうんだ、俺と一緒にいると。 武藤がだめになっちゃうと思ったから、俺は一緒にいるの、やめたのに……」
 俺は目をカッと開いた。先輩と一緒にいると、俺がだめになる?どうしてそんなこと。
「誰がそんなこと言ったんですか!」
「だって……っ!」
 先輩の視線が戻った。俺をまっすぐ見ている。
「本当は俺だって…っ!」
 先輩はそう言ってからハッとして口を閉ざした。それ以上は言っちゃいけない言葉だと思っているように。
 俺は語りかけるように先輩に言った。
「ねぇ、先輩。 俺を見てください。 今度は俺がダメ人間になりそうなんです。 貴方がいないと、俺がダメになっちゃうんですよ」

 ――ねぇ、戻ってきてください。
 お願いだから戻ってきてください。
 その気持ちを込めて。

 先輩が俺は見た。

「俺も武藤が好きだ」

 そう言われた瞬間、俺は先輩を抱きしめていた。
 先輩が俺の腕の中で呼吸する。それがこんなに幸せだなんて。

 周りの声なんて聞こえなかった。先輩の心臓の音と息遣いを一つも漏らさないようにまるごと抱きしめた。

「先輩、帰りましょう? 俺たちの家に」
「え、でも、俺、まだ仕事が……」

 前のだらけた先輩だったらすぐに一緒に帰っただろうに。本当に立派になったんだ、先輩。少しだけ寂しく思う俺はダメな奴だろうか。
 俺はワガママを言った。
「今日は無理矢理にでも連れて帰りますよ。 いいかげん、コウチがひからびそうだ」
「え、何のこと?俺、仕事……」
 もっともらしい事を言う先輩に突然怒鳴り声が届いた。
「一成、てめぇ!また俺の店に変な付加価値つけやがって!!今日はさっさと帰れ!!」
 厨房の奥からはテレビの中でもがなり立てていたカツ親父がいたようだ。
「さっさと帰れ!!明日からまたしごいてやらぁ!!」
「ハイ!」
 背筋をぴんと伸ばして返事をする先輩を見て、俺はくすくすと笑った。
 先輩、良いところで働いているんだね。
「カツ親父最高!」「カツ親父最高!」と何かの音楽が鳴っているかのような店内を出て、俺と先輩はあのマンションに帰ってきた。

 先輩が部屋に足を踏み入れると、コウチは足音だけでそれが先輩だと分かったようだ。コウチはドアにぶつかる勢いで突進してきて、先輩の足元に擦り寄った。
「……ど、どうしたの? これ?」
「貴方に会いたかったんでしょう? 俺と同じで」
 先輩は目を丸くした。
 それを見て、俺は苦笑した。先輩はコウチが先輩になついていないと思っていたようだが、そんなわけはないのだ。あんなにいつも先輩の膝で出ていたのに、なんでそれに気付かないのだろうか。
 それと同じで先輩はきっといつまで経っても俺がどれだけ先輩の事を好きかなんて推し量れないのだろうな。
「うぅ…ぅ……」
 見ると先輩がいきなり泣いていた。
「ちょっと先輩泣いてるんですか!?」
 先輩は違う、と首を振ったが明らかに涙の粒が落ちている。俺ははぁっとため息を吐いた。
「ったくさっき俺と再会した時も泣かなかったくせに!」
 ひどい人だなぁ、と一言漏らすと、先輩は首を横に振った。俺がポンッと先輩の頭を撫でる。先輩がここにいて、手ですぐ触れるってすごいことだ、と俺は小さく感動した。
 先輩は涙をあげて顔をあげると、俺にキスをした。俺は一瞬目を見開いたが、すぐにそれを味わうことに没頭した。先輩が唇を離すと、俺は目を合わせてから今度は自分から唇を重ねた。
 何回も何回もキスをして、そしてそのままベッドになだれ込んだ。
 コウチが間に入ってこようとしたけれど、今だけはあっちにいっておいでと追い払う。先輩がコウチに「また後で遊んであげるから」と笑ったとき、これが俺の求めていた幸せなのだとやっと実感した。



***



 あれから一ヶ月経っても、先輩はここにいる。
 先輩が働いている弁当屋の定休日は必ず先輩がご飯を作ってくれる。といっても先輩にできるのは弁当屋で習った料理だけだ。
「はい、豚のしょうが焼き!」
 先輩が嬉しそうにテーブルにお皿を置くと、俺はそれを見て「おいしそう」と笑った。
 しょうが焼きの横にはトマトと先輩の特技となったキャベツの千切りが添えてある。もう一品はこれも弁当屋で習ったであろうごぼうとにんじんのマヨネーズ和えだった。
 先輩は俺から離れた時、住み込みのバイトだったら何でも良いと思って、弁当屋に決めたらしい。けれど、今ではあそこにして本当に良かったと極上の笑みを浮かべる。
「キャベツ切るのが俺の天職かも!」
 なんてね、と笑う先輩を俺は愛しく思う。
 弁当屋の親父さんはまだ先輩にカツを揚げさせてくれないらしい。あの弁当屋でカツを揚げれるようになったらやっと一人前と認められるのだと先輩は熱心に俺に語った。
「はやくカツ弁当も作りたいな〜」
 そう言う先輩はやっぱり立派な大人になったのだろう。
 それに比べて俺はなんだか置いてけぼりだ。
 先輩がいなくなった時の身だしなみの悪さややる気の無さが今になって響いてくる。周囲の信頼も一度失ってしまい、それを慌てて取り戻している最中だ。
 直接教えてくれていた医師は俺を深くたしなめた。
「武藤は、やればできる奴だけど、他の奴らと比べると熱意が足りないな。 お前本当に医者になりたかったの?」
 前に先輩に聞かれたことと同じ事を聞かれている。
 俺は成長していないダメな奴だ。

 それでも。

「武藤もさ、早く立派なお医者さんになれるといいな」
 先輩は毎日俺を元気付けてくれる。
「俺にはなれなかったけど、それでもやっぱり人の命を助ける医者の仕事ってすごいと思うんだ。 俺、お前が本当に誇らしいんだ」
 太陽の光が注ぎ込んだかと思うような眩しい笑顔でそう先輩は言った。

 大学生の時、先輩が解剖学の授業で苦しんでいた時。
 先輩は人を助けたかったのに、それをできない自分に苦しんでいたのだと思う。そして理想の自分と現実の自分がかけ離れていけばいくほど、理想を掲げるの嫌になったのだ。
 俺は自分が医者になることの意味にちゃんとしたものなんて持っていなかった。
 けれど、先輩の人を助けたかったっていう気持ちを受け継いでこの職業についたと考えればそれはなんて幸福な理由だろうか。
 結局、俺は先輩には到底かなわない。

 ねぇ、先輩。
 俺、先輩が誇らしいと言ってくれるだけでいくらでも頑張れるんだ。

 さぁ、今日も一日頑張ろう。





おわり




さて、本当はどっちがダメ人間なんだか。
written by Chiri(4/6/2009)