朕は猫である
朕は猫である(2)



 全く厄介な猫を拾った。
 タカヒサはハァッとため息を吐いた。もう中学生の頃からつけ続けている家計簿を見ながら、今月が火の車だということを再度確認する。

「バイト単発で一本増やすか」

 飯代だけでも馬鹿にならない。
 猫を拾ってから三日経つが、あの馬鹿猫は阿呆のように飯を食うのだ。だからといって一度でも家に入れた猫をまた捨てに行くなんて事はできない。それが猫から人間に変わったとしても同じである。

(まさか人間になるんだもんな……)

 そりゃ、飯代もかかるわけだ。
 初めて猫が人間に変わるところを見た。そもそも猫が人間になるだなんて知らなかったし、誰も教えてなどくれなかった。
 一見動じていないようなタカヒサだったが、心の中では大層驚いた。自分の感情が顔に出ない性格が恨めしくなるほどだった。

 猫は横柄だった。拾ってやったというのに、我儘だし、何かと命令をしてくる。人の服は臭いというし、タカヒサのファッションセンスはイモだと言い放った。
 それでも、時々寂しそうにしていたり、涙目になったりして、憎らしいのに放っておけない。まさに猫だ。猫という名の小悪魔だ。

「タカヒサー」

 小悪魔の声が聞こえて、タカヒサは家計簿から目を離した。

「なんだ」

 猫はテレビの前で腹を出して寝ていた。周りには最近無駄に出して遊んでいるティッシュの残骸、そしてこれまた最近味をしめたポテトチップスがそこら中に落ちていたりして、とにかく惨状である。
 それでもその真ん中で寝転がる猫は満足そうに転がったままだ。

「りもこん、とって」

 言われた瞬間、ブワアアアっと殺意が芽生えた。
 それを敏感に察したのか、猫はサッと体を起こした。元が猫だっただけに反射神経だけは素早い。

「なんじゃ、文句でもあるのか」
「文句が無いわけがないだろう。 お前、リモコンくらい自分で探せ」

 大体部屋を汚しているのはお前だろうが。

「朕はくさい服でも我慢しているのに……」
「俺の方がずっと我慢している」

 ぶつくさ言う猫にカッと吼えてやると、猫はしぶしぶと従うようになった。タカヒサがいないと生きていけないことだけは自覚しているらしい。
 しばらくして、「りもこん、りもこんやーい」とそれを探す声がしたが、そのうちにどうやら無事に見つかったようだ。機嫌の良い声が聞こえてきて、少しだけホッとする。鈴もつけていないのに、勝手に鳴いてくれるので状態がわかる。それだけはありがたい。
 タカヒサは家計簿に目線を戻した。
 が、次の瞬間。

「タカヒサ! タカヒサ! ちでじが! ちでじが見れなくなった〜」
「くそっ! 手のかかる」

 タカヒサは立ち上がり、猫の元にどすどすと歩み寄った。猫の手からリモコンを奪い取ると、地デジ切替ボタンを押した。

 この猫は。
 リモコンの操作もできない。一人で服も着られない。買い物にはいけないし、それでも飯は一丁前に食う。しかも、舌だけはよく動き、聞いてもいないのにタカヒサの作った料理を酷評する事を忘れない。
 本当に面倒な奴である。

 しかし。

「タカヒサ、朕が壊したのではないぞ? てれびが勝手に壊れたのじゃ」

 言い忘れていたが、この猫はなんとも麗しい顔をしている。

 中国で描かれている美人画から抜け出てきたような美しさだ。肌は何もしていなくても白粉を吹きかけたように白く、そこに真っ黒の瞳が五目並べの駒のように乗っかっている。唇は生まれたてのように瑞々しく、ほのかに桃色だ。そんな美青年には猫耳と猫尻尾が項垂れた様子でついているのだ。
 そんな猫は涙目でタカヒサの服の裾を掴む。

「……お前、本当たちの悪い奴だな」

 タカヒサが情けなさそうにため息を吐いた。
 ああ、憎めないなぁって思ってしまう。



***



 しかし、それもすぐに前言撤回だ。

「うむ、まずい! もう一杯!」

 去っていった殺意がまた舞い戻る。
 食卓についた猫はタカヒサが作ったおかずを片手に、高らかに宣言した。

「この煮物は味付けが凡庸すぎるな。 もう少し香辛料を使ってみたらどうじゃ」

 タカヒサが唇をかみしめて我慢している中、猫は意気揚々とおかわりをした。味付けが凡庸も何も、料理なんてものは市販のだしつゆでの味付けしか知らない。それだって生活を切り詰める為に我慢してやっていることだ。

「うむ、この炒め物は切り方がまず美しくないな! 美味いのは白米だけだな! もう一杯!」

 何が嬉しいのか猫は得意満面だ。よっぽど舌の肥えた生き方をしていたようだ。猫なら大人しく猫飯でも食っていればいいものを。
 ギリギリと歯を軋りながら、自分でも驚くようなどすの利いた声が出てきた。

