ゆるゆるのまにまに
ゆるゆるのまにまに(5)



   今日の樹は朝からぼんやりしている、となんとなく一紙は思っていた。
 お菓子に出してやったクッキーだって、いつもの樹がワッと喜ぶ大好物だ。なのに、今日の樹は何も言わずに難しい顔をしたまま、それを頬張っている。

「樹、なんか今日、集中できない?」

 ぴたりと樹が手をとめる。樹は手に持っていたシャーペンを机に置くと、にこっと一紙に笑いかけた。

「別になんでもないよ」

 瞼を二度閉じてそう言う樹にふぅんと一紙は含んだ笑みを浮かべた。

「うっそだー。 樹、嘘つくとき、目をぱちぱちってするんだもの」
「え! 嘘!?」
「本当だよ。 最近気付いたんだけどね。 さ、何があったの?」

 樹は疑い深く、一紙を見つめた。一紙はハハっと苦笑した。嘘つくとき目をぱちぱちするなんて適当にでっちあげた嘘だ。ただ樹が話しやすいように言ってみただけのことだった。
 樹はもう一度机に置いたシャーペンを手に持った。

「昨日の夜、お母さんの夢を見たんです。 ……それだけのこと」

 そしてまたノートに答えを書き連ねた。

「……そっか」

 樹はまだ小学4年生だ。
 この年で母親が出て行くというのは想像以上にきっと複雑な心情だろう。
 けれど樹はわがままを言わない子供だ。そしてそれと同じくらい本音も隠すような優しい子供なのだろう。
 でも本音を隠しすぎると、心が鈍くなるんじゃないかな、と一紙は思った。
 大人になるのはそんなに早くなくてもいいんじゃないかな、と。
 そう感じてしまうことももしかしたら大人の勝手な言い分かもしれないけれど。

「樹はお母さんのこと許せない?」

 カリカリとノートに計算式を書く樹の手が再び止まった。

「……そんなことは、」

 息を呑む樹の頭を一紙は撫でてやった。
 我慢している子供を見つける方法がある。本音を言っても大丈夫なんだと思わせること。わがままを言っても嫌いにはならないと態度で教えてやること。
 子供は想像以上に空気を読む。空気が悪くなる発言は無自覚に心の中にしまっていることが多い。
 一紙がしばらく頭を撫でてやっていると、くすんと鼻をすする音が聞こえた。

「……僕、お母さんのこと、許せないんだ」

 ノートの上にぽたぽたと涙が落ちる。
 一紙はノートを閉じると、樹の肩をポンポンと叩いた。

「そう。 なら、許さなくていいよ。 そしてさ、何も考えずにお母さんなんか忘れてしまえばいいんだ。 多分お母さんにとってもそれが一番酷なことだからね」

 樹は顔を上げた。簡単に上気する頬にまだ幼い子供だということを再認識する。

「え、だって、でもそれだと……」

 お母さん、可哀相でしょうと小さい声で聞こえた。
 うん、やっぱり優しい子だ。子供なりに自分のことも、母親のことも考えている。

「じゃ、それは許せないんじゃなくて、たくさん怒った後に許したいんじゃないの?」
「え?」

 樹は目をぱちぱちとした。

「あ……。 そうかもしれない」
「だって、樹のお母さんだもんな」
「……うん」

 ずっと育ててくれた人を間単に切ってしまえるほど成熟した大人でもないだろう。

「なら、どうせ最後に許すくらいなら、もう今から彼女を許しておくといいよ」
「え?」

 樹は少しだけ探るような目をした。一紙が言う言葉が母親を擁護しているように感じたのかもしれない。

「……なんで、お母さんの味方するの?」
「勘違いすんなって。 俺は樹のことを置いていった母親なんて大嫌いだよ。 俺は樹の味方だ」

 樹はホッとした顔を作った。こういうところは子供の表情だと思う。

「じゃなんで」
「人を憎み続けるのってとても疲れるんだ。 そればかりにとらわれちゃって、毎日が楽しくない。 樹がつらいんだ、疲れちゃうんだ。 そうなってほしくないから」

