朕は猫である
朕は猫である(11)



 耳元で風そよぐ音がする。それは天使のような寝息だ。
 タカヒサは体を起こすと、隣で眠るちんを見て、目を細めた。あの後結局場所を移してまたちんを抱いた。ちんは必死にタカヒサの背中にしがみつきながらタカヒサの名前を何度も呼んだ。
 タカヒサは一人ベッドから抜き出すと、冷気の張った床に足をつけた。

「あ、そうだ。 シチューあったんだっけ」

 台所に立ち、コンロに火をつける。お玉をかき回すと、固まっていたシチューが柔らかく流動した。
 どれどれと一口舐める。
 その瞬間、アレ、と違和感を感じた。舌の上に乗ったシチューは自分が知っている味だった。
 ふと、空気が動いた。冷えた外気が部屋に入るのを感じて、辺りを見渡す。そして次の瞬間、パタンと扉の閉じる音がした。

「ちん?」

 不思議に思って、寝室に行くと誰もそこに寝ていなかった。それでも先ほどまでそこにちんがいた痕跡がありありと残っていた。

「ちーん」

 名前を呼びながら部屋を見渡すが、ちんはどこにも居なかった。玄関を見ると、ちんの靴がなくなっている。
 はてどこかに行ったのか、と思いながら、まぁいいかとすぐに思い直す。
 どうせすぐ帰ってくるだろう。
 ちんは気まぐれな猫であるから。



***



 タカヒサがシチューを口にしているのを見て、朕は頭が真っ白になった。

(絶対バレた)

 朕が嘘をついたこと。
 それを知ってタカヒサは朕をどう思うのだろうか。朕は昨日脱ぎ散らかした服を着ると、タカヒサの作ってくれた帽子をかぶった。忍び足でタカヒサの後ろを通り過ぎ、朕は逃げるように部屋の外に出た。
 タカヒサが追いかけてきそうで怖くてアパートから走って遠ざかる。
 どこに行けばいいのかさえ分からないのに、早足で歩き、走ってはまた歩く。

 どこかいかなくちゃ。
 とにかくどこかにいかなくちゃ。

 当てのない思いを抱きながら、鼻を啜った。目から涙が出ていて、朕は初めて自分のした事を後悔した。
 嘘を吐いた。とんでもなく些細な嘘。
 朕が今までしでかしていた罪に比べたらなんでもないような小さき嘘。

 なのに罪悪感と後悔が渦のように襲う。そして、どうしようもない悔しさ。
 朕はあの女子に勝ちたい。
 タカヒサにもっと好きになって欲しいから。

 朕はあのシチューを思い浮かべた。朕には到底真似できない料理だった。でも一つだけ、朕にもできそうな料理があったことを思い出す。
 朕はタカヒサからもらったカードを取り出した。これでこーしゅー電話を使えば、携帯を持つ人間とはしゃべられるわけだ。
 緑色の大きな電話。見たことがあったはず。朕はそのカードを持って、公園に向かった。






「ちーん、なんだよ!」

 現れたノブは「せっかくの休日にぃ」とブツブツ言いながら朕の元に歩み寄った。朕はノブの持った白い炊飯器と水、米を見てから、息を吐いた。

「ノブ、そなたは朕に借りがあるであろう」

 朕はそう言いながらノブの持つ炊飯器を手に取った。ノブはうっと言葉を詰まらした。一応あの日脱兎のように逃げ去った事を悪く思っているらしい。

「あの時計は朕が探してタカヒサに返しておいた」
「え」

 ノブは目を見開いた。
 朕は目を伏せて、地面に視線を向ける。

「お前の父の形見とは知らなかったのじゃ。 悪かったな、ノブ」

 朕が頭を下げると、ノブは信じられないものを見たような顔で朕の顔を覗いた。朕はノブの顔を見つめ返した。ノブは眉を歪ませて、口に手をやった。

「なんか……ちょっと変わったな。 ちん」

 そんな言葉を無視して、朕は公園にある自動販売機のコンセントから線を抜くと、炊飯器に繋げた。ノブは目をまるくして、声を荒げた。

「ちょ! お前何するつもりだよ」

 朕は米袋の封を切るとそれを一気に炊飯器に流し込んだ。釜一杯になると米を注ぐのをやめる。

「えええ、おまえ」
「朕はタカヒサにおにぎりを作ってあげたいのじゃ!」
「ええ、ここで青空クッキング!? しかも米全部入れて何個作るつもりだよ」

 まるで異常なことをしていると言わんばかりの勢いである。
 どうやら朕のした手順は正しくないらしい。朕が首をかしげると、ノブはもうっとブツクサ呟いた。

「一合でいいだろ? そんな米入れなくてもいいんだよ。 ほら、カップにしるしがあるだろ」

 釜に入った米をカップで袋に戻しながら、朕はこれさえも一人で作れないのか、と落ち込んだ。

「んで、水入れて洗うんだ。 色が透明になるまで。 ほら、やってみろって」

 ノブの監修の元、朕は手を動かす。ノブの持ってきた水をたくさん注ぎ、それで中の米をかき回す。ノブが「もういいよ」と言うと中の水を捨てて、また繰り返し。
 最後に線のところまで水を入れるとスイッチを入れて放置だ。ノブは炊飯器を茂みに隠しながらため息を吐いた。
 ベンチに腰を下ろして、ノブは大きく伸びをした。

