ゆるゆるのまにまに
ゆるゆるのまにまに(4)



 パチンと部屋の電気をつけるが、誰の気配も感じられなかった。
 会社から帰ってくる時間はまばらだが七時より早い事は無い。
 真っ暗になった空と何の明かりもついていない自分のマンションを見ると、モチベーションがぐんと下がるものだ。
 あれから2週間。樹は毎日のように山本の部屋へと行くようになった。
 前なら自分が帰ってくると、樹がオドオドしながら玄関まで出てきて、消え入りそうな小さな声で「お父さん……おかえりなさい」と言ってくれていたもんだ。完全に怯えきった言い方だったが、それでも自分は幸せだった。思えば、厚木は樹に随分と甘えていたようだ。
 ネクタイを外し、上着を脱ぐとやっとハァッとため息をつけた。
 誰も居ない部屋に零れるため息というものはどうにも寂しい。
 今頃、きっと山本があの最上階の部屋で鍋でも作って厚木を待っているだろう。山本は頼んでも居ないのに、勝手に夕飯を準備しておくのだ。といっても奴にはレパートリーというものが無いらしく、鍋、うどん、丼が常だ。しかも、厄介なことにその半分、いや半分以上、樹に手伝わせているのだ。厚木は樹が作ったものはできる限り味わいたい。おいしくなくてもおいしいと言いたい。褒めてやりたい。
 そうすると、あの見たくも無い顔と一緒に夕飯を啜ることになるというわけだ。
 厚木はソファに深く腰をかけて、もう一度大きなため息を吐いた。

「ひーちゃん、教えるの巧いよ」

 樹はいつの間にか、山本をひーちゃんと呼ぶようになった。
 朝はいつものように厚木を見送ってくれる樹だが、夜は必ず山本のところで待っている。まるであの汚い部屋が樹のホームであるような感覚。
 樹は部屋に戻る途中、いつも嬉しそうに山本のことを話してくれる。

「聞くとなんでも教えてくれるんだ」

 高揚したような口調で早口でしゃべる樹を見ると、厚木はなんだか自分が情けなくなるのだ。本来なら聞かれてなんでも答えるのは父親の役割であるように感じる。しかしそれをまるごと山本に乗っ取られた気分だ。

「ひーちゃんって、知らないことが無いんだ」

 樹がこんなにも毎日楽しそうにしているのを見るのはひさしぶりのことだ。
 樹はよく笑う子だった。少なくとも母親と話している時は、まるで二人で密談を楽しんでいるように耳元で囁きあって笑っていたものだ。
 イライラする。
 なんでこんなにも腹立たしいのかが分からない。
 なんで厚木が泣きそうにならないといけないのかも分からなかった。

 全部あいつのせいだ。
 あいつの、山本一紙のせいだ。

「あ、おかえり。 厚木パパ」

 のんきな顔をして山本は厚木を出迎えた。
 相変わらずのこの汚い部屋だが、それでも夕飯の良い匂いが立ち込めていた。

「お父さん、おかえりなさい」

 トコトコと奥から出てきた樹の頭を撫でてやった。

「勉強、進んでるか?」
「うん!」

 何のとまどいもなく答えると言うことは本当に進んでいるのだろう。
 せめてこの可愛い息子が少しでも山本に対する不満を出してくれたら、自分もこんなにイライラしなくてすむのかもしれない。

「樹、随分と算数ができるようになったよな?」

 山本が樹に対して投げかけると、樹は大きく首を縦に振った。

「うん!」
「今は漢字も教えてるんだ。 樹、漢字強いから難しいのも教えちゃった」
「僕ね、”薔薇”もかけるし、”憂鬱”もかけるようになったよ〜」
「それはすごいな」

 二人ともニコニコと笑っているのに、自分の心だけはどうにも冷たかった。
 こんな会話、まるで家族みたいじゃないか。だが、本物になりえない擬似家族。山本のような異端な存在が一緒では、本当の家族とは言えないはずだ。

 ……山本、お前の存在は迷惑そのものだ。

 胸の中にどす黒い感情が芽生えていく。それに樹と山本は気づかない。
 夕飯は親子丼だった。低俗なお笑い番組を見ながら、あははと笑う二人に厚木は目を細めた。

 ……ほら、お前の存在は樹にとって害にしかならないんだよ

 汚い感情が自分の中でエスカレートしていくのが分かった。けれどそれは止めように無い程、急激に加速して理性を追い抜いている。
 夕飯を食べ終わると、ゴロゴロと床で寝転びながらテレビを見る山本に声をかけた。

「おい、山本。 話がある」

 樹が不思議そうに厚木を見上げた。厚木は眉を潜めてから、

「樹は先に帰ってろ。 大人の話だ」

 と言った。

「え、でも……」
「何回言わせるんだ、先に帰るんだ」

 樹は何か言いたそうな表情のまま、ここを出て行った。
 樹が玄関から出て行き、こちらから鍵を閉めたところで厚木は一度深く息を吐いた。
 山本はあくびをしながら、厚木に近寄った。