 一紙は自分で言ってみて、改めて自分を樹に重ねているなと自覚した。人を恨み続けるのは自分の魂も削ることだということを自分はあの1年で身をもって体験した。

「え? 意味がわかんない……」
「他の子が普通に楽しく遊んでる中で、自分だけその許せない人のことを一日中考えてイライラするの。 それって疲れるでしょう」

 樹は小さな声で「……そっか」と呟いた。幼い脳をフル回転していろいろとイメージしてみているようだ。

「じゃ、僕、お母さんのこと許す」

 樹は一紙の目を見て言った。すがすがしい顔が自然と笑顔を作る。

「許して、また会える日を待つよ」
「うん」

 素直すぎる樹が愛しくなった。
 打てば響くように樹は優しい考えをしてくれる。樹はきっと誰より幼いのに、大人で優しく強いのだろう。
 樹は「勉強しよ!」と一紙に笑いかけた。ノートに手を伸ばすと、樹は思いついたように「あ」と声をあげた。

「ひーちゃん、今のそれ、お父さんにも言ってあげて。 お父さんもこの間から元気無いんだよ。 イライラしてたり、落ち込んでたり。 多分お母さんのことでいろいろ考えてるんだと思う」

 思いがけず厚木さんの話になって、一紙は見えないところで動揺した。
 そっか。厚木さん、あのこと気にしてるんだ。
 思い出すとケツが痛くなってくる。まー、なんていうか甘い痛みだ。

「えっと、……それは、お母さんのことが原因じゃないかもね」

 苦笑しながら、一紙はクッキーの袋をもう一つ開封した。樹はそれを見て「おいしそう!」と笑った。
 樹は母親を許せなかったのだろうが、あの人の場合、自分のことを許せないだろうな、きっと。
 クッキーを口に放りこんで、一紙はそんなことを思った。

「まったく複雑な親子だよ、君たちは」

 樹がわけが分からなさそうに首をかしげると、一紙はふふっと笑った。 






 最近の厚木さんは前と比べると随分と素直にここに来るようになった。
 といっても、仏頂面なのは変わらないが。
 今日も帰ってきたのは夜の8時過ぎだ。厚木さんは仕事に疲れた様子でうちの玄関をくぐる。それでも樹の前に立つと少しだけきりっと顔を整えるのだ。

「今日は勉強進んだか?」

 樹の頭に手をポンポンと置きながら、樹に問いかける。
 樹は笑いながら「うん、今日はね、」と今日解いた問題の話をし始めた。
 これが2週間も前の話だとわけが違う。高圧的な厚木さんに萎縮した樹。けれど、そこに愛情が無いわけでもないから、一紙は不思議だなと思っていたのだ。少しでもきっかけができたら二人の関係も一気に良くなるだろうと踏んでいた。
 実際は被害を被ったのは一紙だったが、それでもアレ以来、厚木さんが樹に対して随分優しくなったのは事実だった。
 厚木さんはこちらをちらりと見ると、低い声で言った。

「今日も樹を見てくれて、ありがとう」

 コホンと咳払いするところが、わざとらしい。
 厚木さんは思ったよりもきっとずっと繊細で可愛い人なんだろうな、とぼんやり一紙は思った。

 夜9時ごろ、夕飯を済ませると、厚木さんは樹を連れて帰ろうとした。
 樹が一紙に目配せをして、一紙は「あ」と気付いた。

「厚木さん、大人の話があるんだけど」

 靴に足を入れようとしていた厚木さんがびくっと肩を震わせた。

「……なんだ?」
「だから、大人の話」

 厚木さんは存外可愛い顔をした。完全にびくついている。
 自分が一紙を犯した時の文言と同じように誘っているだけなのだが、厚木さんの罪を上塗りしている気持ちになる。

「じゃ、僕は先に帰ってるね」
「おい、樹」

 素直に帰る樹はお父さんを想ってのことだろう。軽快な足取りですぐに扉を開けて出て行った。
 けれど、厚木さんはここに一人残されていったことにどうも居心地の悪さを感じているらしい。うーん、なんだかおもしろい。
 厚木さんは玄関に立ったまま、目線は下がったままだ。

