朕は猫である(6) 「おい、ちん。 朝だぞ」 白米の炊けた匂いで朕は意識だけ起きた。やはりあの米を炊く機械、只者ではない。そんな事を思いながらも今日もどうしても目が開かない。 そうじゃ、昨日は買い物もしたし、タカヒサに褒美もやった。朕は十分すぎる働きをしたではないか。 「朕はまだ寝るんじゃ」 朕は自分の布団を頭から被ると、また毛布に身をくるんだ。 「おい、ちーん」 タカヒサの呼ぶ声が遠のく。 夢の中のタカヒサは朕にそれはそれは恭しく接する。 「……皇子、白米をお持ちしました」 そうやって銀食器に米を山のようによそい、そこから花でも摘むかのようにご飯を箸で掴み、朕の口に運ぶ。 「……皇子、美味しいですか? ところで、絹の服を作らせたのですが、お召しになりますか?」 タカヒサはどこからか艶やかに光る布を取り出し、朕の肩にかけた。匂いを嗅ぐとオミジャの実の香りがして、朕はやっと深く息を吸えた。そうだ、これが朕の本来の衣服である。 「……皇子、お気に召されましたか」 大きく首を縦に振り笑いかけてやるとタカヒサも目を細めた。 それにしてもタカヒサの奴め、朕の名前をさっきから忘れおって。皇子、皇子と言うだけで、朕の名前を言わないではないか。 はて。 しかし、朕の名前は一体何なのだろうか。 自分でも思い出せないのに、タカヒサが知っているのだろうか。 「タカヒサ、朕の名前を呼べ」 タカヒサは慎ましく微笑みながら、また口を開いた。 「恐れ多くて言えないことです」 「良いから、言え」 タカヒサは恭しく頭を垂れた。朕はなんだか悲しくなった。これで誰も朕の名前を呼ぶものはいなくなった。朕の名前を知るものさえいない。 しかし、次の瞬間、彼の口から何かが聞こえた。 「ちん」 朕を呼ぶ声である。朕の真の名では無いだろう。けれど、タカヒサは朕を呼ぶ言葉を口に出したのだ。 何たる侮辱。朕をちんと呼ぶとは。 しかし朕は自分の名が何だったかを思い出せないのに対して、『ちん』が朕の呼び名である事に慣れていることに気付いて、歯をかみ締めた。 朕は『ちん』と呼ばれることを望んでいるのかもしれない。 「もう傅くのか」 老婆のようなしわがれた声に朕は顔を上げた。宮廷の屋根には白い猫が黄色の目でこちらを眺めていた。あれは朕が姿を模していた頃の猫である。けれど、その猫は気味の悪い笑みを浮かべていた。 「皇子としての誇りも捨てて、嘆かわしい」 その猫は何千年も生きた者のような口ぶりで朕に話しかけた。 「王となるならば、その孤独は本来お前のものである。 その孤独に耐えてこそ、王族だと言うのに。 嗚呼、嘆かわしい」 言葉とは裏腹に猫は三日月型に唇を歪ませ、楽しげに笑った。 朕はそれを見て、拳を握った。王族として生まれてきた義務。それだって昔は感じていた。けれど、今のこの世界でそれはどれだけ無意味であるかもやっと分かってきた。 「お前は呪われている。 それは孤独という名の呪いである」 猫はそれだけ言うと、塀の裏へと消えていった。朕はそれを追いかけようとは思わなかった。ただ、それがまるで本当の事のようだと、心のどこかで納得してしまっていた。 *** 目を覚ますと猫はいなくなっていた。 それどころかタカヒサもいなく、いつもやかましく囀る小鳥の群れもいないことに気付く。時計を見ると、もう朝どころか昼である。朕は足を布団から出した。 朕は自分の見た奇妙な夢を思い出し、拳を握り締めた。鏡返しの呪いを朕は解きたいのだろうか。それともこのままでもいいと実は思っているのではないだろうか。 小さくため息を吐きながら、朕は洗面台に向かった。 