朕は猫である
朕は猫である(5)



 それにしてもタカヒサという男はよく働く。朝は朕の為に朝食を作り、昼は大学とやらに学びに行き、夜は居酒屋でバイトし、真夜中は朕の服をチクチクと縫う。だが朝食は焦げ付いているし、大学でとったノートは汚いし、居酒屋のバイトは臭くなって帰ってくるし、朕に縫ってくれた帽子も服も雑である。朕がそう指摘すると、タカヒサは脱力して朕を睨む事さえやめてしまった。
 そんなある朝、朕はコタツの上にタカヒサの大学のノートを見つけてしまった。

(あやつめ、忘れおって)

 馬鹿なヤツだ、と思いつつノートをパラパラと開くとタカヒサが描いたらしい落書きが幾つか見えた。

(なんじゃこれ)

 計算式が書かれたノートの隅に小さな猫の絵が描かれていた。しかも猫の隣には吹きだしがあり、中には「ちでじがみれない〜」という文字が書かれていた。猫の目はキラキラと光り輝き、まるで幼い子供のようだ。

「タカヒサの奴め」

 どう考えてもこれは朕である。似顔絵にしては粗末としか言わざるを得ないが、それでもこれは朕を模している。

「こんなものを書きおって、許しがたい」

 朕はノートを手に持つと何時ぞやにタカヒサからもらった帽子を被った。タカヒサのコートを拝借し、マフラーで顔を埋めるように幾重にも巻いた。

「タカヒサめ、待っておれ。 とっちめてやる」

 朕は鍵もかけずに部屋から駆け出した。一度タカヒサを尾行しているから奴の大学の場所は記憶済みである。
 外に出ると、朕はマフラーや帽子で容姿を隠そうが目立ってしまう。朕の髪の色は猫の時と同じ白色だからこれはもうどうしようもない。

「何アレ、コスプレ?」
「でもすごく可愛い顔してるよ〜」

 近くに高校もあるので、女子学生が朕を指差し噂する。なんという屈辱である。今まで見下していた女子高生に笑われると言う事がまた我慢ならない。
 朕は足早に公園を通り抜けた。
 一寸ほど歩けば、タカヒサの学び舎に着く。どの棟にいるかは分からないが、しらみ潰しに当たれば見つかるだろう。
 門をくぐると、学生が人いきれの場所へと朕はたどり着いた。人の視線を感じながら、朕はきょろきょろと辺りを見渡した。冬の風の中、丸裸でいる木々に囲まれた大きなレンガ造りの大学である。

「君、どうかしたのか?」

 知らない人間に声をかけられて朕は焦った。無意識に帽子に手を当てながら朕は顔をマフラーに埋めて横に振った。

「大丈夫じゃ。 問題ない」

 知らない男の怪訝そうな顔をくぐり抜け、朕は歩みを進めた。早々に朕は後悔し始めた。こんな人ごみの中は大嫌いじゃ。さっさとタカヒサを見つけて、朕は家でゴロゴロしていたい。コタツの中でぬくぬくと暖まっていたいのに。

 心が折れそうになり、朕はその場に蹲った。猫の時は平気だったはずなのに、不思議だ。こんなにたくさんの人がいる中でまるで朕は孤独である。それを思い出させられたようだった。

「あれ? ちん」

 不意に声が聞こえたけれど、朕は目を閉じたままだった。何も見たくなくて、ぎゅっと膝を抱く手に力を込める。

「おい、ちん」

 誰かに腕を掴まれて、朕はびくりと顔をあげた。
 タカヒサがそこに立っていた。不思議そうに朕を眺めている。
 朕はたまらなくなり、タカヒサに抱きついた。ぽすんとタカヒサのダウンジャケットの空気が抜ける音がした。

「わぁぁん、タカヒサーーー!」

 朕はタカヒサの腕の中でくぐもった声をあげた。
 タカヒサは小さくため息を吐きながら、朕の頭をポンポンと撫でた。

「ったく、だから外に勝手に出るなって言ったのに」
「だって」
「ほら、連絡とりたい時はまず携帯に電話をしろ。 前に電話番号教えたろ」

 そんなこと、思いつきもしなかった。そもそも電話なんてどうやってしろって言うのだ。使い方も分からないのに。

「だって〜〜〜〜」

 朕が洟を垂らして、抗議するとタカヒサはティッシュを取り出して朕の鼻にかぶせた。朕がチーーーンッと鼻を噛むと、その残骸をポケットに突っ込む。
 タカヒサに抱きしめられて暫し、朕はやっと我に返った。