「……話ってなんだ?」
「いや、樹からあなたが落ち込んでいるって話を聞いて」
「は!? 俺がいつどこで?」

 厚木さんは顔をカッと赤くした。息子に言い当てられてしまった事が恥ずかしいのだろう。一紙はぷくくっと笑った。

「お前、何笑ってるんだ」

 厚木さんはむくれた顔で一紙に詰め寄った。

「いや、そのね。 俺は本当に気にしてないから、罪悪感を持つのをやめてくれるかな、って思って」

 一紙が半ば笑いながらそう言うと、厚木さんは口を一文字に結んだ。

「それは……」
「俺があなたを許しているのに、あなたは自分を許せないんだね」

 厚木さんは泣きそうな顔を俯けた。ぶらんと吊り下げられた手が拳になって握られる。

「俺は、……自分が許せない。 お前のことを何も分かっていなかった事も、樹の事も。 それに今考えると早苗の事だって。 俺はたくさんの人間を傷つけてきた」

 早苗という言葉に一紙は目を細めた。おそらく出ていった樹の母親の名前だろう。
 小刻みに震える拳に手を触れる。
 あぁ、本当に面倒くさい人だ。面倒で、可哀相で、少しだけ愛しい。

「そっか、全部一緒くたになって自分を責めているんだ。 そんなに雪だるま方式に悩みを大きくすると、破裂しちゃうよ?」
「しかし、……それは、俺の罪だ」
「本当厄介な人だね。 俺が許すって言ったら、それでいいんだって。 それに樹の事はこれから一緒に考えていけばいい。 早苗さんのことは、うーん……今は忘れちゃえ?」

 俯いたままの厚木さんの顔を上げて欲しいと一紙は願った。
 一紙は体を下からもぐりこませると、厚木さんの頬に自分の手を添えた。
 厚木さんは驚いて、顔を上げた。

「ねぇ、自分で自分に枷をして、楽しい?」

 厚木さんは戸惑った表情だ。

「また同じことをしないように、必要な枷だろう」
「ほんっと真面目だね」

 おもしろいくらい自分と正反対な性格だ。神経質で、真面目で、何事にも一生懸命。
 不意にこの男に抱かれたくなった。

「ね? またしようよ」

 言いながら厚木さんのシャツに手を入れた。

「え」
「枷なんて取っちゃえ」
「お、お前」

 厚木さんはどうしていいか分からないようで、手が宙を泳いでいる。

「俺があんたの枷外してあげるよ」

 ばさりと厚木さんの上着を脱がす。厚木さんは未だ迷っているように立ちすくんでいる。
 一紙は厚木さんが受け入れるようにわざと言葉を選んだ。

「この間は無理やりいれられたんだからいいじゃない。 今度は俺が無理やりあんたを俺の中に入れちゃうんだ。 これでおあいこだ」

 厚木さんは苦悶の表情を浮かべた。
 あーもう、更に面倒くさい顔になっているな、と一紙は思った。
 厚木さんには鍵がたくさんかかっているように見える。一つ一つ丁寧に開けていっているのにまだまだ鍵がついている。どんなに堅牢な牢獄に身を置いているのだろうか。
 ずさりと壁にもたれた厚木さんのスラックスの前を開く。少しだけ固くなっているそれに舌を伸ばした。

