朕は猫である
朕は猫である(8)



「またお前は一人になったな」

 夢の中で笑う猫に言われた言葉で朕は飛び起きた。

 朕が身体を起こすと、まず臀部に激痛が走った。
 昨夜朕に起きたことを思い出して、朕は青ざめた。それは辱めと言っても良い行為だったかもしれない。けれど、その発端は朕の起こした行動によるものだった。体の痛みなどいつか治るものだ。けれど、朕がタカヒサにした事をそうは簡単に修復できない事であろう。

 じくじく痛むまま、朕は膝に腕を置いた。頭に血が巡っていないのか、正常に身体を起こせなかった。
 すると、奥の部屋からタカヒサが突風のようにして飛んできた。

「大丈夫か」

 朕に手を貸すタカヒサに朕は眉を顰めた。

「一人で立てる」
「痛むのだろう? ちんは寝てろ。 今、飯をこっちに持ってくるから」

 気持ち悪いほどの尽くしぶりである。
 まるで朕の余命が幾ばくかも無いかのような接し方だ。

 朕は唇をキュッと結んだ。おそらく悲しくなったのだ。まるでタカヒサが朕の本当の臣下になったようだ。君主が間違ったことをした時、それを正してくれない臣下がいないということは君主にとって不幸である。そう父王は朕に伝えた。
 朕を正す臣下は今までいなかった。
 ただ一人以外は。朕を正そうとしたのは、後にも先にもこの時代に来て出会ったタカヒサ一人であった。

「テレビみるか? あっちのテレビ、こっちに持ってくるよ」

 頼んでも居ないのにタカヒサはテレビを移動させ始めた。朕は途端に悲しみから怒りへと変わった。

「今までそんなに優しくしてくれなかったのにいきなりなんじゃ」

 タカヒサは何も言わずに朕を見た。朕はむくれた顔で続けた。

「朕が靴を舐めろと言えばそうするのか」

 言っていて自分で悲しくなった。とんでもない事を言っている自覚はあったのに、タカヒサが何も言わなかったからである。それはまるで肯定ともとれてしまい、朕は本当に孤独の中に置き去りにされたような感覚になった。

「もういい。 朕は一人になりたい」

 朕が顔を背けたままそう言うと、タカヒサは何も言わずにその場から立ち去った。
 バタンと玄関の扉が閉じる音がして、タカヒサが家すら出て行ったことを知って朕は涙ぐんだ。
 一人になりたいと言った傍から一人になることが解決策でなかったことを知った。

 しばらく横になると、深い闇に包まれ、朕は枕で涙を拭った。
 トントンとまな板が叩かれる音に目を覚まし、朕はまた身体を起こした。タカヒサが帰ってきて、台所で何かを作っているようだ。こっそりベッドを抜け出て、キッチンを覗く。
 冷蔵庫に無かったはずの野菜を切っているのを見て、朕は唇を噛んだ。買い物は朕の仕事だったはずなのに悔しい。タカヒサはもう朕に働かすつもりはないのだろうか。
 朕はそろりと台所に近づいた。
 タカヒサは何も気付かず、調理を続けた。
 朕は自分のことがなんとなく分かった。朕は寂しいのだ。朕が孤独ではないということを思い出させて欲しかった。

「タカヒサ」

 そう言って、朕がタカヒサの背中に触れた瞬間、タカヒサはバッと振り向き、驚いた顔で朕を見た。

「危ないだろ、触るな」

 包丁を持ったタカヒサの手を見て、その言葉を理解する。けれど、多分、タカヒサは包丁を持っていなくても朕を今避けただろう。
 そんな表情をしていた。

「タカヒサ、朕は分かったのだ。 朕はタカヒサが嫌いじゃないのじゃ」

 朕がそう言うと、タカヒサは目を瞠った。朕の目には既に涙が浮かんでいた。
 朕は昨夜この男に抱かれた。驚いたし、屈辱的だった。あんな事をされるくらいなら死んだ方がましだと思っていたことだ。でも朕は気持ち悪くは無かった。朕はどこかでタカヒサを許していた。ショックと共にどこかで受け入れる準備をしていた。
 多分、それは。
 朕はタカヒサを嫌いではないのだ。そして、その感情は『嫌いでない』どころではないのだろう。
 屈辱的な事実である。朕は皇子なのに。このような貧乏くさい平民に。

「朕はタカヒサに距離を置かれると苦しい」

 ありのままを話すと、タカヒサがふぅっと息を吐いた。朕の言葉を重く受け止めているのだろうと簡単に予測できた。
 朕はそれを利用しようと考えた。

「タカヒサが朕の我儘を受け入れるというなら、そなたはこれからも朕の傍にいるのじゃ。 ずっとじゃ」

 タカヒサは眉間に皺を刻み、朕を見つめた。
 朕はタカヒサの頬に手を伸ばした。タカヒサはその朕の手を彼の手でおろした。朕は悲しくて目を俯けた。
 不意にタカヒサの口をついて出た言葉。

