朕は猫である
朕は猫である(12)



 携帯から連絡が入ってから間もなく、すぐに呼び鈴が鳴った。

「兄ちゃんッ」

 玄関が開くのを待てなかったノブがタカヒサを呼ぶ。普段「兄貴」と呼ぶノブが今は焦ってるのか「兄ちゃん」と言い、タカヒサは眉を顰めた。

「ちんが」

 ノブの一言にタカヒサは目を瞬いた。

「ちんがいなくなっちゃう」
「え」

 途端に冷や汗が出た。何故、とグルグル考えていると、ノブが何かをかばんから取り出した。タカヒサは目を凝らした。

「ちんから兄ちゃんにだって」
「なんだこれ……おにぎり?」

 しかもやたらに可愛い形。猫だろうか。
 米の形が崩れるほど硬く握られている。肩によっぽどの力を入れてこれを握ったちんの姿が思い浮かべられた。

「シチューはちんが作ったんじゃないって。 嘘ついてごめんなさい、ってちん、言ってたよ」

 タカヒサは言葉を失った。
 うすうす分かっていた。あのシチューはちんが作ったものではなかったらしい。だからといって、家を出て行かなくてもいいじゃないか。ごめんなさいと言うなら、面と向かって言えばいいのに。

「……あの馬鹿猫」

 タカヒサは舌打ちして、コートを羽織った。慌ててノブがタカヒサの後ろをついてくる。

「兄ちゃん、ちん探すの?」
「探すさ」

 あんな猫、一人でこの世の中に放っておいたらどうなるか分からない。生き方を知らないのだから。
 タカヒサは息を吐いて、首を横に振った。
 いや、そうじゃない。そうじゃなくて、タカヒサがただちんと一緒に居たいだけなんだ。タカヒサがちんに会いたいだけなんだ。

 カンカンと音を鳴らせて階段を降りていく。ちんが行きそうな場所。公園、学校、他は?

「ノブ、最後にあったのはいつだ?」
「え? 今日のお昼一時頃だよ」

 時計を見ると短針がちょうど東を向いていた。たった数時間で遠くまでちんが行けるはずがない。ましてや車もバイクも無いのだから。
 それでも不安が付きまとう。
 猫がふらりと消えていくようにちんも簡単にいなくなってしまうのだろうか。一度消えた猫は自発的に戻ることは無いのだろうか。



***



 朕は川沿いを当ても無く歩き続けた。
 どうしていいか分からず、足元を見ながら真っ直ぐに進む。途中、川に落ちているゴミが目立ち始めて、朕は無言でそれを拾った。服が汚れるのも気にせず、手に抱えて一つ一つ拾っていく。
 前に山田が言っていた。
 ゴミ拾いをすると心が綺麗になるんだって。
 それってきっと本当だったのだ。
 どうしたらいいか分からない不安とかタカヒサに会いたいけど会えない悔しさとか愚かな過去の自分への後悔とか全部が泡になって少しずつ溶けていくような心地だった。

(体は汚くなっていくのに不思議だな……)

 以前の自分ならこんなに汚れるのは頑として嫌がっただろうに。
 水流がダムに流れこむところまで来て、朕はやっと顔をあげた。こんなに街の南まで来たのは初めてだった。
 ふと、朕を呼ぶ声がした。

「おーい」

 朕は辺りを見渡した。ダム上部の脇にある道路から誰かが手を振っていた。朕が目を細くして見つめると、男は更に両手を大きく振った。

「おーい、ボン!」

 それが山田である事に気付くと、朕は何故か突然安堵した。山田は脇にある階段からすばやく降りてくる。

「ボン、髪の色戻したんだな。 よく似合うな」

 いつものように朗らかに笑いながら、朕に駆け寄る山田。
 朕は手の中にあったゴミを足元にポロポロと落としてしまった。そして。

「山田ーー」

 その場で朕は泣き崩れた。
 恥ずかしげも無く、汚れた手を顔に擦り付けて泣いた。山田は驚きながら、朕の背に触れる。

「ど、どうしたんだ、ボン? おい」

 朕が何も答えずにわーわー泣き続けると、山田は困ったように首を掻いた。そして、朕の背中を緩いリズムで叩いた。
 薄着で出てきてしまった肩に山田のジャケットを羽織らせると、山田は朕を促した。

「……ボン、俺んちが近くにあるんだ。 とりあえず一緒に来い。 な?」

 戸惑いながらそう言う山田に朕は涙を垂れ流しながら、頷いた。

 朕は涙を見せてはならない身分である。
 けれど、最近ではそんな事もう忘れていた。朕はもはや王族でも皇子でもないのかもしれない。ただ一人の弱い人間なのかもしれない。
 朕は朕である。ただの何もできない人間である。