「おい、……お前は本当は俺の罪悪を消そうとして、淫乱になっているんじゃないか……」
「……何言ってるの。 淫乱なフリなんてできないよ」

 ふっと息を吹きかけてやると、芽吹いたように厚木さんのものは立ち上がった。

「なんで、お前はそんなに……」

 上の方で消え入りそうな厚木さんの声がする。

「なぁ、俺……最近、お前を見ると違う気持ちになるんだ」

 ピチャピチャと音を立てて舐めると、みるみるうちに厚木さんのものは大きくなっていく。

「なんなんだよ、これ。 なぁ、やまもと」

 問いかける厚木さんに一紙は答えなんてあげられない。
 だって、そんなの知らないから。

 厚木さんを床に座らせると、一紙はそのまま乗っかった。
 厚木さんの熱い象徴を中に迎えると、宙を泳いでいた厚木さんがやっと一紙の背中に手を回した。

「あ、ん、ああ……あ、あ、」
「や、まもと」

 何度も上下に揺れる度に、厚木さんが自分の中で大きくなっていき、そしてまた背中を抱く手にも力が込められた。
 荒い呼吸で厚木さんにきつく抱きしめられながら、この人はなんでこんなに一生懸命なんだともう一度思った。






「あれ、まだ悩んでいるの?」

 ベッドに場所をうつしてもう一回した後。
 また一個鍵を外したつもりだった一紙だったが、厚木さんは未だ難しい顔をしていた。

「これで俺に対する罪はもう消えたよ。 あとは、樹と早苗さんに対する罪悪感?」

 厚木さんは答えなかった。

「いいことを思いついた。 じゃ、これからどうするべきかの打開策を練って、レポートを俺に提出しなよ」

 前に厚木さんが樹に言っていたことだ。
 厚木さんはムッとした表情で一紙を睨んだ。が、その後に生真面目な彼は神妙にうなずいたのだ。






 翌日。

「うひゃひゃひゃ〜なにこれ〜」

 律儀に提出されたレポートは傑作だった。
 あの後、家に帰って厚木さんはこれを書いたのだろうか。レポートには樹とのコミュニケーション促進に対する対策が列挙されていた。
 要約すると次のような内容だ。

1.樹との毎日のコミュニケーション促進に対する方策
・樹が手伝いをしてくれたら頭をなでる
・悪いことをしても叱った後、頭をなでる
・毎日学校から帰ってきたら様子を聞く。場合によっては頭をなでる
・一緒に朝のラジオ体操をする

 いろいろと厚木さんなりに考えたのだろう。書いてある事はなるほど良いことだ。
 けれど、あの無愛想な厚木さんがこれを実行すると思うとこりゃまいった。おもしろすぎる。
 レポートには母親に対することも書いてあった。

2.早苗との打開策
・会うことがあったら、心から謝る

 読んでみて、ああこれはリアルな話だなとやっと気付いた。笑ってしまって申し訳がなくなる。

「……これは打開策って言わないね」
「ああ 早苗に関しては……もう元には戻れないところまで行ってしまったからな」

 厚木さんはまるで反省した犬のようだ。かわいそうに尻尾をまるめて、今もずっと飼い主の許しを待っている。

「……うん、これはもう、しょうがないよね」
「ああ」

 厚木さんは目を伏せたまま、答えた。

「それに俺はお前が、その……」
「ん?」
「……いや、なんでもない」

 レポートの最後には一紙に対する事も書いてあった。

3.山本に対する対策
・仲良くなりたい

「あはははははは!」

 何これ、ただの願望じゃん!対策でも何でもねぇー!

「こら、笑うな」
「いや、だって」
「どう書いていいか分からなかったんだ」
「いやいやだからって」

 素直になった厚木さんは面白すぎるということだけは分かった。
 というかなんというか、可愛い?
 厚木さんは終始口を尖らせながら一紙の笑う様子を見つめていた。





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真面目な人って真面目に変なことするからおもろい。
written by Chiri(10/14/2009)