「……いいかげんに黙れ、ちん」
「へ?」

 猫はやっとその得意そうな表情を変えた。
 猫は左右に目をやり、もう一度こっちを見た。

「そなた、今、朕のことをなんと呼んだ?」
「何って『ちん』だろ。 お前いつも自分のことを『ちん』って呼んでるじゃないか」

 その瞬間、猫はカッと顔を赤くした。恥辱に震え、唇がわななく。

「ち、ち、朕の名前はちんではなぁぁーい! なんて珍妙な名前をつけてくれるのじゃ」
「珍妙って何だよ。 中国や韓国にはたくさんいるだろ。 『陳』さんや『狆』さん」
「朕の言っているちんはそのちんじゃない!!」

 紅花が咲いたように猫の白い肌が真っ赤に染まる。

「じゃ、お前の名前は何だよ」
「え?」

 猫は目をぐるりと一周させた。目を何度かパチパチと閉じては開くが、どうやら思い出せないらしい。
 自分の名前が思い出せないとは少し不憫なことだ。

「と、とにかくちんではない! 朕の名前はちんではなぁぁぁい!」
「はいはい、すいませんでした」
「もっと誠心誠意謝れ、タカヒサ!」

 タカヒサはぷくくっと口の中で笑った。
 まるで子供がかんしゃくを起こしているようだ。そんな猫の姿に少し気も晴れて、タカヒサはストレス発散がてらに猫のことを『ちん』と呼ぶことに決めた。



***



「ちん、風呂はいるぞ」

 テレビを見ていた『ちん』がぎろりとこちらを振り向いた。
 タカヒサの中ですっかり馴染んだ『ちん』という呼び名にちんは今だ反感を持っている。

「風呂は嫌じゃ」
「昨日も入ってないだろ、お前」

 初日にちんを風呂に入れた時は揚々と風呂釜に飛び込んだと言うのに。
 あの日にちんが大騒ぎをしたのだ。

 あついあつい、にゃああ、ふぎゃああああ!

 風呂釜のお湯を全て掻き出す程暴れて、ひたすら泣き叫んでいた。猫の習性が残っているせいか、人間の頃は風呂好きだったというのに、今は風呂に入れないらしい。それがジレンマとなって、盛大に拗ねている状態だ。

「人の服は臭い臭い言うくせに自分は臭くても良いのか」
「朕は臭くない。 朕の体臭は蓮の香りじゃ」

 んな馬鹿な。
 タカヒサはちんの首根っこを掴むと、ずるずると風呂場に引きずっていった。ちんは「嫌じゃ、嫌じゃ〜〜〜」と大声で泣き叫びながら地面に摩擦を起こす。

「朕には無理じゃ! 朕は猫である! 朕は猫であるぞ!」

 よく言う。本物の猫でさえこんなに大騒ぎはしないだろう。それでもタカヒサはポイポイッとちんの着る服を脱がせた。ちんはそもそも一人で風呂は入れない。
 タカヒサの実家には、タカヒサの弟が二人いる。それに加えて犬は二匹で、鳥は三匹だ。弟二人とも風呂は一緒に入ったし、犬も何度もシャンプーをしてやった。鳥とは流石に入った事は無いが、それでもこういう手合いは慣れたものである。

「おら、さっさと入れ」

 ちんのケツを蹴って風呂場に押し込むと、ちんはぎゃあぎゃあとわめいた。

「朕のお尻を蹴った! 王族のお尻であるぞ!」

 またいつもの意味不明なことを言っているなぁと思いながら、タカヒサも風呂場に入り、扉を閉める。逃げ場のなくなったちんは恨めしそうにタカヒサを睨んだ。

「こんな狭い風呂場に二人入るなんて拷問じゃ!」

 ちんが泣きながらそんなことを言うが、仕方ないじゃないか。ちんは一人じゃ髪の毛も洗えない。
 シャワーを出して、ちんの頭からお湯をかぶせるとちんはゲホゲホとむせた。そのままちょうど良く静かになったものだから、タカヒサはその隙にリンス入りシャンプーを頭にぶっかけてやる。
 有無を言わさず頭をあわ立てると、ちんはそれだけは好きなのか嬉しそうに

「あわあわじゃ」

 と楽しそうに鳴いた。
 ドッと疲れを感じながらもタカヒサはちんの頭、耳の裏を丁寧に洗った。
 ちんはしばらく風呂場にはじけ飛ぶ泡を見つめていたが、周りを見渡し、鏡の前で動作を止めた。
 ちんは自分の姿が屈辱的に嫌だと言ったことがある。
 近代では『萌え』の対象ですらある猫耳も尻尾もちんにはただの辱めだと。
 鏡を見るとあれほどおしゃべりだったちんがシュンと口を閉ざしてしまう。それが可哀相だった。

「ほら、ちん。 下は自分で洗えよ」

 ボディソープをつけたウォッシュタオルを手渡すが、ちんは首を振るだけだった。

「嫌じゃ」

 ちん曰く。
 猫耳も恥ずかしいし、尻尾は一層恥ずかしい。白髪なのも腹立たしく、髭などもってのほかだ。
 けれど、前にちんは自分のそれを見て驚いたことがある。そこまでは予想していなかったのだろうか。ちんの下の毛が白い事が何より恥ずかしいとちんは言ったのだ。
 それがどういうこだわりなのかはタカヒサには理解できなかったが。

