朕は猫である(13) 一日探しまわって足が棒のようになっていた。 タカヒサは一旦歩くのを止めると、膝に手を置いた。なんだか少し疲れてしまった。 流石に途中でノブは帰したが、タカヒサはちんを連れ戻すまでは帰れないと寝る間を惜しんで探した。ちんの事だから、何も考えずに野宿して凍死しても不思議ではない。 一晩明けてしまって、ちんがどこかで死んでいたらどうしようと手が震えた。両手で顔を覆いながら、ちんのことを考える。 こんなことになるというなら、ずっと厚顔無恥でいてもらっても良かったんだ。我儘放題で困った奴だけど、感情に素直な所が愛しかった。こんな風に負の方向に暴走するなんて思ってもみなかった。 「どこ行ったんだよ、ちん」 泣きそうになりながら、それでも今は泣けないと堪える。 息を整えて、もう一度体を起こしたその時。 (え) タカヒサは目を疑った。 ちんが居た。 初めて見る黒い髪のちん。呪いが解けたとノブから聞いていたが、正直見違えた。人間である朕は半分猫である姿の数倍、数十倍美しかった。烏の濡れ羽色の髪に紫黒の瞳。 そんな美しいちんが見知らぬ男と一緒に弁当を食べている。仲良く横に並んで。男の方は楽しそうに大声で笑っている。 その瞬間、めらっと炎が燃え盛った。 自分の中でも信じられないほどに激しい炎だった。 *** 「ちん!」 彼の名前を呼ぶと、黒い髪が風に靡いた。そして、タカヒサの顔を見つけた瞬間、ちんは目を大きく見開いた。 タカヒサは、ちんに近づきながらちんの横にいる男を睨んだ。 タカヒサよりもずっと年上。もし父が生きていたとしても、その父よりも年上だ。年功序列の世界ではきっと一生逆らえないような相手だろう。 だが、タカヒサの暴言は止まらなかった。 「それがお前の新しい飼い主か」 ちんが驚いてタカヒサの顔を見た。 タカヒサは自分の口が毒を吐くようにできているとは知らなかった。憎しみも怒りも普段から外に出るようにできてはいなかったはずだ。 しかし、ただ一人。ちんに関わるとその法則は簡単に崩れた。 「クソッ、本当にお前って猫みたいな奴だな」 タカヒサは遠慮く舌打ちをして、唾を飛ばした。 ちんが立ち尽くしている。軽く、本当に軽くではあるが、震えていた。 「一日探し回った俺が馬鹿だったよ」 こんな風にちんと新しい主人を見るくらいなら探さなければ良かった。ちんが出て行ったと知ったその瞬間から、家を出なければ良かった。 じゃなきゃこんな真実、知らなくて済んだのに。 「ち、違うのじゃ。 タカヒサ」 ちんがタカヒサの腕を掴んだ。途端、頭にカッと血がのぼった。 「何がだよ!」 タカヒサはちんの手をはたいた。ちんはそれにショックを受けて立ちすくんでしまった。口をゆがめて今にも泣きそうな顔をしている。けれど、それを慰めるのはもはやタカヒサの仕事ではないのだ。 すると、ちんは息を吸ってからまたタカヒサの腕を掴んだ。 「な、何すんだよ」 「タカヒサ聞け!」 ちんの怒鳴り声にタカヒサは目を見開いた。耳元で大口を開けるちん。 「違うったら違うのじゃ!」 耳から脳内へとガンガン響く。 そうして、ちんはタカヒサにガバッと抱きついてきた。隣にいた男はびっくりしながらタカヒサたち二人を見ていた。 「いいのかよ、新しい飼い主の前で……」 まだ怒りが収まらなくてそう言うと、ちんはよほどムッとしたようだ。 「違うって言ってるじゃろ!」 そしてタカヒサの耳たぶをガブリと噛んだ。思わず、悲鳴が上がった。 「いいいてえええ!」 ちんは耳から口を離すと、タカヒサを睨んだ。 「朕は猫ではない! 自分で自分の意見を言えるれっきとした人間である!」 