(そうじゃった)

 朕はタカヒサの手を乱暴に突き放すと、かばんに手を入れた。タカヒサが置いていったノートを取り出すとそれをタカヒサの目の前に突き出す。

「タカヒサ、そなたこのノート!」
「あ」

 タカヒサがノートを手に取る。

「このノート、今日必要だったんだよ」
「え?」

 落書きの事を怒ってやろうと思っていた矢先。
 いつも無愛想なタカヒサが笑顔になり、朕の頭を撫でた。

「へぇ……ちんがわざわざ持って来てくれたのか?」

 タカヒサがそんな風に朕に笑うのは初めて見たのだ。朕は言葉を失って、目のやり場に困った。この小汚い落書きが許しがたくて朕は来たのに。けれど、文句の一つも口から出てこない。

「ありがとな」

 もう一度、朕のこの白い髪を撫でられて、朕はついに口を閉ざした。
 だって初めてだったのだ。朕にありがとうと言う者なんて。朕が王族である限り、朕のする事は常に『王族として当たり前のこと』だった。朕が何をしたって感謝をする人物なんていなかった。

「大学で授業一緒に受けてくか? 一人で帰らせるのは心配だ」

 こくん、と朕は素直に頷いた。
 また一人で帰るのは嫌だったし、タカヒサの傍はまるで盾か何かで守られているように信頼がおけた。

 人ごみの中で恥ずかしいだろう。なのに子供のように抱きつく朕をまるで当たり前のように抱き返す。タカヒサの腕に光る銀時計がきらりと光った。

 タカヒサは不思議じゃ。
 損をしているように見えるのに、何でも持っているように見える。朕は王族で本来なら全てを持っているはずなのに、何も持っていないように感じる。
 本当にタカヒサは不思議な男である。



***



 六限まで終えて、二人で家路に着いた頃には朕はもうお腹がペコペコだった。帰りにスーパーに寄り、タカヒサと一緒に鍋の具を買う。タカヒサは珍しくて朕の好きなものを一つ買っていいと言った。

「ノート持って来てくれたお礼な」

 朕は嬉しくなり、ずっとCMで気になっていたお菓子を意気揚々と手に取った。朕は優しいからタカヒサにも分けてあげよう、だなんて思いながらそれを買い物籠へと放り込む。
 それから二人で鍋に何を入れるかなんて議論しあったりした。タカヒサはキノコ類がダメだと言うが、朕は大好きなので投入することに決定した。
 今まで買い物はタカヒサ一人にまかせていた。けれど、こうも心穏やかでいられるというなら毎日したって良いなって朕は思った。
 朕がそれを言葉にすると、タカヒサは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「へぇ、じゃ買い物はちんに任せるよ」

 そう言って財布の中身を幾つか朕に渡した。朕はそれが嬉しくて、タカヒサに笑い返した。
 けれど、だからといって勘違いはしないで欲しい。
 朕は決してタカヒサに傅いているわけではないのだから。
 これは朕がしたいだけのことである。如いて言うとしたらこれは褒美である。いつも朕の世話をするタカヒサへの褒美。褒美をやるもやらないも朕は自分の好きなことをしていいのだ。何故なら朕は王族だからである。

 家に帰ってタカヒサはいそいそと鍋の準備をした。朕はそれを横目で見ながらコタツに入り込む。鍋の準備は朕には少し高度すぎるので朕は大人しくてれびを見ていた。

「あ、そうだ。 ちん」

 鍋の準備もそこそこに終わったところで、タカヒサは思い出したように財布から何かを取り出した。カードのようなものだ。

「お前、携帯ないもんな。 俺の携帯に連絡する時はそれ使え」

 もう一つ携帯買いたいところだけど金ねーし、とタカヒサは付け加えた。
 カードにはテレフォンカードと言う文字が刻まれていた。朕はそれを注意深く眺めた。これをどう使えと言うのだろう。