「……違うんだ。 ごめん、ちん。 俺、昨夜はちょっと懲らしめるつもりだったのに途中から止まらなくなっちまったんだ」

 タカヒサの目は困惑に揺れ、タカヒサ自身でも分かっていない顔だった。タカヒサの手は小刻みに震え、朕はそれを目を細くして見つめた。

「……ごめん、近寄らないでくれ。 また、さわりたくなるかもしれない」

 胸をつかまれたようだった。
 タカヒサは、朕を性の対象として見ているのだ。それは屈辱的であると同時に、どこか心の隅に安堵を呼び起こす。

「タカヒサ、触ってよいぞ」

 朕はタカヒサの手に触れた。

「触ってよいのだぞ」

 触りたいのは朕の方である。タカヒサに触れて、孤独から逃れたい。朕はもう一人にはなりたくない。
 朕はきっともう猫には戻れない。

 タカヒサは心臓をバクバクと鳴らした。
 ああ、タカヒサだってまだ少年に毛が生えたようなものなのかもしれない。
 そんなことを思いながら、朕はタカヒサに唇を寄せた。背の高さにつま先を伸ばすと、最後はタカヒサの方から距離を詰めてきた。

 ちゅっと小さく音をたてると、タカヒサは真っ赤な顔で朕を見つめていた。

 朕は安心して、タカヒサの胸に抱きついた。

「ちん」
「ごめんなさい」
「え」

 朕はタカヒサの胸の中で安堵の息を吐いた。今なら、安心して云える。

「時計なくしてごめんなさい」

 朕はタカヒサの顔を見た。タカヒサは卵のように目を大きく見開いて朕の顔を覗き込んでいた。

「本当はちゃんと言いたかったのじゃ」

 悪い事をした時には人に謝ること。
 それは、この世界では普通のことである。それさえもできていない朕は何だったのか。皇族とは一体何なのだろうか。
 すると、突然タカヒサが頭を垂れた。

「俺も昨夜はごめんなさい」

 朕は首をかしげた。タカヒサは朕に謝ることは無いのである。

「タカヒサ、朕はもうタカヒサを許している。 それよりも、そなたは朕のことを許しているかが知りたい」

 タカヒサは驚いた風に朕を見つめた。

「許しているよ」

 当たり前だろ、とタカヒサは強く言った。それに安心して、朕は笑った。タカヒサは朕の顔をぽかーんと見てからもう一度抱きしめた。
 タカヒサは朕を好きなのだろうか。本当に愛しているのだろうか。
 そんなことをぼんやり考えながら朕は目を瞑った。

「……朕はお尻が痛いから今日はもう寝る」

 すーっとそのままタカヒサに身体を預けると、タカヒサは「……そっか」と言って、朕の背中を撫でた。そのまま朕を担ぎベッドに連れて行った。
 布団をかけられ、朕は目を薄く開けた。

「タカヒサ」
「ん」

 とても恋しい。

「接吻を」

 タカヒサは目を大きく開けてから、右手で自身の顔を覆った。

「お前は本当悪魔だな」

 そう言いながらタカヒサは朕に覆いかぶさった。タカヒサから口にキスを落とされると、朕はやっと満足した。今日一日の不安もすっきり流せた気がする。
 今度はきっと良い夢が見れるだろう。そんな気がする。

 朕は無意識に笑みを寝顔に浮かべた。タカヒサの手のぬくもりを頬に感じながら朕は目を閉じた。



***



 明くる日に朕が起きると、既にタカヒサは学校へと行った後のようだった。テーブルの上に今日の買い物メモが置いてあり、これは朕の役割だと理解する。
 帽子をかぶり、迷子札を持って、朕は春の陽気が少しだけ香る外へと繰り出した。

 早々に書いてある買い物を買い揃え、朕は散歩へとシフトする。家の中から見たときは春のように暖かくみえた外界はやはり少し寒い。それでも天気が良いせいと自分の機嫌が良いせいか、まるで楽園にさえも見えた。

 朕はてれびで聴いたCMの曲を口ずさみながら川沿いの遊歩道を歩いた。遊歩道にはどこかの家からか種が飛んだのだろう、雑草では無い花が散り散りに咲いていた。白い花びらと黄色い花弁は冬に匂う微かな春の兆しのようである。