耳がちぎれるかと思った。タカヒサは心中につめていた怒りやらむなしさを放り投げて、痛みに耐えた。そこでやっと、自分が頭に血が昇っていたことに気付く。 「当たって砕けるどころか攻撃してやがる……」 傍の男がぼそっと呟いた言葉はタカヒサには聞こえなかった。 何故ならちんがタカヒサの耳を引っ張って、ちんの口元に近づけたから。そして、まるで耳の遠い老婆に言うように、ちんははっきりとタカヒサの耳に向かって大声を出したのだ。 「朕はタカヒサが好きじゃ」 「は」 とっさに言葉が出てこなかった。 「朕はタカヒサが好きなのじゃ!」 ちんはそう言って、またタカヒサの胸に抱きついた。ちんは顔ごと胸に押し付けて、うーっと唸っている。タカヒサはそのまま、口さえ閉じられずポカンと立ち尽くした。 ちんの肩が揺れる。息遣いを近くで感じる。 「……例え、朕には到底敵わぬ女子がタカヒサのそばに居たとしても」 「はぁ、オナゴ?」 今度は反応できた。 ちんの言っている言葉の意味がさっぱり分からなかったから。 ちんは顔をあげるとタカヒサを見上げた。ちんの目は腫れている。涙を拭ったあとが真っ赤になっていた。 「あのシチューはそのオナゴが作ったものじゃ」 そう言ってちんは口を噤んだ。目を伏せて、眉尻を下げる。 ああそれで、とタカヒサは納得した。やっと合点がいったのだ。 「朕は負けたくなくて、彼女の手柄を横取りしたのじゃ……」 「ああ、別にいいって」 タカヒサがそう言うと、ちんは目をぱちくりとした。 そして数秒してから首を横にブンブンと振った。眉間に縦線を寄せて、ぷくりとふくれた頬でタカヒサに反論した。 「何を言う! あの女子はタカヒサをきっと想って作ったのであろう?」 ちんの気迫に押されながらも、タカヒサは両手でちんを制した。 いや、まてまて。タカヒサはちんを宥めながら、決定的なことを言い放った。 「だってあれ、俺のお袋だし」 「え!?」 お袋……、とちんが呟く。タカヒサが頷く。 「お、『お袋』とは……愛人とかそういう意味か?」 タカヒサは顎が割れたように口をパカンと開いた。 「ち、ちげーよ! 母親って意味だよ!」 「母親!?」 信じられない様子でちんはタカヒサを見た。 シチューにはニンニクが入っていた。なんにでもニンニクを入れるという母親の癖が出たのだろう。ちんが仮にネットでレシピを見たとして、それにニンニクを入れると書いてあるのは考えにくいと思った。 ちんの顔が首から徐々に赤くなっていく。やっと自分のとんでもない勘違いに気付いたらしい。 「大体あんな年の離れたカップルがいるかよ。 ふざけんなよ」 「だって……朕の育った国ではそれくらいの年の差で結婚するのは普通だったから……」 ちんが情けない顔をする。ちんは突然塩でもかけられたかのようにシュンシュンと小さくなっていった。 「……誤解は解けたか?」 頷くちん。 「ちん、聞け。 いいか。 俺もお前が好きだ」 ……頷くちん。 と、その後に慌ててタカヒサの顔を二度見するちん。 タカヒサはそんなちんを見つめながら、息を吐いた。 「ずっと一緒にいたい。 これからずっとだ」 ちんはタカヒサの顔を見ながら頷いた。ちんの目から涙が落ちる。 タカヒサはその涙さえも自分のものにしたくてむず痒くなった。 「……くそッ、なんか無いのか。 言葉だけじゃ不安だ、お前の場合」 ちんが本当に猫だと言うなら、首輪をつけたかった。けれど、ちんは人間である。言葉で縛ってもモノで縛ってもどうにも心もとない。人間は猫と違って賢いから。何でも出来てしまうから。 ちんはタカヒサの背中に手を回した。 「……タカヒサ。 