「公衆電話っていう緑色のでっかい電話がいろんなところに設置されてるんだ。 そこにカード通して番号押すだけで俺と話せるから」

 朕は頷きながらそのカードをタカヒサが作ってくれたかばんにしまった。よく意味が分からなかったが、急を迫られたら理解できるだろう。かばんの中に入っているものは今のところ、迷子札、テレフォンカード、そして先ほどタカヒサにもらった三千円だ。
 突然、タカヒサは自分の携帯を朕に押し付けた。

「ほら、練習してみろ」

 何の練習だ、と思いつつ、おそらくタカヒサは朕にだいあるを押す練習をさせたいのだろう。朕はしぶしぶ、携帯のボタンを注視した。
 迷子札に書かれた番号は今や三つである。タカヒサとノブと小高。朕がこの国で知っているたった三人の人物だ。
 その一番上にある番号を慎重に押す。しばらくしても発信しないと思ったら、タカヒサが朕の手元を覗き込んだ。

「ほら、発信ボタン押すんだ。 その電話マークのボタン」

 朕は口を尖らせながらそのボタンを押した。というか、タカヒサの携帯からタカヒサの携帯に電話をかけるなんてどうなるのだろうか。朕が耳元に集中するとどうやら留守番さーびすに接続されているようだった。
 しかし、タカヒサが右手を彼の耳の近くに掲げた。

「はい、こちらタカヒサ」

 何も持たない手でタカヒサはそう答えた。
 朕は(馬鹿か)と思いながら、携帯に向かって言ってみた。

「もしもし、こちらちんであるぞ」
「ハハ、聞こえてる」

 そりゃそうだ、すぐ横にいるのだから聞こえているに決まっている。けれど、タカヒサは恥ずかしげも無く、その空気の塊に対して言葉を紡ぐ。

「ちん、今日はありがとな」

 朕はタカヒサの目を見た。タカヒサは目を細めて、朕を見ていた。
 何故か胸のあたりがむず痒くなった。「どういたしまして」と言う言葉がこの国にはあると知っていた。それを言いたくなった。
 けれど王族であるプライドがそれを妨げた。朕は携帯を切って、手を下ろした。
 朕は顎を上げて、タカヒサを見おろした。

「タカヒサ、褒美をやろう。 いつもよく働いているからな。 何か欲しいものはないか」

 タカヒサは目を丸くした。

「褒美って言われてもなぁ」

 と言って、首筋を掻く。
 朕は少ししてから自分の愚かに気付いた。確かにタカヒサが困っても仕方ないかもしれない。この時代の朕に持っているものなんて何も無いのだ。昔なら金でも土地でも財宝でも渡せられた。
 自分の無力さに気付いた所で一旦放った言葉は無かった事ができない。
 朕がタカヒサの答えを待つと、ふとタカヒサの目線が朕の耳に向かった。朕の屈辱的な猫耳である。

「なんじゃ、タカヒサ。 触りたいのか」
「え、いや」

 猫耳に触れられることは屈辱的なことだ。体が反応して、触り方によってはビクンと無意識に体を揺らしてしまう。それでも、タカヒサが触りたいというならそれを許可しようと朕は考えた。

「ただの褒美だ」

 そう言って、頭をタカヒサに向けるとタカヒサは戸惑いながら手を伸ばした。何度も頭には触れられてきたが、タカヒサは一度も耳には触れなかった。朕が嫌だということを知っていたのだろう。
 今も、真綿に触れるような手つきで朕の耳を触る。風に撫でられているようで朕も心地よかった。

(そうだ、タカヒサは猫が好きなのじゃ)

 顔は無愛想だし、あまり笑ったりはしない。けれどタカヒサの頬は少し緩み、手触りを楽しんでいるように見受けられた。
 大体、朕を拾ったのだって猫が好きだからであろう。人間に変わることを予想などできまい。
 自分の猫耳もしっぽも恥ずかしさしか感じなかった。けれど、タカヒサが少しでも好きだと言うのならこの格好にも存在意義があるようで朕は少しだけ嬉しくなった。





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タカヒサはむっつりにゃんにゃん萌え。
written by Chiri(5/9/2011)