朕は猫である
朕は猫である(10)



 朝、タカヒサが学校に行くより前に、朕はそろりとベッドから抜き足で出た。横でグースカ寝るタカヒサを尻目に朕は大きく伸びをした。
 最近は時間があればすぐにでも川に向かいたくなる。
 朕はまだタカヒサの時計を諦めていない。探す時間が増えればその分だけ見つかる可能性も増えると信じている。

「ちん、どっか行くのか」
「え」

 寝ぼけながらタカヒサが体を起こす。起きているとは思っていなかった。朕はたじろぎながら、言葉を濁す。

「な、内緒じゃ……」
「ハッ、内緒か」

 タカヒサは口元だけで笑った。なんだか、タカヒサは最近嫌な笑い方をするのだ。朕はもやもやとした気持ちのまま、帽子を目深にかぶり、マフラーを首に巻きつけた。逃げるように家を出ると、まだ走ってもないのに動悸が早鐘のように鳴っていた。

「タカヒサの為なのに」

 全く何かもかも上手くいかない。
 それでも万が一にも時計を見つけた時、タカヒサはきっと今まで見たことの無いような笑顔で朕を褒めたたえるだろう。その日を思えば、力も沸いてくる。

 川に行くと、山田が朕に手を振った。いつものメンバーがそこに居て早くもゴミ拾いをしていた。山田を筆頭にどいつもこいつも定年を迎えた男女ばかりである。がむしゃらに仕事をして、ふと定年を迎えればやることが無く、思い付きでせめて地球に良い事をしようかと思った。そんな軽い理由でこの人たちはここにいる。そんな簡単な理由で彼らは無給で働くのだ。
 朕にはそんな気持ちが理解できない。

「おーい、ボン!」

 名前を呼ばれて、朕はハッと顔をあげた。山田にその他のメンバーが皆朕の顔を笑顔で見ていた。
 不思議に思いながら、朕はその集まりに駆け寄った。

「ほら、見ろよ。 これ」

 山田は徐に右手を朕に差し向けた。朕は眉を顰めて、それを凝視した瞬間、目を見開いた。

「5キロくらい川下で見つけたってよ」

 朕は顔を上げた。ニヤニヤと笑う山田と他の人たち。朕は興奮して顔が途端に赤くなった。

「……ありがとう!」

 朕はそう言って山田に抱きついた。感謝なんて人にした事はなかった。なのにその言葉は勝手に口から出ていた。
 むわっと山田の加齢臭が沸き立つ。それさえも気にならないくらい朕は逆上せていた。
 朕のプライドもひねくれた考え方も全てが小さい事のように思えた。
 やんややんやと周りも朕と山田を囲んでは騒ぎたて、「良かったねえ」と何度も朕に声をかけた。朕が毎日ここに来て手伝っていた事をここにいる人は皆知っていたから。

 山田の手によって朕に渡された銀時計は、あの日よりも泥にまみれて少しくすんでいた。 それでもその大きさも、重みもタカヒサの父の形見である時計に違いなかった。

「これでタカヒサもきっと喜んでくれる」

 朕はすぐにでもタカヒサの顔が見たくなった。
 今朝のような不機嫌な顔はもうみたくない。朕が初めてノートを届けた時、嬉しそうに歯を見せて笑った。まるで折り紙のようにくしゃりと顔のパーツを崩して笑うのだ、奴は。

「いやーまさか見つかるとは思わなかったな。 ボン、お前は全く運がいいな」

 山田はガハハと大きな口を開けて笑うと朕の背中を何度も強く叩いた。その度に朕はゆさゆさと揺れたが、顔の表情は緩んだままだった。

「当たり前じゃ! 朕は天命を持つものだからな」
「そうかそうか」

 朕の言葉を本気にしないまま、山田はその後も何度も朕の背を叩いた。勢い余って川に落とされそうになっても朕は笑っていた。まるで朕の頭の中が花畑にでもなってしまったようだ。

 しかし、山田は口を引き締めると、目を細くした。

「……いや、でも本当良かったな、ボン。 ボンが毎日頑張ってゴミ掃除したから、きっと見つかったんだぞ。 お前の努力が実ったんだ」

 山田は突然トーンを変えて、朕に語りかけた。まるで父王が朕を諭すような口調で朕は内心ドキッとした。
 それは朕を喜ばす言葉。そして、この世の中の温かさを教えてくれようとしている言葉。
 朕は山田が言葉を繋ぐたび、うんうんと何度も頷いた。
 けれど、山田は最期にもう一言ポツリと呟いた。