呪いをかけてくれないか。 もうタカヒサと離れられない呪い」 顔をタカヒサの胸にぴとりとつけてくるちんを自分の体の一部に縫い付けてしまえればどんなに良いか。 「かけれるものなら俺だってかけたいよ」 タカヒサは唇をかみ締めた。 呪いの解けたちんはもう一度タカヒサに呪いをかけろ、と言う。もしかしたらその言葉だけでも十分なのかもしれない。 はぁっと今日何度目かのため息を吐くタカヒサ。ちんは申し訳なさそうにしながら、タカヒサの手をとった。タカヒサは仕方なく笑った。 呪いも首輪も無いこの現代で、タカヒサに出来る事は約束をすると言う事しかなかった。 「ちん、いきなりいなくなるのはやめてくれ」 真摯にちんにお願いする。 「ちん、愛してる。 お前がいなくなったら俺は寂しくて死んじゃうかもしれない」 愛してる、という言葉を出して自分で恥ずかしくなった。いつのまに自分はちんにここまで骨抜きにされていたのだろうか。その後に続いた子供のような言葉も自分の口から出てくるには幼すぎて、自分で自分に驚く。 ちんはきょとんとした顔でタカヒサを見て、にんまりと笑みを浮かべた。 「約束する。 朕はずっとタカヒサの傍にいる」 そう言いながら、タカヒサの頬に約束のキスを落とす。タカヒサは驚いてちんを見つめたが、ちんはタカヒサの手を取り、ギュッときつく握った。 首輪も無くて、二人を縛る紐もなく、ただタカヒサの手とちんの手がお互いに誓いを立てるように繋がれているだけだった。 それでもやっとちんとの絆が少しだけ強化した、そんな気持ちになる。 人間はこうやって何度も約束して、互いに誓って、絆を深くしていくんだなとタカヒサは思った。そうしないとすれちがいや想いの違いで簡単に壊れてしまう。目に見えないそれはきっと簡単に絡まるし、切れやすい細い糸のようなものなのではないだろうか。それを自分たちは何度も捻ったり交差させたりして、必死に太くしていっているのではないだろうか。 「えーと……、俺はもう帰るな」 突然、空気と化していた男が口を開いた。 タカヒサはハッと我に返った。男の存在をすっかり忘れていた。自分がどれだけ興奮していたかがやっと分かる。 タカヒサと目があうと、男は居心地悪そうに頭を掻いた。 「なんだか無性にうちの奥さんに会いたくなっちゃったぜ……ハハ」 ……なんというひきつった笑みだ。 ドン引きさせてしまって申し訳ないという気持ち以上に今は自分の失態を思い出したくない。 男は踵を返すと土手沿いを歩き出した。 「あ、山田、ありがとうっ」 すかさずちんが男に声をかけた。山田と呼ばれた男は振り向かないまま、タカヒサたちに手を振った。 醜い嫉妬の対象にしてしまった事をタカヒサは反省した。頭に血がのぼっていたさっきの自分を消し去りたい。今度会ったら心から詫びを入れようと決意する。 帰り道、タカヒサとちんは手を握りながら帰った。何事かとタカヒサたちを二度見する輩もいたが、タカヒサは手の力を緩めなかった。あまりにも強く握っていたせいかちんの白い手は余計白くなっており、おそらく痛かったであろうがちんは何も文句を言わなかった。 「家に帰ったらお前のカチンコチンのおにぎり食べような」 タカヒサが優しく語り掛けると、ちんは心外そうに眉間に皺を寄せた。 「な!? まだ食べてなかったのか、そなた」 「なんか餅みたいになってたぞー。 むしろ、オブジェ? そのまま食べたら歯が折れちゃうかもな」 「ええ」 ちんが情けない声をあげると、タカヒサは声を出して笑った。 ちんが初めて作ってくれたおにぎり。食べないで置いておきたいくらいだったが、食べ物として生まれてきた以上食べてあげなくてはな、と思う。 