「……ったくむちゃくちゃなんだよ、お前」

 朕は素直に謝った。

「ごめんなさい」

 朕は自分でも不甲斐なかった。おにぎりくらい簡単に自分で作れると思っていたから。

「兄貴の家でやればいいじゃん。 なんでわざわざこんなところで」

 ノブの疑問に朕は口を閉ざした。
 タカヒサの家を出てきたことは言いたくなかった。

「……今日は天気がいいからな」

 朕が考えた末に答えると、ノブは「兄貴はどんな躾をしてるんだよ!」と口を尖らせた。朕はノブの文句の矛先にタカヒサに向かって、シュンと体を縮めた。

「ってかちんと兄貴ってどんな風に暮らしてるわけ。 お前、ずっと兄貴に迷惑かけ続けてるんじゃないの」

 ドキッとした。その通りだ。今まではその迷惑を迷惑だとすら思っていなかった。

「で、お前のその呪いってずっと解けないの? ちんって不老不死なんだろ? 兄貴が先に死んじゃったらどうするわけ」

 タカヒサが死ぬ、という言葉が胸に響いた。
 朕は涙を浮かべた。一千年だ。一千年こうやって生きてきた。けれど、こんなに深く関わった人間など他には居なかった。
 タカヒサが死んだら、朕はどうやって生きていけばいいのだろう。

 思い出を胸に生きていく?
 それこそが見返りの無い愛だろうか。

 朕が首を振ったら、ノブは笑った。

「なんだ、朕。 可愛いところあるじゃん」

 朕を可愛いだなんて言語道断なことを言うノブの頭を小突く。ノブは「猫パンチ、痛くねーし」と相変わらず笑っている。

「呪い、解けるといいな」

 ノブはニッと笑った。
 朕はコクンと頷いた。呪いを解こうと思ったことなんて今まで無かったが、タカヒサを引き合いに出されたらすぐにでも解きたいと思った。
 すると、茂みから電子音が鳴った。

「あ、炊けたみたい」

 ノブはベンチから立ち上がると炊飯器を取り出した。朕が取っ手を持ち、蓋をあけると、中には艶やかに光る白米が湯気の向こうにぎっしりと並んでいた。

「わぁ」

 朕はその事に少し感動した。朕の不出来を忘れて、自分がすごいと思った。気持ちさえあればできるのだ。きっと何でも。

「あとは握っていけばいいだけだな。 それはちんがやれよ」

 そう言って、ノブはサランラップをちぎり、朕に手渡した。ここからは分かる。朕もタカヒサが握るのを毎朝見てきたから。

 炊き上がった米をラップ越しに掌に置くと、朕はそれを熱心にまるめ始めた。

「熱っ……」

 今まで触れてきていない為、こんなに熱いとは思っていなかった。けれど、タカヒサはその熱を微塵も感じさせずに握っていたはずだ。

「ちん、……あの、おにぎりって三角なのが普通だけど」

 ノブは戸惑いながら朕に声をかけた。
 朕は頷いた。

「知ってる」

 でも、少しくらいおりじなりてぃーを出さなければ。楕円型に丸めながら、それを少しずつ変形させていく。

「……タカヒサは猫が好きだからな」

 楕円の上にちょこんと生えた猫耳。それが崩れないように中身を固く握っていく。手に力が入ったままだったせいか、最後にはカチンコチンのおにぎりになってしまった。

「海苔で猫の柄を作るか」

 そう言って朕は猫の額部分に四角い海苔をくっつけた。よく漫画やアニメで見る日本の猫の柄だ。
 それを見て、朕はにっこりを笑った。

「できた」

 どれどれ、ノブが覗いてくる。ノブはわはっと笑った。

「可愛いな」

 猫の顔の形のおにぎり。きっとタカヒサは喜んでくれるだろう。
 そう思いながら、朕はそれをホイルに包むと、ノブに渡した。

「タカヒサに渡しておいてくれ」
「え」

 ノブは目を見開いた。朕は笑みを浮かべた。

「今朝、タカヒサの家を出てきたのじゃ。 もう戻らない」

 ノブは固まったまま、やっとのことで言葉を発した。

「え、なんで?」
「……これは朕の見返りの無い気持ちじゃ」
「見返りって」

 タカヒサに会ってしまったら意味がない気がした。タカヒサの知らないところでタカヒサの為に何かをするって事がきっと意味のあるものなのだろう?

「そんなのただの自己陶酔じゃん」

 じことーすい?
 ノブに言われて、首をかしげた。ノブは顔を俯けたまま、上げなかった。
 朕は意味が分からないまま、まぁいいかと頭を切り替えた。

「じゃ、ノブ。 今までありがとう」

 そう口にすると、ノブは慌てて顔を上げた。
 その時。
 ノブは口を大きく開けた。

「ちん、髪の色が黒くなってる」
「え」

 自分の髪に手をやる。一房掴んでその色を確かめる。漆黒色。朕が人間だった頃の色である。
 慌てて、帽子を取った。ノブの顔が更に縦に伸びる。

「猫耳、なくなってるよ!」
「え」

 驚きながら、耳に手をやるが、確かにそこにあったはずのものがなくなっていた。朕は驚いて、頭の形を手で何度も確かめる。

 呪いが解けた?
 何故今になって?

 すると突然頭の中がクリアになったように朕は思い出したのだ。
 自分の本当の名を。ちんでもボンでもない真実の名を。

 自然と涙が一筋流れていった。

 ……ああ、そうか。
 人に傅く事と人を愛する事は似ているのだ。

 だからこんなに苦しいのだろうか。タカヒサにあいたい気持ちを押さえ込んだまま彼の前から消え去るということ。
 呪いと言うからには苦しいことに耐えねば解けなかったということだろうか。





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見返りを求めず他人に尽くすって難しい。その是非を問うのも難しい。
written by Chiri(6/20/2011)