ダディ・フー(1) knock knock コン、コン whose there? そこにいるのはだれ? Your daddy. お前の父さんだ。 Daddy who? I don’t have any daddy. どこの父さん?僕には父さんなんていないはずだ Daddy who quitted your dad the another day. この前お前の父親をやめた父さんだ Then you’re not my daddy! じゃ、アンタは僕の父さんじゃないじゃん! 男はいつもドアの向こうで何度も何度も問いかける。 まるで外国の出来の悪いジョークのような会話。 けれど実際これは日本で、しかも春海の住む小さなアパートの部屋と外を分け隔てるドアの前で何度も行なわれていた。 正直、春海もうんざりしていた。 何度も何度もこの部屋を訪れる自分の義父。いや、義父でさえない。今では戸籍上でもつながっていない。あまつさえ、奴は自分をこっぴどく犯した人間だった。 義父が自分を犯したのは一週間も前の話だ。 いきなり母と離婚したはずの義父が春海の部屋を訪れて来た。春海にとってはそれさえが既に威圧的な行動だった。春海は昔義父に暴力を受けたことがあるからだ。 そんな義父が母親と別れたと知り、もう二度と義父とも会うことはないだろうと思っていた矢先の出来事だった。春海は幼い頃に受けた暴力の恐怖が忘れられず、義父に「もう関係ないのだから自分に関わるな」と言った。それに逆上した義父が春海を強引に押し倒した。 押し倒された後に父親の衣服から見つけたのは幼い頃自分が義父にあげた作文用紙だった。義父を慕っていた頃のもので、作文用紙は春海の幼い字で「お父さんが大好きです」と書いてあった。 それをぼぉっと見ながら、春海この男をどうしてくれようかと思った。 隣で未だに眠る義父は隙だらけだ。 殴ってもいいだろう。蹴ってもいいだろう。もしかして傷害罪で警察に突き出す事だって可能かもしれない。 けれどそれを春海がしなかったのは単に犯された体が鈍痛をひきおこして、動くのもつらかったからだ。 それからしばらく時間がたって、義父がのっそりと身動きを始めた時に春海はやっと我に戻った。 「はるみ…?」 義父の声を聞けば、鈍痛が更にひどくなるように感じた。 強いられた屈辱がみるみるうちに蘇った。腹の底からどろどろした憎しみがあふれかえってきて、それをとめるすべは分からない。 (殺してやりたい…) そう思いながらもそれを実行する事はできるはずも無いということは春海には十分分かっていた。 「春海?」 「…出てってくれ。」 じゃないと春海はすぐにでも父親の首を絞めにかかるだろうと思った。きっと殺す事はできなくてもそれに似た事をしでかす。 けれど、義父はそれをきっぱりと断った。 「…嫌だ。」 その言葉を聞けば更に憎悪が燃え上がる。 「聞いてくれ、春海。俺はっ…!!」 「聞きたくない!出てけ!!」 弁解しようとする義父の声をさえぎった春海の叫びは存外悲痛なものだった。それを知りながら義父はそれでも、と続けた。 「嫌だ、今出てったら一生俺をここに入れてはくれないだろう…。」 「当たり前だ!二度とアンタの顔なんて見たくない!」 義父はつらそうに顔をぐしゃりと歪めた。けれどそれを海を慄かせるだけだった。また逆上して犯されたらどうしようという気持ちにさせる。最も義父はそこまで春海の感情に過敏になってはくれなかったが。 「やだ!出てってくれ!本当に嫌なんだ!!」 「…俺も嫌だ。」 叫ぶ春海に義父は静かに答えた。 春海はますます混乱した。ならどうすればいいのだ。ふと未だ手の中にある作文用紙に気付いた。もう5年も前に書かれた作文用紙。 これを義父はずっと大事に持っていた? なくさないように肌身離さず大事に? ならば。 「見ろよ、これ。」 春海は義父に黄ばんで古めいた作文用紙を開いて見せた。義父はぴくりと片眉を上げた。 「大事なんだろ?これ。出て行かなかったらこの場でやぶくよ?」 春海は口の端を片方だけ上げて、あざ笑う。有利なのは自分だと言い聞かせた。口元が震えだしそうなのを根性で押し込めた。 案の定、義父にとってその作文用紙は思いのほか大事なものだったようだ。 「頼む。それだけはやめてくれ。」 「嫌だね。出て行ってくれないとすぐやぶくからな!ほら!!」 「本当に大切なんだ。俺の…宝物なんだ。」 「それなら出てけって!!」 叫べば動揺がばれてしまいそうだった。 (宝物だって!!何、恥ずかしい事いってるんだ、コイツ!) 義父の意固地な言動にも困惑してしまう。ただ出て行けばいい。それだけなのに。 けれど、義父はその場を動こうとしなかった。 春海は泣きそうになった。 (見たくない。コイツの顔、見たくない!) その瞬間、両手で摘んでいた作文用紙をぐしゃっと丸めた。 義父が驚いて目を見開いた。けれどそんなのお構い無しにくしゃくしゃに握りつぶしてやった。 「おい!やめろ!」 義父の声なんてもはや聞こえていなくて、春海は部屋の窓を開けるとそのままその窓下にひかれた道路に投げ捨てた。 「はるみ!!」 驚いた義父はその紙の行く末をガンと眺めていた。 用紙は大通りに転がり、いくつもの車がその上すれすれを通っていくのが見えた。 「ほら!車に踏み潰される前に取りに行けよ!あんたの宝物なんだろ!!」 