朕は猫である(9) 「おーい、ちーん。 いるのかー」 朕を呼ぶ声に朕は気付いたが、どうしようもなく、朕はその声を無視した。何故なら朕は今、風呂場に一人挑んでいる。お風呂に単身で入るのはまるで戦場に赴くようだ。 自分で嫌いな水を自分にかけて、その後耐え切れずに頭を振って水を飛ばしたり。シャンプーで髪を泡立ててはその泡を追いかけて、泡を壊したり。それの繰り返しである。 でも、川の水に浸かったのもあるし、山田に髪を汚されたのも気になる。 タカヒサの帰宅を待てなくして、朕は一人で風呂に入ることを決心したのだ。 朕はやっと風呂を出ると、タオルで水を拭いた。タカヒサのパジャマを羽織るとやっと体力を根こそぎ取られたような声でタカヒサに返事をした。 「……タカヒサー、朕はここじゃー」 「うお、居たのか、ちん」 ちんと呼ばれて何故か安心した。疲れていた心に温水を注がれていくようだ。今日一日山田に『ボン』と呼ばれ続けたせいだろうか。 朕はタカヒサにくっつくと、タカヒサに強請った。 「タカヒサ、髪の毛乾かして」 「ってか一人で風呂入ったのか、ちん」 タカヒサは驚いた様子で朕をまじまじと見る。 朕は口を尖らせた。 「朕にできぬことは無い」 このくらい、と胸を張るとフッとタカヒサの笑う音がした。 「なら今度は一人で髪の毛乾かせよ」 「嫌じゃ。 それはタカヒサにやってもらうのじゃ」 ぷくっと朕が頬を膨らませると、タカヒサは「ったく」と言いながら目尻を下げた。ドライヤーを手にするとタカヒサはテレビの前に陣取った。タカヒサのあぐらの隙間に朕は腰を降ろした。 熱風を当てられながら、朕はタカヒサの胸に寄りかかる。 「なんか、ちん……。 髪伸びた?」 「え」 何を言われたかよく聞こえなかった。ゴーゴー鳴るドライヤーはてれびの音も話し声も遠ざけるから嫌いである。 それでもこの時間はタカヒサに全身で寄りかかれる機会でもあるので朕は毎日タカヒサにドライヤーをしてもらう。 「……それに髪の色も」 また聞こえなかった。朕は気にすることをやめて、テレビのばらえてぃ番組を見た。字幕が出ればどうにかテレビは見られる。 朕がてれびを見てガハハと笑うと、やっとタカヒサは黙った。そんなタカヒサに朕は顔を向けると、目を閉じて唇を突き出した。 それはまるでドライヤーをねだると同じような軽さで。 「タカヒサ、して」 朕が催促すると、タカヒサは目を細めて朕にキスをくれた。朕はそれに満足すると、またてれびに視線を戻した。 はぁっと首筋にタカヒサのため息を感じた。 「ったく……んとう悪魔だな、こいつ」 タカヒサの声がまた聞こえたけれど、今度こそ朕は気にしなかった。 *** それから次の日もその次の日も、タカヒサが学校に行った後、朕は山田の元でゴミを拾う作業に従事した。 山田はよくよく見れば白髪まじりだし皺も多かった。どうやら齢60を過ぎているようだ。朕の父王は山田と比べれば全然若かったが、それでも死に際の姿は少し似ていた。山田にしたら失礼どころの話ではないだろうが、朕の国で齢50を過ぎても生きているのは稀なことであった。 朕は拾ったゴミについてくる藻のようなものを嫌々取りながら、「気持ち悪い!」と泣いた。藻といったらまだ聞こえはいいかもしれないが、よく分からないもの、ラーメンの麺だったり、白濁色のぬるっとした感触のものだったり、が絡まってるから余計に気色が悪い。 朕はゲーッと蛙の鳴くような声を出してから、舌を出した。 「ハハ、お前見てるとうちの馬鹿息子がどれだけ優秀だったかが分かるな」 朕を見て山田は笑いながら、そんなことを呟く。 朕は自分を侮辱された事を知り、憤慨した。 「何を言うのか、朕のほうがぜぇーったい優秀じゃ」 「まぁ、俺の息子は優秀すぎて東京行ったまま帰ってくることはないけどな」 山田は足を水の中に浸しながら、手も川の水に入れた。そこにためらいは無いということがすごい、と朕は思った。川の中に埋まった缶を掴むとそれを山田は朕にポイッと投げた。朕はそれを何も言わずにキャッチして、ゴミ袋に入れる。最近は連携業も何のそのである。 「完璧になんてならなくてもいいんだ。 その方が可愛げがあるってもんだ」 山田はそう言ってまた朕に何かを投げた。今度はペットボトルだ。朕はペットボトルの中の泥を漱ぐと、それは別の袋に入れた。 