 ふと、複数の人間の声が聞こえ、朕は辺りを見渡した。橋の下に何人かの男女が集っていた。朕は不思議に思い、土手を下った。

「そなたたちは何をしているのじゃ」

 朕が歩み寄ると、一人の中年の男が朕を見た。朕の髪の色を見てから、面倒そうに答える。

「川のゴミを拾ってるんだ。 ここでいつもゴミが溜まるからな」

 足元まであるウィンドブレーカーを着て、帽子もしている。濃い眉毛に切り揃えていない無精髭は清潔感が無かった。こんな寒い日にやらなくても、と思いつつもほとんど毎日ここでゴミ拾いをしているらしい。
 朕はそんな人々を見て、本能的に嫌悪感を感じた。汚い仕事をするのは下々のものの仕事だと思っていた。

「そなたたちはいくらくらいの賃金をもらってるのじゃ」
「はぁ? ボランティアだよ、こんなもん。 自分達の住む町の川くらい自分達で片付けないと」
「ぼらんてぃあ」

 朕は聞きなれない言葉を首をかしげた。

「お前、日本語分からないのか? 無給でやってるってことだよ。 言わば善意で働いているという事だ」

 朕は目を丸くした。

「汚い仕事を善意でするのか」
「お前、さっきから面倒くさいな。 もう、どっかに行ってろ。 お前みたいな小奇麗なボンボンには関係ないことだ」

 男は心底疲れた顔をして、朕を追い払うそぶりを見せた。朕はその仕草にカチンと来た。朕は確かにボンボンである。それどころか王族である。
 けれど、朕はこの世界のことをもっと知りたい。
 タカヒサだってきっと善意で朕を拾った。今もきっと善意で朕の世話をしている。そんなタカヒサをもっと知りたいという理由かもしれなかった。
 それに、もしかしたら。

「二日前に時計をこの川の川上で時計を落としたのじゃ。 それがここで見つかる可能性はあるか」

 男は怪訝そうに朕を見てから、ため息を吐いた。

「お前、それ絶対見つからないぞ」

 朕は目を伏せた。
 朕のした事は罪悪である。できれば自分で信用を取り戻したい。

「大切なものなのじゃ。 ……大切な人間の大切なものなのじゃ」

 男は朕を値踏みするように見ると、無精髭を右手で撫でた。

「まぁ、もしかしたら見つかるかもしれないな。 けど、見つからなかった場合はお前は善意で汚いことをするってだけで何ももらえないんだぞ」
「別にそれでいい」

 朕がはっきりと答えると、男は徐にウィンドブレーカーを脱いだ。それを朕にかぶせると、親指を川に向けた。

「今日からやってけよ。 それは貸してやるから」

 朕はその男のくれた上着の袖に手を通した。

(うわ)

 タカヒサよりもずっと臭い服である。
 煙草と汗の臭い。そのもやっとした異臭に鼻の息を止めながら、朕は男の後を追った。朕は我慢する事をいつのまにか覚えたらしい。
 冬の川の水は冷たかった。普通の家庭のゴミのようなものがいくつも流れ着いている。酷いものではテレビや自転車まであった。

「ここをゴミ捨て場だと勘違いしている奴がいるんだ」

 山田と名乗った男の言葉を聞き、朕はそれを捨てた見たことも無い人間に腹が立った。そいつらのせいで朕の時計を見つける手間が増えてしまう。

「お前、名前はなんて言うんだ」

 山田の質問に朕は口を閉ざした。
 朕の名前、『ちん』。それは少し言いたくない。慣れたとはいえ、自分でそれを名乗るのは少し憚れる。

「なんだ、答えろ」
「……内緒じゃ」

 朕がツンと顔を背けると、山田は「こいつ!」と言って朕の繊細な髪の毛を汚い手で撫で繰り回した。泥の臭いが頭に移る。
 朕はあまりもの暴挙に呆然とした。

「……おのれ、山田!」

 朕が腕を振って怒りを露にすると、あろうことか山田は笑った。

「ってか俺のこと呼び捨てかよ。 自分で名乗らないなら勝手にあだ名つけるぞ」
「何」
「そうだな〜お前の名前は『ボン』だ。 ボンクラのボンな。 元気だけはあるようだからその元気はとっておいて川掃除してろ」

 朕は開いた口がふさがらなかった。
 『ちん』の次は『ボン』である。何故、この国の人間は勝手に朕に名前を付けていくのだろうか。

「山田め、許しがたい……」
「全ッ然怖くねーな。 ほら働け、ボン」

 ひどく失礼な奴である。朕は頬を膨らませながら奴を睨み付ける。
 けれど、言っている事はその通りなので朕は渋々口を閉ざした。

 指先が凍てつく中、朕は川沿いに流れるゴミを拾い続けた。
 タカヒサの時計は見つからなかったけれど、朕はこんなに一所懸命に何かをするってことはあまり無かったな、と心の中で思った。





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おっさん登場。
written by Chiri(5/30/2011)