百万回殺された悪魔(2) しばらくして準備を整えるとタオスは神父の真似事を始めた。 町外れの倉庫を借り、その広い空間の壁にリリスを固定した。 右手と左手を天井から伸びている鎖で縛めて、まるで磔にされた罪びとのように扱った。 リリスは真っ暗に明かりを落とされた倉庫でひたすらその時を待つ。 今までと違いそれまでのようにたくさんの客に見られるということは無かった。 しかし、倉庫の扉が開くと、リリスはいつでも地獄を見た。ただ死ぬよりも恐ろしい地獄だ。 倉庫の扉が開き、暗い部屋に明かりが宿った。 「さぁさ、こちらです。」 タオスの声がコンクリートに響く。 リリスはタオスの連れてきた人間を虚ろな瞳で見つめた。 (また金持ちな人間かな…) 見た目は少し年のいった中年くらいだった。権力を誇示するような髭を蓄え、眼はするどく下品な感じがした。それでも来ている服は全て上等なもので、タオスとその男の後ろでは従者のようなものが控えていた。 男はリリスをちらっと見ると、すぐに侮蔑したような表情へと変えた。 「これか?」 「そうです。こいつがその悪魔です。」 「ふぅむ。」 男は疑わしげに髭をなぞる仕草を見せたが、すぐににやりと口角を上げた。 タオスは男の様子を観察しながら、慎重に発言した。 「こいつは邪悪の権化のようなものです。こいつらがいる限り、私たちの生活に平穏は訪れませんし、私たちの心に魔が住み着いてしまう。」 リリスはいつものタオスの言葉に嫌気がさした。 まるでそれが正当な言葉であるようにタオスはきっぱりと物事を言う。 リリスが悪魔なら悪魔。リリスが死すべき存在ならそうなのだ。 彼の言葉を何千回と聞かされ、時々それがまるで本当のことのように感じられれてしまいそうになる。けれどそれでは自分が哀れすぎる。 「この悪魔を倒すことでその邪を取り払うのです。何、魔よけと似たようなものです。こいつを殺すことであなたの心にも平穏が戻るでしょう。」 そう言ってタオスは手に持っていた剣を男に手渡す。 男はその剣をじっと眺めた。 タオスは促すように言葉を足した。 「これは儀式ですよ。退魔の儀式です。躊躇をしてはなりません。儀式が終えればおのずと心は晴れるでしょう。」 どういう理屈だろう、とリリスは思ったがその言葉は何故か男を納得させた。 「ふむ。そうだな。戸惑ってはいけないのだな。」 男はリリスの方を向き、的を決めるようにリリスの全身に視線を走らせた。 リリスは背筋を強張らせた。 男の視線が怖かった。 静かに微笑んでいるタオスも怖かった。 後ろで無表情に立っている従者も怖かった。 (また殺される) 男は剣を振りかざした。リリスは瞬間恐怖で目をつぶった。 そうして血しぶきと共に、リリスは引き裂かれた。 起きてみると、傍らにタオスが座っていた。 「タオス…さん……。」 「今日もごくろうだったな。」 いかにも上機嫌であるかのように目から笑っていた。 「お前には悪いが、人間には人を殺したいという衝動があるものなんだよ。」 タオスは金を数えていた。 何百枚もの紙幣がタオスの器用な手先によって素早く折られていった。 「人間とは怖いものだな。まさか本当にこの商売がウケるとは俺も思わなかったんだぜ。」 タオスは自慢するような口調だった。 お前も人間じゃないか、とリリスは思った。そしてリリスも半分は人間のはずだった。 「お前も随分と可哀相だが、せいぜい自分の運命を呪うんだな。」 タオスは金を数え終わると、そのままリリスを倉庫に置き出て行ってしまった。 リリスは自分が引き裂かれたはずの体を見た。服は破れていたが、皮膚はもう回復していた。 リリスが死んでも生き返ると知ったタオスはリリスを利用し続けていた。 もう何百回、何千回と殺された。 タオスの言うように人間とは本当に醜いもので、自分の心に持つ濁りを誰か別のものにぶつけてやりたくなるらしい。しかし人間同士で傷つけあうのは何かと都合が悪い。 そこでこの商売だ。 リリスの存在はずっと解けなかった公式をいともあっさりと解いてくれる究極の答えだった。 (僕はずっとこのままなのだろうか) 暗闇と痛みの中、一人ぼっち。 長いことこんな生活を強いられてきて、リリスの中でくすぶっている感情があった。 それが何なのかはリリスには分からなかった。誰も教えてくれる人間さえいない。 激しく何かを求めている感情。