***



 山田に案内されてついていくと、山田はある由緒正しい門構えの前で止まった。道一面が同じ塀に囲まれている。中は一つなぎに繋がった大きな日本家屋が建っていた。

「え、山田ここに住んでるの?」
「ああ」

 山田は笑いながら朕を引き連れて門の中に足を踏み入れた。石の道を通ると枯山水の庭園があり、白砂で小宇宙のような模様が施されていた。部分的に植栽されている杉苔と白砂のコントラストが美しく、目を奪うのは至極当然の美しさだった。
 朕は驚いて、山田の顔を見た。

「ん? この庭のよさが分かるのか?」
「良いも何も素晴らしい景観じゃ」
「ハハ、お前良いものを見る目はあるんだなぁ」

 バンバンと強く背中を叩かれて、朕はゴホッとむせた。

「まぁ入れよ。 うちの美人のかみさんに会わせてやるよ」

 ガハハと笑いながら、山田は大股で部屋の奥へと入っていった。朕がおずおずと山田の後をついていくと、山田は朕を手招きした。

「ほら、ここが居間だ」

 山田に言われて部屋に入ると、そこは眩暈がするほど大きな居間だった。外観と違い、フローリング仕立てで革張りのどでかいソファが置かれている。テレビもタカヒサの家にあったものとは比べがたいほど大きかった。
 朕は思わず目がチカチカしてしまった。

「あなたがボンちゃん?」

 不意に声をかけられ、目線を向けると、品の良い女性が立っていた。山田が「うちのかみさんだ」と自慢げな笑みを浮かべる。穏やかな笑みを浮かべる彼女は少し柄の悪く見える山田という男の奥さんである事を疑うくらい優しげでおしとやかな女性だった。

「あ、朕の名前は……」

 不意に言葉に詰まった。そうだ、真実の名を朕は思い出したのだった。
 朕は顔を上げて、奥さんと山田を真っ直ぐ見た。

「春寿って言います。 春の寿って書いてチュンス」

 それはこの時代で初めて明かす朕の真実の名だった。

「まぁ素敵な名前ね」

 日本の読みとは全然違うのも気にせず、奥方はにこやかに微笑んだ。山田も「なんでい、名前あるならすぐに教えろや」と気にせず朕の頭をグリグリとまさぐった。
 すると山田は何かに気付いたように声をあげた。

「あ、そうだ。 もう一人の家族にも会わせてやるよ」
「え?」

 山田は場所を移すと、和室の隅にある黒い大きな箱を開けた。黒と黄金色の色合い。開かれる時に遺影があり、朕はそれが日本の仏壇であることを理解した。
 遺影には20代半ばの男性の笑顔が写されていた。

「この男は……」
「これな、俺たちの一人息子」

 朕は驚いて山田の顔を見た。山田はいつもと同じ顔だった。
 朕は知らなかったのだ。山田が時々話題に出す息子がもう他界していることを。その事実を知ると朕の言葉がどれだけ無神経だったか分からなくなった。

「まあまあ、線香あげてくれよ」

 山田に促されて、やり方も知らずに朕は仏壇の前に座った。山田が隣に座り、線香にろうそくで火をともし、それを朕に手渡した。手馴れた様子だった。もう何度も行っているのだろうと思うと朕は胸が苦しくなった。朕はそれを香炉に立てると、手を合わせ目を瞑った。
 しばらくして瞼を開くと、朕は沈黙を破った。

「……朕は馬鹿である。 山田のことをもっと能天気に考えておった。 申し訳なかった」

 山田はぱちくりと目を瞬いた。そしてハハッと笑い始めた。後ろで奥方も手で口を抑えて笑った。

「ハハ、違いねーな」

 二人の笑い方はまるで息子の死を悼み、そして乗り越えたような様子であった。朕が何を言っても二人の気持ちを汲み取れる言葉は無いだろう。そんな自分が恥ずかしかった。

「まあ、お前も今日なんかあったんだろ。 とりあえず泊まっていきな。 しばらくここに居てくれてもいいぜ」

 その方が楽しいだろ、と山田が奥方に話しかけると、奥方も目を輝かして頷いた。

「ふふ、若い子がいると料理の作り甲斐があるわ」

 迷惑をかけている自覚がありながら、朕はその言葉に甘えた。



***



 夜、用意された布団の中、朕はなかなか寝付けず天井を見つめていた。布団を握り締めながら、唇をかみ締める。

 山田は何故朕にこんなにも優しいのだろうか。奥方もである。
 少し前まで朕という存在なんて知らなかったのに、こうも人に優しくできるのは何故だろうか。

 世の中には朕よりも優しい人がたくさん居る。
 朕は何故こういう人たちのようには生きられないのだろうか。
 優しく、そして強く、生きられないのだろうか。

 朝、完全なる人間の姿になってから初めてタカヒサの家以外の場所で目を覚ました。起きた瞬間に胸がざわざわと鼓動した。いつもと違うというだけでこんなに胸が騒ぐなんてどうかしていると思った。