「何? 大人の話って」
「もう樹に近寄らないでくれ」

 山本は予想していたのだろうか。あまり驚く様子も無く、首をかしげた。その口は小さく笑みさえ浮かべている。

「……それは、なんでかな?」
「お前は樹にとって害でしかない」
「なんでそう言いきれるの? 樹は俺と会ってから勉強が好きになった。 料理だって自分から手伝うっていうし。 むしろ今はとても楽しそうにしてるじゃないか」

 その瞬間、カァッと頭に血が上った。

「俺じゃ樹の父親になれないっていうのか!」

 無意識に山本の襟を掴んで、床に倒していた。山本の厚い前髪がふわりと宙に浮かぶ。厚木は山本に乗っかるようにして、山本の動きを制していた。

「厚木さん、俺そんなことが言いたいんじゃ……」

 山本は困った顔で、初めて下手に出る口調になった。
 けれど、既に厚木の頭は正常な判断なんてできない状態だった。

「なら、お前から樹に近づきたくないようにすればいいんだ」
「え、おい、厚木さん」

 カチャカチャとベルトを外す音が鳴る。山本はハッと我に返って、ベルトを外そうとする厚木の手を止めようとした。しかし、厚木の手は一向に止まらなかった。
 必死で抵抗する山本と長い間、掃除していなかった床から舞い上がる埃。
 その全てを無視して、厚木は山本を犯した。

「あ、あ……や、やめろよ、厚木さん……」
「うるさい、黙れ」

 濡れても無いそこに指を二本突き立てると、山本が身震いした。

「あ! やめ……」
「くそ、固いな」
「や、やめ…………ん、ああ!」

 山本がハッと口を抑えた。弱点を見つけたように厚木は口元を歪ませて笑った。

「何だ、お前もしかして気持ち良いのか?」
「や! ……そんなんじゃ、んああ!」

 艶かしく喘ぐ様に厚木も胸を熱くした。汗がしっとりと床に落ちる。
 山本は服を噛みながら、必死と声を出さないようにしていたが、その努力さえも無効にしたくて、服を無理やり取り除いた。
 指で存分に拡げたそこに厚木は自らの楔を打ちつけた。

「んあああああ!」

 山本の目から涙が滑り落ちる。
 厚木はそれを目を細くして見つめた。何度か打ち付けると、山本の体はより甘く震えた。

「あ、あ、ん、あん!」
「……淫乱が」

 厚木はしたり顔で上唇をぺろりと舐めた。

 ああ、ほら、みたことか。
 こいつは樹にふさわしくない。
 それを俺は今、体現しているだけだ。

 加速して熱くなっていく熱をとめる方法は無かった。判断力を鈍くして、とにかく目の前のこの男を責めることに神経を使う。
 厚木は何度も何度も山本に打ち付けた。多分これが終わったら厚木が望む結果にいつの間にか終着しているはずだと思い込んでいた。






「もう俺の子供に近づかないでくれ」

 山本の下半身からどろりと白濁したものが伝い落ちる。厚木は見苦しいものを見るような目つきでそれが床に落ちるのを見届けた。
 山本は上半身だけ起こして、ずっと抑えられていた両腕を撫でていた。手首には跡が残り、そこだけ未だ拘束されているように赤い輪になっている。

「……嫌だよ、だって俺は樹が好きだもの」

 期待していた答えと違うものが返ってきた。厚木は瞳をカッと見開いた。

「まだ懲りてないのか、お前は」
「懲りるも何も、俺は樹が可愛いんだもの。 それに言っておくけど厚木さんも好きだよ、俺は。 樹をせいいっぱい守りたいっていうのが分かるから」

 山本は厚木の目を見た。惜しみなく真っ直ぐと見てこられると、居心地が悪くなるのも罪悪感が芽生えてくるのも加害者側の方だ。当たり前のことだ。

「お前、こんなことされてよく平気でそんなこと……」
「うん、平気なんだ。 俺、昔さ。 強姦されたことあるんだよ」

 厚木の動きがとまった。

「高校の時さ、俺、これでもすごく頭が良かったんだ。 全国模試で1番2番とかいつもそんな感じ。 校内だともちろん1番。 それで、うちの学校はちょっと頭おかしいくらい競争意識を高めてるようなところでさ、2番の奴にいつもすごく恨まれてた」