猫の習性が残っている為か、あまり水を浴びる趣味は無い。それでも浴びるのはやはり自分を香りよく保ちたいからである。 ふと洗面台の脇に反射した光に朕は気付いた。 (あ、これ) 朕はそれを手に持ってぶら下げた。タカヒサが持っていた銀時計である。 数秒間それを眺めてから、朕はにんまりと笑みを浮かべた。 そうか、ご褒美である。嫌な夢を見た自分へのご褒美、労い。その類の幸運であろう。 朕は鼻歌を歌いながら時計を腕につけた。やはりこの本物の銀の光沢は朕の白い肌によく似合う。タカヒサが腕にするよりもずっとずっと似合う。 「大体、タカヒサはものの価値が分からない奴だしな」 なんせ、貧乏なのだ。 朕に布の切れ端で作った帽子やタカヒサのお古を平気で着させる。けれど、そんなボロキレ同然の服でも、朕は最近は思うのだ。何やら、温かい気持ちになる、と。 (ってそんなのどうでもいいじゃないか) 朕は時計をつけた左腕を天に照らした。良いものはどの時代も良い。それを見る目はおそらく王族だった朕であるこそ養われたのだろう。 銀時計をつけた瞬間、不思議と朕は外出したくなった。 身体が軽くなったようだ。こんな木枯らしの吹く寒い日に外に出ることなんて普段なら考えられないのだが、カーテンの向こうを見るとまるで外は楽園のように思われた。 タカヒサに与えられた迷子札と帽子を被り、朕は部屋を後にした。外に出るのは実に久しぶりである。猫であったとき、自分がこんな寒いところで寝起きをしていたのが今では信じられなかった。 いつもの公園で時間を潰しながら、朕はこの公園に住む猫たちに家から持ってきたチーズを与える。こやつらと朕とでは猫であった時においても会話はできなかった。餌が欲しいが為に人間に簡単に甘えるこやつらを朕は見下していたが、こやつらはもしかすると朕を同じように侮蔑の目で見ていたのかもしれない。 人に甘えられない王族の朕。それは孤独であるから。 しばらく一人で公園の中を散歩し、桟橋へと通りかかった。縁に腕を置きながら、朕は自分の姿を水面に見た。帽子を被り、耳は隠せているがそれでも見えているこの白髪。恥ずかしいこと極まりない。いつになったらこの呪いが解けるのかさえ分からない。しかし、この姿のままでは爪も伸びないし、髪も伸びないのだ。ということは不死であることには変わりないのかもしれない。 (そうしたら、タカヒサはいつか朕よりも先に逝くのだろうか) そんなことを考えると不安が大きな塊となって朕を押しつぶしにかかるのだ。 「あれ、ちんじゃん」 ふと、顔を上げるとそこには見知った顔がいた。ノブである。学生服の彼は不思議そうに朕を見つめていた。 「どうしたの、ちん」 こやつにまで平然とちんと呼ばれるまでになってしまい、朕は眉尻を下げた。 「そなたこそ学校はどうしたのじゃ」 「今日試験で午後は無いんだ」 まだ正午を少し過ぎた時間帯だった。ノブは大きく背伸びをしてから、「テスト撃沈しちゃたぜー」と朗らかに笑う。 「やっぱ、兄貴みたいに頭良くはなれないな」 「タカヒサは頭が良いのか?」 ノブは当たり前のように大きく首を縦に振った。その様子に朕はタカヒサを心の中で褒め称えた。流石、朕の一番の臣下である。朕は悦に入った。頭の悪い奴に朕の世話はまかせられない。 「昔から兄貴はすげーよ」 いつも俺たちの世話ばかりしていてくれていたし、とノブは呟いた。 「あ、でも。 一回だけ泣いて怒られた事あったな」 ノブは懐かしがるような笑みを浮かべた。朕はそんなノブを横目に見ながら、泣きながら怒るタカヒサを想像した。 