春海が興奮した様子で叫ぶと、義父は苦虫をかみつぶしたような顔をした。 そして一瞬俯いてから 「…また来る。」 そう言って服装を整えると、アパートを出て行ったのだ。 義父が出て行った瞬間、春海は玄関ドアを閉める。ガチャガチャと震えた手で鍵をかけて、チェーンもする。それでホッと安心したが、今度は窓から道路をそっと見下ろした。 義父が大切そうに丸まった作文用紙を拾い上げてまた綺麗に折りたたむ様子が見えた。 そしてそれをポケットにしまった瞬間、春海の部屋の方角を見上げた。 春海はハッと息を潜めて、体を隠した。 義父の顔は見えなかった。 けれど、それが逆に恐ろしかった。どんな顔をしていたのだろう、と春海は考えた。 般若のような顔で春海に対する復讐を考えていたらどうすればいいのだろうか。 (また来るって言った…) 純粋に怖い、と思った。 けれどその反面、自分の送った作文用紙をあれほどまでに大切にしている事に戸惑いを隠せなかったのも事実だった。 義父がいなくなってから春海はしばらくぼぉーっとした。 一日が何もしないで終わっていくのに気付いたのはもう夕飯時の頃だった。 電話のなる音でハッと自分を取り戻したのだ。 縫い付けられたように床にくっついていた足をどうにか立たせて、電話に出る。電話は春海の母からだった。 『…あの人、来た?』 開口一番にそんな事を聞かれて、ドキッとした。 「あの人って?」 一応聞いてみたが、当り前のように返事が返ってきた。 『あの人よ。喜嶋よ。』 喜嶋と呼ばれて、そういえばあの男の旧姓がそんなんだったことを思い出した。 二人が結婚した時、義父は幼かった春海が名前を変えるのを嫌がったときに「なら俺が三佐和の姓になる。」と簡単に言いのけた人間だった。 二人が離婚したのだから、義父も喜嶋の姓に戻るのか、と心のどこかでぼんやり考えていた。 「…なんで?」 単純に来たという事実を母に伝えるのは憚れた。だって義父は来ただけじゃない、春海をこの上なくひどく蹂躙していったのだ。 母は一瞬だけ押し黙った。けれど、すぐに次の言葉を紡いだ。 『あの人、アンタのこと好きなんだって。』 鳥肌が立った。 『信じられないでしょ?言って置くけど家族愛じゃないわよ。変態よ。異常愛。でもそれが離婚の原因よ。私からこういうのを言うのはフェアじゃないかもしれないけれどこれが私のあの人への復讐のつもり。』 母の言葉をおぼろげに聞く。今、何を言った? 「ハハ…。」 『何笑ってんの、あんた?』 「笑えるよ…。」 どうにも笑いがこみ上げてしまう。 今言った言葉をそのまま鸚鵡返しにして何度も聞いてみたい。 好きだと?それであの行為? ふざけんな、だ。 もう何もかも投げ出したくなった。嫌になる。 勝手な義父にも何も知らない母にも。 案の定、母は激昂した。 『笑い事じゃないんだから!!こっちは大変だったんだからね!』 電話の向こうの母はいつもなら軽く受け流すところを怒りに燃えていた。それだけこの離婚に費やしたエネルギー量は膨大なのだろう。 『アンタなんかに私の気持ち分かるわけないっ!!』 そう言われながら、それでも春海は笑いを止められなかった。 (母さんにだって僕の気持ち、分かんない…。) いきなり昔殴られた人間に来られて。義父だったはずなのに犯されて。それで好きだって? 意味が分からない。 そのままずっと笑い続けていたら、いつのまにか電話は切れていた。いいかげん母も限界だったのだろう。 ふと外を覗くともう夜だった。静かな夜だと思う。 時々、窓の下の道路から、車が行き交う音が聞こえるくらいだった。 「明日、学校…。」 今日が日曜日でよかったと思った。だからこそ仕事マンである義父がうちに尋ねてきたのであろうが。 あのことを思い出すのが怖かった。 だからいつもなら憂鬱な月曜日が来ることに少し安心した。 学校行って、部活をやれば多少は気が紛れる、そう思っていたから。 しかしその出来事を忘れることなんてできやしなかった。 それから毎日、義父はわざわざ春海に思い出させるように夕方ここに立ち寄るようになった。 毎日、呼び鈴を鳴らしてくるのだ。もちろん春海は出ようとしない。 すると今度はノックをしては。 「入れてくれ。」 とドアに話しかけて行く。 それがどうにも気味が悪くて、俺もついドアに叫んでしまう。 「嫌だ!帰れ!気持ち悪いんだよ!!」 それからしばらくすると義父はドアの向こうでガサゴソ言わせて何かをしていった。 義父の気配が無くなり、そっと外に出るとドアノブにビニール袋がかけてあった。 中を見れば、ケーキの箱が入っていた。 今度はフルーツケーキじゃなくてチーズケーキ。 この間フルーツケーキが嫌いだから、と言ったからだろうか? 気味が悪いと思いつつも近所の目があるのでケーキだけは中に入れる。 そう、それがいつしか毎日のことになった。 毎日、義父はここに来る。 開くはずの無いドアにノックをして、話しかける。 Knock, Knock Who’s there? Your Daddy. Daddy who? そして結局追い返されて、置き土産にケーキを置いていく。 それがいつもの日課。 next またアメリカかぶれですよ。Knock,Knockは向こうの言葉遊びのジョークです。 written by Chiri(11/1/2007) |