 山本の目は深い色なのに澄んでいて、静謐だ。それを長く見つめるのはなんというか難しい。

「で、受験の日に犯されたの。 で、その先もずっと脅されて犯され続けて、他の大学の受験も受けられなくて、結局浪人」

 最悪な奴らだな、と返そうとして言葉に詰まる。同じことを今しがたした自分とそいつら、何が変わるのだろうか。
 ただどちらも被害者が山本である、それだけは事実だ。

「今、かわいそうだと思った?」

 山本は厚木を見て、フッと笑った。

「でも俺の場合は違うよ。 俺はそれから勉強に開放されたんだ。 俺を犯した奴はね、大学生になってから自分がしたことがどれだけ視野が狭くて馬鹿だったかってのを勝手に理解したんだ。 だから、それから謝られたよ。 俺は俺を犯した奴らを許すのにも自分を許すのにも1年かかった。 その1年はつらかったけど、でもそれからはなんだか気分がすこぶるよくなったんだ。 価値観がね、変わったんだ。 勉強なんていらないじゃん、それが全てじゃないんだなって。 盲目的にそれが人生の価値観だって思うことってすごく寂しいと思うし、怖いことだと思う」

 汗でべったりとくっつく髪の毛を山本はそっと横に流した。
 山本の顔を初めてこんなにきちんと見た。何も考えていなさそうな人間だと思っていた。けれどその顔は端正で理知的で、自分がどれだけこの人間を自分の偏見で決め付けていたのかが思い知らされる。
 山本は続けた。

「俺はそのことが無かったら今もきっと真っ当な人生を送ってるよ。 大学出て、就職して、給料もらって。 でも、だからと言ってそれが正しくて、俺の今の生き方が正しくないなんて誰が言えるんだ?」

 ぐさりと見えない槍でつかれる。
 厚木は山本のことを今言った言葉そのままに捕えていた。間違った人生、間違った価値観。山本の全てが間違っていると決め付けていた。
 いつの間にか厚木は自らを覆っていた自信というメッキを一つ一つ剥がされていくのを感じた。厚木を支えているものは律する心だ。しかしその支柱がそもそもおかしいのではないかと山本は多分そう言っている。

「樹はさ、自分の生き方が人とは違っているって思ってないかな」

 樹の話になって、うなだれていた厚木は顔を上げた。

「母親に捨てられたから、ろくな子供じゃないって誰かに言われたってこないだ樹が言ってたよ」

 その言葉にカッとした。

「な、ふざけるな。 樹は何も悪くない!」
「じゃ、俺は強姦されたから幸せな人間じゃない、とかは?」
「う、それは」

 山本はふふと笑った。

「それに、勉強ができないから良い大人になれない。 それも一種の決め付けでしょう。 ねぇ、決め付けるのって怖いと思わない? もし勉強できなかったら樹は厚木さんの子供として失格なの? 厚木さんは樹を無理やり型にはめようとしていない?」

 厚木は口ごもった。
 まるで将来を見通した責め苦にあっているようだ。もしかして何年後、樹がそうなってしまった時に自分がそう詰られて、ちゃんと言いかえせられる言葉はあるのか。そう試されているようだ。

「勉強は教えるよ。 でも樹は今、あなたとだけ一緒にいると価値観が凝り固まってしまう気がするんだ。 俺みたいな適当な意見も教えてあげると、樹はいろんな価値観があることにきっと気づくから」

 厚木は何も言えなかった。
 ただ、目頭が急に熱を帯びた。厚木は手で押さえた。

「知っている? 本当につらい時は自分を戒めてはいけないんだ。 こんな生き方もあっていいんだよって自分に提案してあげるんだ。 そうしないといつまでたっても立ち直れない。 ずっとつらいままだ」
「お前は……」

 そんな経験をしたんだな。
 立ち直れないほどの暗闇に置き去りにされたことがあるのだな。
 厚木は、後悔した。
 なんてことをしたのだろう。
 この男はなんでこうも適当なことを言っているようで、正論を言っているのだろう。
 目からワッと雫があふれ出た。1時間前の自分を絞め殺してやりたい。この男の過去に触れる前の自分を。

「何? 泣いてるの? 厚木さん」
「……すまなかった」
「いいって、僕気持ちよかったし」
「すまなかった」

 この男はこんな時でも嘘をついている。血が出てたのだ。気持ちよいだけのはずはない。
 山本は久しぶりだったから、ちょっと疲れちゃったなんて言って地べたに寝転がった。その衝撃でまた山本の下半身から白い汁が落ちていく。
 痛かっただろう。昔を思い出させてしまったかもしれない。体も心も。

「山本……」

 呟くと、山本は「何?」と顔だけこちらに向けた。
 さっきの答えだ、と厚木は前置きした。

「俺は、もし樹が勉強できなくても、……例えろくでなしになっても樹が大事なんだ。 愛している」

 厚木はぽたぽたとその顔に涙を落とした。
 山本はふふっと綺麗な顔で笑った。

「……そんなんだから俺は厚木さんが嫌いになれないんだよ」

 こんなにも深い感情に触れたのは初めてだった。
 何を感じているか自分の心も分からないまま、ただ涙が出た。
 きっぱりと碁盤上に区切られていた厚木の内部に正体不明の霧がかかるように。
 それは厚木の心を制覇した。





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イエーイ。びーえるじゃびーえるじゃ。
written by Chiri(10/13/2009)