これから、ちんにたくさん料理を教えよう。ちんはきっと舌が肥えているから料理をするようになれば、絶対美味しいものを作れると思うのだ。もちろん、ちんが素直に料理を始めるとも思えなかったが。それはこれから二人三脚していけばいい。 いろんなことを考えながら、歩を進めていると、ふとちんが立ち止まった。 タカヒサが振り返ると、ちんは顔を上げた。 それはまるで懺悔するような語り方だった。 「……タカヒサ、朕は昔とても傲慢な皇子だった。 いつも自分のことしか考えていなくて、民のことなんてどうでも良かったのじゃ。 朕は最悪な皇子だったのだ」 タカヒサはちんの言葉に耳を傾けた。彼は今までになく真摯に心の内から言葉を作り出していた。 「けれど、猫になって、また人になって、タカヒサを好きになって、朕は今後悔している。 朕は人を慈しむことをしたことが無かったのだ」 空の色が変わり、鳥がどこかに飛んでいく。 今、ちんはきっと彼の言葉でタカヒサに約束しようとしている。彼のこれからの生き方を、タカヒサに教えようとしてくれているのだろう。 「朕の民には悪いことをした。 けれど、もう彼らは生きていない。 だから、タカヒサ」 ちんはスンと息を吸った。 「朕はタカヒサを慈しむ。 それはただ罪悪感からだけではない。 そう生きるのが人として自然だと思うからだ」 今まで一度もちんが一国の皇子に見えたことなんて無かったが、今だけはその姿が思い浮かべられた。 タカヒサは静かに頷くと、ちんの手を握り直した。今、ちんが誓いをたててくれたように自分もちんに約束したかった。 「俺はそんなちんをずっとそばで見てるよ」 ちんは嬉しそうに頷いた。ちんと顔を合わせて笑うと、ちんはやっと立ち往生していた足を動かした。 その後は緊張した空気を一変させて、ちんは鼻歌やらスキップやらしながら進んでいった。そんなちんを見ながら、タカヒサは抱きしめたいという衝動を抑えながら歩いた。しかし、そうこうしているうちに一日の疲れを思い出してしまったようだ。 家に帰るとタカヒサはそのまま寝てしまった。一日走り回った体だった為、こたつに入るとそのまま眠りに落ちていった。ちんはタカヒサの体を支えながらブツクサと文句を呟いていた。 「タカヒサ、こたつで寝てはいけないのだぞ」 タカヒサがいつもちんに言っている言葉をかけられて、内心プッと噴き出す。 「……朕のおにぎりを食べずに寝るとは全く不届きな奴である」 ちんのいつものような口の利き方に戻ってきて、タカヒサは笑みを浮かべた。ちんが不満を口に出す時、ちんは一人ですぐ勝手に赤くなって湯気を出すやかんのよう。可愛らしいのだ。甘やかしたくなる気持ちがすぐに出てしまうことも事実。 「……ああ、そうだ」 耳元でちんが何か思い出したように囁く。 「起きたらタカヒサに本当の朕の名前を教えなくては」 でも、ちんと呼ばれるのにも慣れてしまい正直そちらも捨てがたい、と呟くちん。 ……名前? ……名前だと。 呪いが解けて思い出したのだろうか。すぐにでもちんの真実の名を聞きたかった。けれど、頭は動いていても体はすでに眠りに入っていた。岩のようになった体の重さに抗えない。 (起きたら……名前、呼びたい) これから一日の最初にちんの本当の名前を呼ぶのが常に自分でいたい。 そして一日の最後にちんの名前を呼ぶのも、また自分でいたい。 そう思いながら、タカヒサは夢の中のちんに会いにいった。 おわり これにて終わり。こんな風に少し大人になったちんだけれど、きっとこれからも可愛い我侭は続くと思われ。 written by Chiri(7/3/2011) |