ゆるゆるのまにまに(3) 厚木は毎週日曜日に玄関の扉を水拭きする習慣にしている。風水なんてものは信じていないが、それでも玄関が綺麗にしていないとここに住んでいる人間まで汚らしく思われてしまうのではないか、と強迫観念が襲う。自分の顔が反射してうっすらと見える段階まで磨き上げたら一応合格だ。 けれど、今夜の玄関はいつもと趣が違うかった。扉に張られたスーパーのチラシ、とその裏に油性のペンで書かれた汚い字。 樹はあずかった!! やまもとひとし 「なんだこれは!」 腹立ちと共にチラシを勢い良くやぶりとる。しかし、ガムテープでくっつけたのか、扉に粘着テープの痕が残ってしまった。 「っくそっ!」 この世で嫌いなものベストテンに入るかもしれない。なかなかとれないテープのあと。しかしその忌々しい敵を目前にして、厚木は体を翻した。 エレベーターに勢い良く乗るとぐらりと揺れる。最上階の部屋で、わが息子がまた囚われているのだから、助けに行かねばならない。 右手で先ほどのチラシをぐしゃぐしゃに丸めると、それを破りたい衝動に駆られた。しかしそれを破ることは同時にゴミを増やすことなので几帳面な厚木はそれを断固としてしない。これは、山本にぶつけてやるためにまるめたのだ。 チャイムを鳴らすと、軽快な足音が聞こえた。はだしで歩く音。あの汚い廊下をぺたぺたと。 「はーい、厚木パパ……」 扉が開くと同時に寸分の隙間無く丸め込まれたチラシのボールが山本の顔に直撃した。 投げて後悔した。あまりにも上手く決まりすぎていて、コントじみてしまった。 ドターンと音を立てて転がった山本を避けて、中に足を踏み入れる。昨夜座っていたその場所にやはり今日も樹がこっちを向いて座っていた。 「樹、帰るぞ!」 唯一つ違うことは、樹の顔を見ることを妨げる湯気。テーブルの上にはキムチ鍋がぐつぐつと煮えていた。 「あ、お父さん。 おかえりなさい」 にこりと樹が笑うと、厚木は心臓をつかまれたようにビクリと震えた。樹の無邪気な笑顔を見るのは久しぶりだった。 それでも、生真面目さが襲ってくる。せっかくな和やかな雰囲気でもそれは決してかげを潜めてくれない。 「……樹、もうここには来ないと昨日約束しただろう」 険しい顔で樹を見つめると、樹は困った顔をした。 「俺が呼んだんだよ。 樹は悪くない」 いつの間にか復活していた山本がすぐ後ろからちゃちゃを入れた。 「それに今日は汗だくになって探さずにすんだだろ? いいじゃないか」 山本は厚木が投げたチラシのボールを紙状に戻すと、ぴらぴらとそれをはばたかせた。厚木は片眉をあげた。 いいも悪いもあるものか。この汚い部屋に樹を入れることさえ耐えられないというのに。 「さぁさ、厚木パパ。 今夜はおいしいおいしい鍋だよ。 席に座って」 子供をあやすような口ぶりで山本は厚木を促した。ひじに手が触れたため、厚木はそれをばさりと振り払った。 「俺は、鍋は好かないんだ」 そもそも知らない人間と一緒に鍋をつつくなんていうことは信じられないことだ。山本は分厚い前髪の向こう側で目をぱちぱちとさせた。 「え、そうなの? せっかく、樹が頑張って野菜切ってくれたのに……」 「な、何? 樹が?」 驚いて樹のほうを向くと、樹がはにかみながら笑った。どこかで優しい鈴の音が鳴っているかのような不思議な心地だ。樹はいつも伺うように厚木を見て、少しでも怖い顔をしていると俯いてしまうような子だったはずだ。 −−山本め、樹に何をした? なんて思いつつも、胸の奥が小鳥の羽でくすぐられているような気分になる。早い話が嬉しいのだ。 眉間に皺を寄せたまま、厚木は席についた。鍋の中の野菜は確かに大人が切ったものにしては大きくて不ぞろいだ。 「樹、手は切ってないか?」 「うん、大丈夫」 「そうか」 樹の小さな手元を見やりながら、ホッとした。 山本は厚木と樹の向かいに座ると、高らかに声をあげた。 「いただきます」 続いて、厚木と樹が声をそろえた。 「「いただきます」」 ふと、頭の中をよぎる光景は厚木と樹とその母親が同じ手をあわせて食卓を囲んでいる様子だ。そういえば声をそろえて「いただきます」なんて言ったのはいつぶりだろうか。 厚木は仕事のストレスをそのまま妻の料理への不満にぶつけていた気がする。いただきますを言うよりも先に、「今日は揚げ物の気分じゃない」だとか「疲れたときこそ濃い味付けが食べたくなるものだ」だとか妻に理不尽な要求をしていた。料理を口に入れれば更にひどい。「塩が足りない」だとか「しょうゆが欲しい」だとか「味付けも満足にできないのか」など思いやりのかけらもないような言葉の羅列をぶつけていた。 