そんな姿、今のタカヒサからは決して想像出来なかった。 「あの頃兄貴は何でもできるって思ってたけど、それでも兄貴はまだ中学生だったからな。 中学生なんてまだまだガキだもんな」 今ではまるで自分も大人になったと言わんばかりにノブは楽しそうに笑った。朕はそんなノブが羨ましくなった。父を幼く亡くしながらタカヒサとずっと小さい頃から一緒にいたのである。絆は一際深いであろう。 「そうか、そなたもタカヒサも苦労したのだな」 そう言いながら、朕が気まぐれでノブの頭を撫でると、ノブは「ちんのくせに生意気ー」と笑った。朕がどれだけえらい立場であるかをノブは分かっていないらしい。 しかし、ノブは朕の手首に気付くと、目を見開いた。 「ちょっと!」 「え?」 朕の手首を痛いほど握り締めてから、朕の方を見る。 「この時計、なんでしているのさ!」 朕がつけてきた腕時計である。朕は内心、(しまった)と思った。 「兄貴のだよ、これ。 なんでしてるんだよ!」 同じ事を二回言われて、朕は顔を俯けた。ボソボソと言い訳で繋ぐ。 「タカヒサが忘れていったから……。 どうせタカヒサがするよりも朕がした方が似合うだろうし」 ノブは見る間に顔を赤くして、朕につっかかった。 「これは兄貴のだ! 今すぐ外せよ!」 ノブの様子がただ事でない事に気付きながら、朕はむきになり、手を退けた。ノブは朕の腕を追い、腕時計のバンドに手を伸ばした。朕は手を空高くに伸ばし、それを避けようとするがノブも離れなかった。 「ええい、いいかげんにしろ!」 「ちんこそいいかげんにしろよ!」 その瞬間、腕の時計がするりと外れた。そしてそれは真下に落ちて行き。 橋の上でもみ合っていた朕とノブの耳に「ポチャン」という音が届いた。 「「あああああーーーーーーー!」」 朕は橋の上から川を覗いた。汚い泥水で水の中はよく見えなかった。目を凝らすと、小さな石ころくらいなら簡単に流されていく様子が見えた。朕は(いや、これは無理じゃ)と目をそらした。 朕はノブを非難しようと顔を上げた。 しかし、さっきまで立っていた場所は既に無人であり、ノブははるか遠くから朕に叫んでいた。 「俺のせいじゃねーからな!」 ピューッと脱兎の如く消え去るノブを見てから、朕は途端に我に返った。サーッと顔全体が青ざめる。もしや、朕。タカヒサに殺される? (……いや、でもタカヒサは大人だから) 朕に対しても、ノブに対しても常にそうだった。 時計を一つなくしたところで、タカヒサは一言「そうか」と言って終わりにしてくれるのではないだろうか。 その一方でタカヒサが朕を許さなかったらどうしようなどと言う考えも離れなかった。朕は何も見えない泥水をずっと眺めたまま、その場から動けなかった。 街の方から鐘の音が鳴り、夕日が落ちるまでそうしていると、どこからか朕を呼ぶ声が聞こえてきた。 「おーい、ちーん、ちーん、どこにいったー」 ええい、その恥ずかしい名を連呼するな! 朕が風をまといながら振り向くと、タカヒサが朕に手を振っていた。 「どこか行く時はちゃんとメモ残すか、電話しろ。 心配するだろ」 タカヒサは家から手袋とマフラーを持参しており、それらを朕にかぶせた。 「やっぱり薄着じゃねーか。 外に出るならちゃんと着ろ」 本来ならタカヒサのものである手袋は朕には少し大きい。先端の布が余った状態の朕の手をタカヒサは強く握りしめて、朕を連れて家へと帰った。 道中、朕は何を言っていいか分からなかった。意外と何も言わないでいたらバレずに済むかもしれない。だとか、そもそもタカヒサが洗面台に置きっぱなしがいけなかったのだ、とか自分を守る言葉が次々と生まれる。 