ダディ・フー(2)



義父がくるようになって、春海は随分とやつれてしまった。おそらく義父は会社が終わると即効で春海のアパートに寄っていくのだろう。いつも夕刻時に来てはノックしてケーキを置いて帰るのである。

「春海君大丈夫?」

クラスメイトである安陪秋菜(あべあきな)に言われてハッとした。
顔を上げると、ちょうど授業が終わっていつのまにか昼休みになっていたらしい。それに驚きながら春海は秋菜の顔を青い顔で見つめた。
すると、今度は隣から声が聞こえた。友達の武石大樹(たけいしだいき)だった。

「無理すんなよ。顔、青いぞ?」

そう言って来る大樹は珍しく本当に心配している様子で春海は自分を叱咤した。良い友達である二人をここまで心配させてしまう自分はよほど顔色が悪いのだろう、と思う。
すぐこうやってぼーっとしてしまうのも最近の春海の悪い癖だった。すぐに現実ではないところに行きたがる。きっと現実にいるのがつらいのだ。

心配そうな顔をしている大樹に春海は笑って頷いた。
「うん、調子悪いみたい。俺、保健室行ってくる。」
そういってフラリと不安定な様子で保健室に向かうのを大樹と秋菜は落ち着かない心地で見守った。

保健室に行けば、保険医が春海をベッドに寝かせてくれた。
白いシーツが巻かれたベッドに横たわるとふと息を深く吐けた。
(最近、そういえば寝れてないや…)
目をつぶると義父に犯された時のことを思い出してしまう。そしてそれをやっとの思いで打ち払っても今度は義父がいつまた家に来るのではないか、と考え始めてしまい寝付けないのだ。
(でも、今は学校だから…)
だから大丈夫だよな、と心の中でつぶやいた。
いつもよりどこか安らかな気持ちになって春海は目をつぶると心の海の底で数を数えた。
(…イー…アー、サン、スー、ウー、リョウ、チー、バー、ジョウ、シイ、シアル、シサン…)
中国語の数の数え方だ。昔からの癖なのだ。
いつ覚えたのかはよく思い出せないが、何やら小学生の時に外国語で百まで数えるのがマイブームだったらしい。
中国語で百まで数え上げたら、次はフランス語。次はドイツ語。ポルトガル語にタイ語。英語に関してはもう数えすぎていてつまらない。
しかしそうやって数を数えていればいつもいつのまにか寝られる。
寝てしまえばこちらのもんだ。
春海は久しぶりに悪夢ではない夢を見ることができた。






***






春海が家路に着く頃には随分遅くなってしまった。
結局家に帰りたくない一心で、体も調子悪いのに部活までやってきてしまった。ついでにファーストフードで夕食も済ましてしまったから余計に帰るのが遅れた。

空は既に暗くなってしまっていて、星がいくつか瞬いていた。
家に帰る足取りは重かった。今ならエイリアンにさらわれても別にいいかな、なんて夜空の星を見ながら思う。

(もう、来たかな…?)

いつも義父が春海のアパートに来る時間は既に過ぎていた。もし一度来たのなら、ドアノブにいつものケーキが垂れさがっているはずだ。
けれど、今日のタイミングは最悪だったらしい。

アパートの前で人影を見つけた、と思ったら義父だった。
長身の義父はヌボッとしていて、暗い夜では闇の使者のようだった。
「…っひっ!!」
声も出ないような悲鳴をあげると、義父は春海に気付いたようだった。
春海は慌ててアパートの階段を駆け上った。その後を義父が慌てた様子で追いかけてくる。
カンカンカンとトタン製の階段を上り終わったところで義父に手を掴まれた。
「待ってくれ!春海!」
脂汗がブワッと出てきた。
「…気持ち悪い。」
義父に掴まれた手から腐っていきそうな感覚だ。
義父はその言葉に顔を歪めたが手を離そうとしなかった。けれど寡黙な義父はすぐに何かを言おうとしない。その沈黙が毒だった。
「…何?」
春海が聞くと、義父は意を決したように何かを口に出そうとした。けれどそれをかき消したのは春海の方だ。

「アンタ、俺のこと好きなんだって?」

ハッとしたような顔で義父が春海を見つめた。その顔を深海のように暗く歪んだ目で春海は見ていた。
義父の表情はその事実を肯定していた。

「…冗談じゃない。」

気持ち悪さが先決する。

「ふざけんなよ!気色悪いんだよ!ちかよんな!!」

腹の底から罵言があふれ出た。
義父の顔は変わらなかった。いつものように無愛想な強面のまま。心の中でどう思っているかなんて分からないが、それを表に出さないようにしている。無理矢理押し込めているのかもしれない。
それが余計に春海の気に障った。

「アンタに俺を好きになる資格なんて無いんだよ!」

そう言うと、義父は何か言おうとした。けれどやはり息を詰めて、その言葉を押し戻した。
(むかつく、むかつく、むかつく)
沈黙に耐えられない俺はそのまま部屋に戻ろうとする。しかし掴まれた手がそれを阻止した。

「…ケーキ。」

義父はそれだけ言うと右手に持っていたビニール袋を俺に押し付ける。
カッと頭に血が上った。

「いらねぇよ!そんなん、大嫌いだ!!」

そう言ってそのままそれを義父に投げつけた。ひるんだ義父の手が春海の手を離すとそのまま駆け出した。
自分の部屋のドアを開けるとすぐに中に入る。そして鍵を二重にかけて、やっと息を大きく吐いた。
ゼェハァ、と自分の息遣いだけが聞こえる。
ドアの外で足音が遠ざかっていくのが聞こえた。義父はきっと今日は帰ったのだろう。

春海は息を整えながら、ふと昔やったゲームを思い出した。
家庭用ゲーム機で遊ぶようなものだった。内容はホラーの類で、怪物と地下都市に閉じ込められた主人公は逃げるしか手段を持たない。地下都市は迷路になっていてどう抜け出すかは主人公の力量次第。そんな中、怪物に出会ってしまったらジ・エンド。怪物とのエンカウンターを避けて逃げて地上に戻る、という理不尽極まりない脱出ゲームだった。

(…あれに似ている。)

けれど、昔と今と違うことは…。

あの時、当時流行っていたそのゲームを買い与えたのはあの男だったのだ。
まだ義父と春海が仲良かった頃、一緒にそのゲームをやって、謎を解いて脱出を試みていた。当時そのゲームは小学生の春海には少し難易度が高かったのだ。

(なのに、なんで…)

今では怪物そのものが義父だ。

(なんでこうなっちゃったんだろう…)

暗い部屋の中で涙が光った。
涙はコロンと頬を流れ出て服に転がるとそれを布地に吸い込まれていった。
春海には自分がどうしてこうなったかなんて考え付かなかった。





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特に展開なし。
written by Chiri(11/3/2007)