「こんなちん毛、朕は認めとうない」
「お前王族なんだろーが。 そんな単語使うなよ。 尊い下の毛とでも言っておけ」

 実際白髪のそこは綺麗だし、見た目としてはふさふさと柔らかそうだ。まるでサンタクロースの髭のようで、白い分清潔感さえ漂っている。
 しかし、ちんは蹲って膝を抱いてしまった。
 タカヒサはハァッとため息を一度ついて、ちんの腕を取り、立ち上がらせた。

「お前は目をつぶってろ」

 ちんは頷いた。
 タカヒサは跪き、ちんをボディソープのつけたタオルで吹き付ける。垢を一つも残さないように丁寧に丁寧に泡を絡める。
 ちんは目をつぶり、唇をかみ締めていたが、やがて気持ちが良いのかだらーんと口を開けていた。

(なんで俺が……)

 こんなことをやらされるなんて本当に下僕のようだ。
 無意識に手に力が入ると、ちんは「痛い! もっと優しくしろ」と文句を言った。

(このやろう)

 望みどおりに優しく触れるとちんはまた伸びきった顔で恍惚としている。ふとその周りを撫でていると、後ろの蕾にも気づく。タカヒサは泡を一盛り足すと、一番長い中指をその中に挿し込んだ。

「!」

 ちんがぴくんと目を開いた。

「た、タカヒサ、そこはやめろ」
「あ? 綺麗にしてやってるんだろ? 文句言うな」

 ぴくんぴくんと肩を上下するちんを構わず、タカヒサは一度指を抜いてもう一度泡を塗りたくる。そして更にずぶりと奥めがけて差し入れた。

「ひゃ!」

 綺麗にしろといったのはちんの方だ、だなんて開き直りながらそこをいじり倒した。しかし、しばらくしてタカヒサはちんの下半身の変化に気がついた。
 ちんの中心はそろりと控えめではあるが立ち上がっていた。

「あ、お前勃っ……」
「うっ……」

 ちんはタカヒサの腕を取り、自分の体から引き離した。やっと表情が見えたときには、ちんは茹蛸のように真っ赤になり、涙目でタカヒサを睨んでいた。

「タカヒサの変態っ」

 ちんはお尻の穴を両掌で隠すと、そのまま雪崩れ落ちるように風呂場から出て行った。脱衣所から部屋の方へと足音がドスドスと遠のく。
 タカヒサは言葉をなくしながら、ちんの恥ずかしがる顔を頭に浮かべた。恥ずかしいというから洗ってやったのに、余計に恥ずかしくさせてしまったのかもしれない。
 流石にタカヒサも悪い事をしたと自覚して、困ったように顔を指で掻いた。



***



 風呂から出ると、部屋は真っ暗だった。タカヒサは自分の体を拭くと、スウェットに着替えた。

「おーい、ちーん」

 パチッと電気をつけると、明らかにベッドの中身が盛り上がっているのが見える。ちんは壁側を向いた状態で布団にくるまっている。

「おい、ちん」

 タカヒサがちんの体を揺さぶると、ちんはビクッと体を揺らした。

「……タカヒサは朕を慰み者にするのか」

 小さく震えた声だった。タカヒサは首をかしげながら、布団をちんから取り上げた。ちんの顔が露になると、ちんは今までで一番不安げな表情でタカヒサを見ていた。

「慰み者ってなんだよ」
「朕のアソコに指を入れたではないか。 タカヒサは男色家だったのか」

 余計意味が分からなくて、タカヒサは聞き返した。

「男色家って」
「知らぬのか! 男同士で床を共にする時は、お尻の穴をぐちょぐちょにほぐして、女性器の代わりにするではないか! さっきはよくも朕のお尻をぐちょぐちょにしおって! 朕は怖かったぞ! 物知らずは恐ろしいな! おーこわいこわい」

 だーっと堰を切ったようにしゃべるちんの言葉にやっと意味を理解する。と同時に、タカヒサは口をあんぐりと開けた。ちんの言葉が直接的で呆れたというのもあるが。

「……いや、俺、男同士とか知らねーし」

 そんなの、今まで気にしたことも無い話題だ。
 ちんは疑うようにタカヒサの顔を覗き込んだ。今だタカヒサがちんを襲うとでも思っているのか、体を手で防御しながら見てくる。
 タカヒサは頭を掻きながら、それをぺこっと下げた。

「ごめん、ちん。 驚かせて」

 ちんはぱちくりと目を見開いた。
 頭を上げて、ちんの頭を手で撫でると、ちんはやっとホッとしたようだった。目を細めて、タカヒサの手を気持ち良さそうに自分に撫で付ける。
 そんなちんの表情を見ながら、タカヒサも目を細めた。

(でも、なんかさっき……可愛かったな、ちん)

 それが飼い猫に対するような気持ちなのか、はたまたそうでないのかまでは鈍感なタカヒサが気づけるはずもなかった。





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ちんって名前ですまそ。でも後悔はしてない。
written by Chiri(4/18/2011)