渇望するように、それがないと生きていけないように。 何度も手を伸ばし、悲鳴をあげながらそれを求めるがリリスが手に入れられないもの。 倉庫には鉄の扉の上に一つだけ窓がついていた。 そこから外を見ると、すっかり空は暗くなっていて星が瞬いていた。 無数に星に囲まれながら月がたたずんでいる。それが全員でリリスをせせら笑っているように思えた。 (月さえも羨ましい) あの月になれたら、心の奥にあるあの感情が分かる気がする。 なんとなく、リリスはそう思った。 *** ヒタヒタと何かが近づく音でリリスは目覚めた。 倉庫は暗いままだった。月明かりだけの空間に誰かの気配がする。 扉を開けられた記憶は無かった。扉が開けばリリスは気づくだろう。 なのに確かに倉庫内に誰かがいる。 (タオス…じゃ…ない?) 暗闇の中から爪先が現れた。 そして次に膝、胴体、そして顔だ。月明かりできらりと反射したので赤い瞳だった。濁った赤ではない。血のように鮮やかで手をかざせば透きとおるような赤色だ。 暗闇から全身を現したものは男の子の形をしていた。 まだ顔が幼い黒曜石のような髪色の15歳くらいの男の子だ。 けれど、人間には見えなかった。悪魔?それとも…………なんだ? 「お前だな、人間に使われているとかいう悪魔は…。」 不意にその少年がしゃべった。 リリスはその少年と目をあわせたが、瞬間背筋が自然と伸びた。誰かに背中を指一本でつぅーと撫でられたような心地がした。 リリスは不安そうな顔をしたまま小さく頷いた。 「ふん、今日も人間の殺人ごっこにつきあってやったのか。」 少年は目を細めて笑った。リリスはびっくりした。 「…なんで、知ってるのーーー」 「僕はなんでも知っている。」 少年は右手をリリスの体にかざした。そしてリリスが先刻切られた箇所をすぅっとなぞった。 「痛かっただろうな。」 同情するような声音ではなかった。少しだけ状況を楽しんでいるようにリリスには感じられた。 「お前、名は何と言う?」 少年が問う。 リリスは震える声で答えた。 「…リリス。」 「ハハ、それなら悪魔は全員リリスになるぞ。」 少年は声をあげて笑った。そうなのだ、リリスとは本来「悪魔の子」という意味を持つ。 しかしリリスは言葉に詰まった。それ以外に答えを持ち合わせてなどいないのだ。 少年は口を結んだ。 「悪魔の血は教えてくれなかったのか?」 「悪魔の…血?」 聞きなれないフレーズを聞くようにリリスは首をかしげた。 少年はしばし考えるそぶりをしてから、また口を開いた。 「人間とのハーフだから血が薄いのか?まあいい。僕が直接聞いてやろう。」 そう言って少年はリリスの左胸に手を当てた。ちょうど心の臓があるその上の皮膚のところだ。 手を当てられた瞬間、リリスはカッと目を見開いた。 体がおかしい。熱くなる。 「あ…ぁ……な、に…?」 「おとなしくしていろ。」 全身の血がドクンドクンと大きな音をたてて流れ出す、踊りだす、そんな感じだ。 いつもの心臓が何倍もの力で血のポンプを送り出している。 血が騒ぐ。 言葉にすると本当にそんな感じだった。体中の血がグツグツと煮えたぎっていた。 少年はしばらくそうやって手を当てていたが、突然スッと手を引いた。 その途端、リリスの体は騒ぐのをやめた。走った後にゆっくり歩いて体を慣らすように少しずつ血の流れが元の速さに戻っていく。 すると、少年が口を開いた。 「…分かったぞ。」 「え?」 「お前の名前。」 リリスはよく分からないという目線を少年に向けた。少年はフッとあざ笑うように口元を上げた。 「ラピだとよ。脆弱そうな名前だな。」 ラピ。 リリスは、その言葉を声に出さずに繰り返した。 その言葉は体に、血に染み渡っていくようだった。 僕に馴染んでいる。本能的にそう思った。 リリスは…、もといラピはようやく悪魔の血の意味を知った。 悪魔の血は最も自分が信じられるもの。それは自分自身そのものだ。 親に名前をつけられるでもない。人の行き方に左右されるわけでもない。 悪魔の血は自分自身だけから生まれる唯一にして絶対のものなのだ。 何故だかラピは泣きたくなった。 自分に名前がある、とそう思うだけで生きているのを許された気がした。 「ラピ…素敵な名前。」 そう言ってラピは綺麗に笑った。笑うのは久しぶりだった。 それを見て、少年はフッと笑みを浮かべた。 「自分の名前を誉めるなんて変な奴だ。」 