家に着く頃には朕は数々の言い訳で完全武装しており、先を行くタカヒサの肩を勇ましく叩いた。 「タカヒサ」 「ん? なんだ」 玄関の前でタカヒサは朕の方向に振り返った。朕は口をキュッと締めてから、言い放った。実はすぐにでも言って綺麗さっぱりとしたかったのが本音かもしれない。 「タカヒサの銀の時計を朕は誤って川に落とした」 「は?」 タカヒサはその太い眉を強張らせた。朕は臆することなく、続けた。 「だが、そなたが悪いのだぞ。 朕があの時計を欲することを知っていたのに、家に忘れていったのだからな」 タカヒサは朕の目を見つめたままだ。何を思っているのか、瞬きさえしない。 「そもそもタカヒサ、そなたにあの時計は上等すぎたのじゃ。 不釣合いなものなどなくなっても困りはしないだろう」 朕が自信満々にそう言うと、タカヒサは目を伏せた。 「……そうか」 低い声だった。誰に話しかけるようでもなく、タカヒサはその声音のまま、呟いた。玄関の扉に手をかける。ドアを開くと、タカヒサの顔がドアの向こうに隠れた。 「……あれは、俺の父親の形見だったんだ」 バタンとドアは朕の目の前で閉じていった。朕は目を開けたまま、動く事ができなかった。 (父親の形見?) 朕は言葉を失った。 (そんなの聞いていない) ドスンと鉄の塊が頭の上に落ちてくるような心地がした。朕は小さく首を振った。 ガラガラと自分を正当化する言葉が砕け落ちていった。落ちていくガラクタの真ん中で朕は立ち尽くした。 (朕はそんなの聞いていなかった) けれど、タカヒサにどう言葉を返せばいいかが分からなかった。 部屋に入ると、タカヒサは平静と同じように夕飯の準備に取り掛かっていた。朕の姿を確認すると「朕、皿を並べてくれ」と戸棚を指さした。 朕は頷きながら、皿を並べた。いつもならぶつくさ言ってからでないとしない行為だ。朕は横目でタカヒサの顔を確認した。 普通にしている。 そうだ、タカヒサは大人なのだ。 けれど、それでも朕は最近はエスパーなのだ。 タカヒサの奥底にある怒りの炎が見えてしまった。それを自分で抑え付けて、鍵をかけて、朕に大人のフリをして話しかけている。 朕はとんでもない事をしてしまったのである。 (謝らなくては) 一瞬、そんな事が頭を過ぎり、朕が自分に驚いた。 王族の朕が?人に謝る? そんなこと、今までに一度でもした事があっただろうか。 朕が何かをしたとしてもそれは朕の気まぐれだ。誰かに迷惑をかけても、誰かを殺してもそれは朕の我儘でまかり通る。 なのに、今、朕は人に謝るのか。 夜ご飯にほとんど手をつけられないまま、朕はモヤモヤとした気持ちのままでいた。タカヒサは黙々とご飯を食べ続けている。全て残さず食べると、手を合わせて「ご馳走様」と言った。朕も格好だけ同じようにして手を合わせた。 ザーザーとシンクで皿を洗うタカヒサの裾を朕は引っ張った。 最大限の譲歩だった。 朕は謝ることができない。けれど、褒美を与える事はできる。 「タカヒサ」 「ん?」 振り向いたタカヒサに朕は俯いたまま、言った。 「い、いつもの礼じゃ。 褒美をやる。 何か朕にして欲しいことは無いか?」 その瞬間、タカヒサは目を細くした。 「ふぅん」 朕はびくっと震えながら、自分の服の裾を掴んだ。 タカヒサは朕を観察するように眺めてから、ふぅっとため息を吐いた。そして、彼はまるでいつものタカヒサとは別人でいるような声音で呟いた。 「なら……抱かせろ」 next 理性的なタカヒサはどこへやら written by Chiri(5/16/2011) |