「だがな、頑張り続けて願いが叶うってのはそうそう起きないんだぞ。 だからこそ、それは価値のあるもので、奇跡だって言われるんだ」

 それはこの世の儚さを告げる言葉。
 朕は多分無意識にその言葉を無視した。
 その時の朕は、朕の努力が見返りを必然的に生んだのだと決め付けていたのだ。



***



 家に帰ると、朕は急に疲れてしまった自分に気付いた。そういえば、ここ最近朕は動いてばかりだった。食っちゃ寝して過ごしていた日々に比べると、どれだけエネルギーを消費したことだろうか。
 朕は鼻歌を歌いながら、ベッドにダイブした。

「今日の朕は一日寝る日〜♪」

 節に乗せて口ずさむと、余計に楽しくなる。布団の中で足をばたつかせたり、腰をフリフリ振っては朕は鼻歌を歌い続ける。

「『ちーん、ちーん、ありがとう〜♪』 タカヒサは朕にめろめろ〜♪」

 フー!と無駄にハイテンションで合いの手を入れてみる。誰もいない家でこれはとても寂しい行為だったが、朕は興奮していて気付かなかった。
 やがてやっと気持ちが落ち着き、眠気が襲うと朕は静かに瞼を落とした。夢の中では歌の続きが繰り広げられていた。朕に夢中なタカヒサを朕は楽しげに見守る、そんな夢である。
 朕は自分の幸せを確信していた。けれど、それがきっといけなかったのだろうか。

 ふと、物音に気付き、朕は布団から頭を出した。手元にある銀時計の示す時刻は夕方5時。タカヒサはこの時間にはまだ帰ってこないはずである。
 不思議に思いながら、朕は足音を立てずに襖の隙間からダイニングを覗き見た。

「ふんふんふーん♪」

 朕と似たような鼻歌が聞こえた。それも女の声だ。

「タカヒサはシチューが大好き〜♪ お肉大好き〜♪」

 節にあわせて即興の歌詞をつけているところなんて朕のテンションとそっくりである。朕は目をまるくしながら、その人物の後姿を観察した。

 美しい艶を持った黒髪は長く、二の腕のあたりまで伸びていた。ニットのカーディガンにフレアスカートを着た女性は全体的にほっそりとしており、タカヒサほどでなくとも、朕よりは背が高そうだった。
 女は台所に立ち、トントンと人参を切っている。何故かタカヒサのいつも身につけているエプロンを当然のように着ており、朕は先ほどの高揚した気分が瞬く間に下がってしまった。

(一体、誰じゃ。 このおなご……)

 これ以上ドアを開けたら朕の姿が見えてしまいそうである。朕は息を殺しながら女子を見張った。

「タカヒサったら可哀相〜♪ いつもノブにあげちゃうからお肉食べられない〜♪」

 女子の歌はやまない。しかも、ノブのことまでこの女子は知っているらしい。どうやら見知らぬ変質者ではないらしい。
 そもそも玄関に鍵はかけておいたはずであるのに、何故この女子はここに入れているのであろうか。

(合鍵……?)

 ふと思い立って朕は心が揺れた。
 このアパートには鍵が複数あるとタカヒサは言っていた。けれど、朕がそのもう一つの鍵をもらえていたはずだ。まさか、まだ鍵があるなんて思っていなかった。
 朕はタカヒサはずっと恋人なんていないと高をくくっていた。女の影なんて一度も感じなかった。けれど、今思えばこんなタカヒサに特定の女性がいないと言うのもなんだか不自然な気がした。何故ならタカヒサはいい男だから。

 ドキドキと鼓動が鳴る中、女子はクシュンッと小さくクシャミをした。女性特有の可愛らしいクシャミだ。

「嫌だわ、ハウスダストかしら」

 掃除もしていこうかしら、と呟いた彼女に朕は壮絶に怒りを感じた。

(この部屋は毎日タカヒサが綺麗にしてるのに……っ)

 朕は汚すばかりだったけれど、でも毎日タカヒサが掃除機で埃をとっているし、他の誰かにこの家は汚い、片付けてしまおうと言われるのは屈辱的であった。
 ドアを持つ手に力が入る。汗もにじんでくる。

(タカヒサは朕のものじゃ……)

 何に怒ってるのも分からないまま、朕の頭の中にはその言葉だけが残った。
 朕は女子を睨み付けたまま、その場を動かなかった。女子は手際よく、残りの野菜を切って、次々と鍋に放りこんでいく。しばらく女子が調理を続けると、女子は突然「あらいけない!」と言い放った。朕はいきなりの大きな声にびくりと飛び上がった。

「ドラマが始まっちゃうわ! もう帰らなくちゃ」

 女子は生ゴミを集めて一つの子袋にしまうと、鍋の火を止めて、そのまま出て行ってしまった。何の惜しみなく、簡単にこの部屋を出た女子には朕は唖然とした。
 無人になった台所に恐る恐る足を踏み入れる。

 良い匂いがする。まったりとしたミルクと茹で上がった野菜。

 だって、シチューはもうそこに出来上がっているのだ。
 その状態に関わらず、女子はタカヒサの帰りを待つでもなく、タカヒサに伝言をするでもなく、そそくさと帰っていったのだ。
 朕はそれが信じられなかった。

(タカヒサの為に何かをするというなら、タカヒサから見返りをもらうのが普通では?)