山田の言う意味はよく分からなかったが、山田の息子はどうやら優秀すぎて山田を置いて出ていったのだろう。それはきっと親にとっても誇らしいことなのに、山田は少し寂しそうで朕は不思議に思った。 「そういえば、ボンの銀時計、見つからねーな」 山田は不意に思い出したかのように朕に話しかけた。朕は目を伏せて、頷いた。銀時計どころか、この川で拾ったものでろくなものを見たことがない。 「諦めたらどうだ? どうせ、見つからねーよ。 同じ型の時計探した方が早いんじゃないか?」 朕は首を振った。 「アレでないとダメなんじゃ。 アレでないと」 山田は困った顔でため息を吐いた。 「世の中、どうしようもないことだってあるんだぞ。 気抜いていけよ」 朕は素直に頷いた。 山田の言葉には重みがあった。一千年猫として生きてきた朕にさえ身についていない貫禄。それが山田の言葉を作っている。 「でも、朕はタカヒサの喜ぶ顔を見たいのじゃ」 このゴミ掃除だって朕は善意でやっているわけではない。ただ、タカヒサにもう一度あの時計をつけてもらって「ちん、わざわざ拾ってきてくれたのか。 ありがとな」って頭を撫でられたいだけなのだ。その時の温かさを想像して、朕は今も動いている。 そう考えれば、朕は欲の塊である。 これが何の対価も無い事であったら朕はこうやって動くのだろうか。そんなこと想像もできない。 「明日も来るから」 朕が山田にそう告げると山田は頷いた。 「ボンは一日で来るのやめると思ってたんだけどな」 それは馬鹿にした笑い方だけど、どこかで朕を褒め称えていた。朕も少しだけ誇らしげに笑みを浮かべた。 朕と山田、そして他のボランティアの人たちで拾ったゴミはトラックに積み込まれて夕日の方へと走っていった。オレンジ色に染まった川はいつもより少しだけ綺麗な水面を漂わせている。 朕はここ数日働き尽くしだった為に疲れ果ててしまった体を家へと向かわせた。何も収穫のないまま帰るのは、まるで敗戦の後の兵士のような気分である。 *** 家のドアをくぐると、タカヒサが玄関で仁王立ちしていた。この時間に帰ってきているのは珍しい。タカヒサのバイトのシフトが少し変わったのだろうか。 タカヒサは少し不機嫌そうに朕を眺めていた。あまり彼の目つきは良くないものだから、笑っていないと獣のような目になる。 「ちん、どこに行ってたんだ」 朕はタカヒサの顔を見ながら、黙った。銀時計を探している事を朕はタカヒサに知られたくなかった。 朕が黙っているのを見て、タカヒサは片眉をあげた。 「なんで言わないんだ」 「……タカヒサには内緒だからじゃ」 朕はむくれながら、靴を脱いだ。タカヒサの横をするりと通り抜けて、バタバタと廊下を行く。 タカヒサは片手で頭を掻きながら、舌打ちした。 「あーくそ」 と小さく声が聞こえて、朕は不愉快になった。 だって、朕はタカヒサの為にやっているのだ。そしてどうせならタカヒサに内緒にしてさぷらいずにしたい。でも、それを知らないで朕を責めるタカヒサに腹が立ってしまう。 「ちん」 後ろからタカヒサの声が朕を追いかける。 朕は軽く振り向いた。タカヒサは冷静になったのか、いつもの顔に戻っていた。 「なんじゃ」 「お前、いきなりどっかいなくなったりするなよ」 何を当たり前のことを、と朕は思った。けれど、タカヒサは至極真面目な様子で朕を見ていた。 朕は訝しげにタカヒサの顔を見た。 「何故そんなことを言う」 タカヒサは答えた。 「だってお前猫だろ」 「朕は猫じゃない」 即座に朕は答えた。何故なら朕は皇子である。人間である。猫ではない。 けれど、タカヒサは寂しそうに笑った。 「猫は気まぐれだからさ」 酷い話だ。猫でないと言っているというのに。 「ちんは気まぐれな猫だ」 もう一度そう決め付けられて、朕はひどく腹が立った。 朕は猫でないのに。朕はただ、タカヒサを喜ばせたいだけなのに。それは猫である時には考えられないような感情だというのに。 朕はタカヒサの体めがけて、猫パンチを食らわせるとそのまま風呂場に走っていった。汚いし、臭いし、疲れたし、タカヒサも変なことを言うし! 朕の頑張りが全然報われなくて、全てを恨めしく思う。朕は皇子である。何故全て朕の思い通りに行かないのであろうか。 next 不穏な雰囲気に。 written by Chiri(6/6/2011) |