それでもラピにはそれがどれだけ自分にとって嬉しかったか分からなかった。 息を深く吸い込めば、その名前が体全体に染み渡るようだった。それがラピをとても穏やかな気分にさせた。 「ラピ。」 不意に、少年の顔がラピの顔に近づいた。 少年はラピの耳元でそっとささやいた。 「俺はお前の欲しいものがわかる。」 ラピは間近にある少年の顔をぱちくりとした瞳で見つめた。 少年は不敵に笑っていた。赤く少しつりあがった目が綺麗な三日月の形へと変わっていく。 「これは僕からお前への餞(はなむけ)だ。受け取れ。」 ズドンッ! いきなり体に何かが突き刺さったかと思った。いや、本当に突き刺さっていたのだ。 少年の腕がラピの体にずっぷりめり込んでいた。 出血は無く、まるで泥の中に手を入れているような様子だった。 ラピは体中の血が沸騰するかと思った。 少年は握っていた拳をラピの体内でゆっくりと開いた。 すると、何かがラピの中にみなぎり、内を満たしていった。 ラピはうな垂れた。体が熱かった。熱すぎて痛い。 そして中に注がれた何かがはちきれそうなほど主張していた。 出せ、出せとラピの体を引き裂いてでも外に出ようとする。 それが何かはラピには分からなかった。 見ると少年は既に手を引っ込めていて、目を細長くしてラピを見つめていた。 月明かりに浮かぶ少年の顔は冷徹でおそろしかった。 全身が汗ばむ。痛さと熱さとおそろしさと。 「あなたは…一体……。」 やっとの思いでそう聞いたラピに少年は口角だけ微かに上げた。 「僕に名を聞くのか。愚か者め。だが、いいだろう。僕の名はメフィウスだ。」 ラピは目を見開いた。 メフィウスという名をラピは聞いたことがあった。 タオスとその妻の会話。見世物だった頃、客たちが口にしていた話題。 「…魔……王様?」 ラピには想像もつかなかったが、どうやらこの世の中には魔王というものがいるらしかった。 世界を征服するわけでもなく、魔物たちをはべらしているわけでもない。 けれどふらっとどこかに現れては人智をはるかに超える魔術で悲惨な爪あとを残していく。それは人間に限らず、動物、悪魔、全てにあてまはる。 メフィウスは鬱陶しげに漆黒の髪の毛をかき上げた。 「そのふざけた名で僕を呼ばないでくれる?」 メフィウスの睨みにラピはヒッと小さな悲鳴をあげた。 体を巡る痛みは尚もあったが、それさえも忘れるくらいメフィウスの睨みは絶大だった。 「僕は、王なんていう小さい器ではない。僕は罪と罰をつかさどる神だ。地上に住むものと同じにするな。」 ラピは更に耳を疑った。 罪と罰をつかさどる神様? 小さいころ、ラピは神様に救いを願ったことがある。けれど悪魔であるラピを救うことなどないと母親もタオスも笑った。 「…僕、に罰を…あ、与えるの…?」 今まで以上に? 声が震えていた。 さっきまで熱かったのに、今も体は熱いはずなのに、なんでこんなに寒いんだろう。 不安とか孤独とか怖さとかって全部体温を奪っていくのかな。 メフィウスは一歩だけ体を引いた。 そして身につけている布を翻しながら、また暗闇に戻ろうとする。 それをラピは焦点の合わない瞳で見つめていた。 メフィウスの口が小さく動いた。 「お前じゃない。」 僕じゃない? 「罪を受けるべきは……人間だ。」 それだけ言うとメフィウスは完全にもとあった暗闇の中に帰化した。 ラピはその暗影をしばらく眺めていたが、不意に痛みが戻ってきた。 体が痛い。熱い。 死にそうだ。 体の奥にいるモンスターが暴れだす。それを必死で飼いならそうとするが、モンスターはどんどんどんどん力を増していく。 「み、ず……。」 少しでも熱さと渇きを抑えたい。 「水ください!!タオスさん!!!水、水ください!!!水ーーー!!」 突然暴れだすように泣き叫んだ。 水が無ければ生きていけないと思った。死んでしまう。それでもまた生き返るのだろうか。 「みずぅぅううう!!みずぅううう!!」 無駄だと思いながら両手の鎖をじゃらじゃらと揺らした。 「みずううううううう!!!!」 その夜、空に薄ぼんやりとした光が射し出すまでラピは泣き叫んだ。 けれど、当然のようにタオスも妻は倉庫には現れなかった。 そしてそんなラピを見放すように最後まで見ていた月がついに空から消えた。 next 不幸はまだ続く。 written by Chiri(7/1/2007) |