樹の切った葱に箸をつけながら、思った。樹の切った切り口は一太刀で切れなかったのかギザギザしている。それさえも今なら頑張ったのだな、と思えるのに。その気持ちを妻に持てなかったのはやはり自分の業なのだろう。 「お父さん、おいしい?」 よほど嬉しいのか、樹は終始ニコニコと笑っていた。 「ああ、おいしいよ」 ここに山本ではなく、あの頃の妻がいれば厚木はもう少し優しくなれたかもしれない。 けれどそれももうあとの祭りだ。 煮だった野菜が生野菜にならないように、きっと人の関係もそう簡単は戻らない。 「だしがきいていておいしいね」 山本の言葉に厚木は小さく頷いた。 いちいち鍋を見てセンチメンタルになっていても詮無きことだ。厚木は煮えた野菜を箸で一掴みすると、口の中にポイッと放り込んだ。 「うん、うまい」 鍋は最後には雑炊にして底が見えるまで平らげた。たらふく食べると今度は眠くなる。仕事の疲れが今になってドッと現れる。うとうとし始めそうな中、不意に山本が口を開いた。 「あ、そうだ。俺が樹に教えてあげることにしたから」 「ん?」 「勉強だよ。 俺、暇なんだ。 働いてないから」 眠そうになっていた頭が飛び起きた。 この男が息子に勉強を教える?冗談じゃない。 「ダメだ、ダメだ。 お前なんかに」 思わず貶めるような言い方をして、しまったと心の中で厚木は呟いた。しかし、山本はたいして気にする風でもなく、奥にあるもう一つのテーブルの上から何かを持ってきた。 ぺらっと一枚の紙を手渡される。 「これ、カリキュラム。 作ってみた」 見せられた紙には夏休みのスケジュールと、その中で教えるべき内容が日別にびっしり書いてあった。 厚木は目をバッと見開いた。 「……こんなのいつの間に」 「厚木パパが来る前に。 樹に簡単なテストと本人へのヒアリングしてみたんだ。 で、考えてみましたー」 へらっと笑う山本を無視して、カリキュラムに詳しく目を通す。手に力が入った。 こんな男、どうせろくでもない男だと思っていたが、このカリキュラムは文句の付け所が無い。もちろん、この計画通りに実行できたらの話だが。 「樹、分数の割り算が苦手みたいだからさ」 「え」 樹が肩を小さく丸めた。厚木は樹に向き直った。 「樹、そんなん初歩の初歩じゃないか」 「だ、だって」 「しょうがないじゃん。 勉強が嫌いなんだもの」 口を挟んだのはまたしても山本だ。あっけらかんとした物言いにかちんとくる。どうも山本は子供を育てるということを分かっていないらしい。 「嫌いでも勉強するものだ。 そんなの言っていると良識ある大人になれないぞ、樹」 実際言ったのは山本の方だが、わざと樹を戒める言い方をした。 「いいじゃないの 別にならなくても」 それでも山本は懲りずに反論してきた。 樹は黙って厚木と山本のやりとりに耳を欹てている。 山本は続けた。 「だってそうだろう? 良識ある大人なんてならない方が幸せかもしれない」 「はぁ?」 言っている意味が分からなかった。 「……幸せを勉強の量や常識で図るなんて」 しかし、追加された言葉でなんとなく理解する。だがそんな言葉は厚木にとって、子供の前で言うようなことじゃなかった。 「それはお前みたいなダメな奴が言う詭弁だ」 思わずポロッと口から出てきた。 これには流石に山本も怒るかと思ったが。 「別にダメでも幸せですからー」 山本は顔色一つ変えずに笑うだけだった。 これには厚木も辟易した。 −−山本一紙。 だめだこの男、これは完全に樹に対して悪影響を及ぼしている。 うちの子をこいつに近づけてはいけない。価値観が惑わされてしまう。こんな男の言うことを聞いていたら、樹までダメな奴になってしまう。 悶々と頭の中で考えながら、山本を睨み続けた。しかし、突然声が上がった。 「お父さん!……あの、僕、勉強頑張るから」 先ほどまで縮こまっていた樹が未だ耳が垂れ下がり、尻尾がまるまった状態で意見していた。 厚木は樹を見つめた。 樹はおそるおそる顔をあげると、厚木の目を見た。 「僕、ちゃんと真剣に勉強教えてもらうから」 樹の瞳に厚木が反射して見える。 いつの間に、樹はちゃんと自分と目を見て話せるようになったのだろう。 不思議に思いながら、樹を眺めていると、パンと手拍子が鳴った。振り向くと、山本の手が重なっていた。 「うん、じゃ決まりだね」 おいこら。いつ決まったのだ。 そう言葉にしようと思ったが、俄然やる気になっている樹を見るとそれもなかなか出てこなかった。 next …まだびーえるにならない。次じゃ次じゃ。 written by Chiri(10/12/2009) |