 その場合の見返りとはきっとタカヒサの言葉や表情をさす。
 けれど、女子はそれすら求めなかった。

 すなわち、それは。

(……無償の愛?)

 言葉にしそうになって寒気がした。
 朕にはそんなこと真似できないと思ったからだ。
 何故か涙が出てきた。

 タカヒサにはそんな無償の愛をくれる女子がいると言うのだろうか。けれど、朕はそれには適わないと思っている。
 朕には料理はできない。料理の評価ができても自分では作れない。最近一人でお風呂に入ることができるようになった。でもそれだけだ。朕は他に何もできない。
 朕はあの女子に負けている。完全に負けているのだ。

 それでも驚くような執着心も心に住み着いていた。

(それでも、タカヒサは……朕のものじゃ)

 タカヒサは朕の下僕になると自ら言った。なら、全てが朕のものである。何も心配することなどない。
 けれど、不安がどうしても募ってしまう。
 朕が唇がかみ締めた瞬間、呼び鈴が鳴った。

「ちーん、帰ったぞ」

 タカヒサは自分で鍵を持っているから、呼び鈴を鳴らした瞬間に入ってくる。ドタドタと無造作な足音に朕は少しだけ安堵した。あの女子は小股で音符を奏でるように歩いていたから。

「あれ? この匂い、シチューか?」

 一瞬で当てられて、朕は心の中にある梵鐘を鳴らされたような気分になった。
 タカヒサは台所にいる朕を見ると、目を大きく見開いた。

「ちん、料理してたのか?」
「え」

 タカヒサの顔がほころぶ。
 朕はそれに慌てた。

「俺、シチュー好きなんだ。 作ってくれたのか?」

 そんなもの。

(朕に作れるはずが無かろう)

 そう言いたかったのに、その言葉が出てこない。魔術で封じられているように、とにかく無理なのである。
 朕は目をそらした。フローリングのつなぎ目を見ながら、朕の口が勝手に動いた。

「朕に出来ぬ事は無いのだ」

 そう言うと、タカヒサはキラキラと目を輝かせて、朕を見たのだ。胸が苦しかった。嘘ではない。朕に出来ぬ事は無い、そう朕は常日頃から思っていた。それに今のはシチューを作ったのが朕と明言したわけではない。朕は嘘などついていない。
 それに朕にはちゃんと朕の『手柄』があるではないか。
 朕は息を呑んでから、ポケットに手を入れた。

「タカヒサ、これ」

 タカヒサの顔つきが変わった。
 朕の掌にある銀時計を見て、タカヒサは「ちん、これは……」と言葉を呑んだ。

「川の中探したのだ」
「この冬にか!?」

 突然タカヒサの語気が荒くなり、朕は驚いた。タカヒサの顔を伺いながら、そろりと頷くと、タカヒサは朕をいきなり抱きしめた。

「バカヤロウ! 風邪引いたらどうすんだ」

 バカヤロウとは酷い言い分である。
 けれど、実際タカヒサの腕は暖かくて、力強くて。朕は求めていたものがこれである、と確信した。タカヒサに触れられると、心が満たされていく。それは不思議な心地だ。

「タカヒサ……」

 朕が顔を上げると、タカヒサは朕の唇に吸い付いた。舌が入ってきて息が苦しくなる。それでも必死にタカヒサの舌を自分のそれで追いかける。唇が離れると、タカヒサは朕の顔を真っ直ぐに見た。

「シチューは……あとでな」

 そう言って、タカヒサは朕の首筋に吸い付いた。朕は赤い顔で鳴いた。

「タカヒサ……んっ、あ」

 服を脱がされながら、朕はちくりと抜けないトゲを感じて、心臓全体が痛くなった。タカヒサはそんな朕の心情など知らずに鼻を朕の肌に擦り付ける。
 シャツの中にタカヒサが手を入れてくる中、朕はその行為に没頭しようと頭を切り替えようとした。台の上に手をつきながら、後ろからタカヒサに抱きしめられ、同時に何度も突かれる。二つの体が一つの塊になって何度も揺れ動く。

「ん、あ、あっ……たか……ッひさッ」

 名前を呼ぶ度、タカヒサの大きな手が朕を強く抱きしめた。高い体温を共有しながら、それでも心の中でどこか冷えた部分が残る。
 すぐそこに香る出来立てのシチューの香り。
 それが朕の鼻腔から離れず、あの女子の影を感じないではいられなかった。





next



馬鹿なちん。本当のことだけ言っておけばいいのにね。
written by Chiri(6/13/2011)