「……おはようございます」

 朕が居間に行くと、山田も奥方も既に起きていて「おはよう、春寿」と声をかけられた。山田は開いていた新聞を畳むと、大きく伸びをした。そして朕に視線を飛ばす。

「春寿、今日も川の掃除いくか?」

 朕は大きく首を縦に振った。
 だって掃除をすると心が晴れるから。
 たったそれだけの理由だった。もしかしたらこれは正当な理由ではないのかもしれないけれど。

 奥方に見送られて、山田と朕は日が昇ってからすぐに家を出た。

「今日はいつもより早いし、川の端っこからするか?」

 山田の言葉に朕は同調した。掃除するなら長い間してられる方が良い。何も考えないでいられる時間が長くあればあるほどいい。
 朕と山田は、昨夜朕が山田に見つかった場所からゴミ拾いを始めた。たった一日しか経っていないのにもう既にゴミが増えていた。
 それでもそのゴミがある事が朕には嬉しかった。ゴミを拾うことで考える事を放棄したかったから。
 無我夢中で朕はゴミを拾った。何も言わずに黙々とゴミを袋に入れていく。ひたすら単純な作業である。拾い、分別し、また拾い、分別。有害なものがあれば、更に違う袋に分けて、また拾い。
 そうこうしているうちに何時間も経った。
 なのに、朕は気付いてしまった。

 気持ちが晴れないのだ。
 タカヒサを想う気持ちがいつまで経ってもなくならない。

 それに気付いて、朕は涙を地面に落とした。行き場が無いように感じた。朕の気持ちは何にもならないし、どこにも行けないと。

「ほら、春寿。 こっちこい」

 不意に山田に声をかけられて、朕は顔を上げた。もう正午を過ぎていた。日は高く昇り、風は少し暖かい。主婦達がのどかに世間話をしながら歩いていく。

 山田は朕を土手に座らせると、「おら、かみさんの愛妻弁当。 今日はお前にも特別にわけてやる」と言って朕にそれを渡した。
 蓋を開けると、朕は目を見開いた。ウインナーに玉子焼き、ハンバーグ、タッパーを分けて煮物まであった。驚きながら山田を見ると、山田は既にそれを頬張っていた。

「あのな、俺が思うに……」

 突然、山田がしゃべり始めた。朕は不思議に思いながら耳を傾けた。

「うちの息子には俺は何もやってやれなかったんだ。 いつもアイツに故郷に錦を飾れだの親を頼るなだの求める事しかしてなかったからな」

 山田はそう言いながらコーヒーに口をつけた。顔を見ると、真面目な顔をしていた。いつものガハハ笑いをする山田ではなく、人生を長く生きた男の顔だった。

「だから、アイツが死んでから俺は自分がアイツに何もしてあげられなかったことを悔やんだ。 だから、こうやって川の掃除をしてるわけだ」

 山田の喉が揺れる。言葉を選びながら慎重に山田は言葉を繋いでいる。

「本当は俺だってボランティアなんていう大層なもんじゃねぇ。 俺の罪悪感を拭う為だけのことなんだ」

 朕は山田の顔を見続けた。山田は辛い話までして朕に何かを伝えようとしている。

「でもな」

 山田は目線を上げた。ゆっくりと朕の顔を見る。

「返す相手がいるうちは、そいつに返さなきゃダメだと俺は思うぜ」

 ドキッとした。タカヒサは生きている。

「当たって砕ければいいじゃねーか。 で、砕けちまったらまた自分で破片くっつけて、また当たりに行くんだ。 それを何度も何度も繰り返して、本当にダメになるまで続ければいいんじゃねーかな」

 そう真っ直ぐと朕の目を見て山田は言った。口元には笑みを浮かべていた。むちゃくちゃな事を言っているように聞こえるのに、山田の言葉は無視できなかった。自分はまだきちんと砕けてすらいない気がした。

「あとな。 見返りを求めることは悪い事じゃないぞ」
「え」

 朕は目を瞠った。見返るを求めない事がこの国の美徳だと信じ込んでいた。
 山田は「本当に馬鹿だなぁ、お前」と笑った。

「もしかしたら相手だってお前に応えたいって思ってるかもしれないだろ」

 山田の思考はひどく楽観的で、朕はそれを羨んだ。





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山田にも過去がある。
written by Chiri(6/27/2011)