ゆるゆるのまにまに
ゆるゆるのまにまに(2)



 手にもっていた通知表は強く握りすぎてしまっていたせいか、少し折れ曲がっていた。
 家に居てもどうせ何もすることが無いので、公園に来てみた。ブランコに腰をかけて、かばんから通知表を取り出すと、それを空にかざしてもう一度見る。
 ……5段階評価の2が3つ。
 この間見た時と変わっていたらいいのにな、なんて思いながら通知表を開いたが、見事にアヒルが今もそこで佇んでいた。
 樹ははぁっと長いため息を吐いた。
 こんな数字、今までとったことも無い数字だ。
 というのも、三ヶ月前に出て行った樹の母は心血を樹の教育に注いでいたようなスパルタママだった。樹はもともとはそんなに勉強なんて好きではなかった。けれど鬼が金棒を持って監視しているのなら、嫌な勉強だって仕方なく励んできた。
 ところが、母はある日突然いなくなった。樹に勉強を強要する人がいなくなると、樹は勉強へのやる気なんてものはいち早く捨てた。
 もちろん、それだけが樹の成績を落としたものとはいえないが。

「あれ、樹?」

 聞き覚えのある声に樹は垂れていた頭を上げた。
 足元の擦り切れたサンダルがまず見えた時点で、あ、と気づいた。

 山本一紙、さん。
 昨夜、途方にくれていた樹に空間を提供してくれた人物だ。

「山本さん」
「あ、ちゃんと覚えてくれたんだ」

 山本さんはニコニコと笑った。
 今日も樹の父親とは比べられないくらいゆるい格好をしている。腰よりもずっと長いロングTシャツに腰履きのジーンズ。髪の毛はまるで廃屋の庭に生えた雑草のように縦横無尽に生い茂り、山本さんの顔の上半分を隠していた。父親だったら「このやろうめ」と言って、根ごと抜きたくなるかもしれない。実際、父がそう言って庭の雑草を抜いているのを見たことがある。
 この不可解な人間を、樹はあまり嫌いではなかった。神経質なほどに清潔な父親だったら一番嫌いなタイプだろう。格好から判断して真っ先に「ろくでもない奴だ」とでも口走りそうだ。
 それでも、昨夜、マンションの前で蹲る樹に差し出された手はこの男の手に他ならない。

『一人で何しているの?』

 ランドセルを膝に抱えたまま、樹はマンションの前の階段に座っていた。ランドセルの中には通知表。父親が憤怒する勢いの成績だ。
 声をかけられたことに気づいたのは、山本さんのサンダルがすぐ目の前まで歩みを進め、止まったからだ。
 見上げると、不思議な顔で山本さんが聞いていた。

『おうちに帰らないの?』

 どう答えていいか分からず、首を縦に振った。

『帰りたくないの?』

 もう一度、縦に振った。

『じゃぁ、うちに、来る?』

 父親は山本さんをまるで人攫いとでも言いたそうな顔をしていたが、本当は樹が言わせたようなものだ。山本さんはただ子供のわがままにつきあってくれただけだ。

「今日はどうしたの? お父さんは?」
「まだ会社。 お父さんが帰ってくるまでにどうやって成績をあげるか考えておかなきゃいけないんだ」
「ああ! そういえば昨日なんか言ってたよね」

 山本さんはコロコロと声をあげて笑った。
 昨日、山本さんは樹の父親に少なくとも良い態度はとられなかったはずだ。それでも、そんなこと無かったかのように、むしろそれさえも楽しかったように山本さんは笑い声をあげた。

「で? 何か決まったの?」

 山本さんに促されるが、樹は首を横に振った。

「何も思いつかないんだ」

 家の中に居ても何も思いつかなかった。外に出れば何かアイディアが浮かぶかもしれないと思い、公園まで足を伸ばしたが、結局無意味にブランコに揺られただけだった。
 樹の手の力が強まる。通知表が一層深く折れ曲がってしまった。

「……僕、お父さんに嫌われちゃうかも……」

 山本さんのサンダルがさらに一歩近づいた。
 地面を俯いていた樹の目線に、山本さんが降りてきた。山本さんはよっこらせ、と声をあげると、しゃがみこみ、もう一度にこりと笑った。目がぴったり合う位置だ。

「じゃぁ、うちに、来る?」

 まるで昨日の父親との諍いなんて無かったようなリフレイン。

 山本さんの前髪はひどく長くて、彼の目なんてものは地中深くに埋もれている。
 けれどそこが安心する。
 樹の父は樹をいつも糾弾するように見つめてくる。

 例えば、こう言われているように思えてくる時がある。
 お前は何故母親についていかなかった?
 お前は何故ここに残ってしまったのだ、と。

 樹は山本さんの問いかけに、小さく頷いた。






 樹の母親は最初からそんなに口数の多い方ではなかった。
 今まで母親が明示的に父親の悪口を言っていることなんて聞いたこともなかったし、樹が少しでも文句をたれるものなら「お父さんのことを悪く言ってはダメよ」と窘められたことだってある。
 それでも、あの父親に対する樹と母の位置づけは「共犯者」のようだった。
 父が他の家庭では怒らなさそうな細かいことで怒っている時、樹と母は顔をあわせて「また言ってるよ、この人」という視線を送りあう。それで父親の戯言を回避しているつもりだった。少なくとも樹は。
 母親が裏で父親に対する不満を溜めていることなんて気づかなかった。
 母親がいなくなる前の日、樹は質問を投げかけられたのだ。

『樹はお父さん、好き?』

 樹は不思議に思いながら答えた。

『好き。 だっていいところもたくさんあるでしょ』
『……樹は大人ね』

 その言葉の意味は分からなかった。
 なぜなら、樹が言った言葉は母親が常々樹に言ってきたことだったからだ。
 どうして、うちのお父さんはあんなに細かいの? 神経質なの?
 そんなこと言わないの。 お父さんは毎日お外で大変なお仕事をしてきてくれるのよ。 あの人は曲がったことが嫌いなの。 不器用なの。 でもそれは、真面目で気骨のある人だということなのよ。
 そう言っていたのは母親だ。
 母親の刷り込みによって、樹は父への尊敬を失わずにすんだのだ。
 けれど、次の日、母親は樹を置いて、出て行った。
 共犯者だと思っていたのは樹だけだった。母から見れば、樹に話した言葉はおそらく自分を説得するための材料であり、本当のところではそれでも許せないことがあったらしい。

 山本さんがパンッと手を叩くと、樹はハッとして顔を上げた。

「さて、じゃ勉強どう頑張るか考えようか」

 結局、また山本さんの部屋まで来てしまった。
 父親とはもうここには来ないと約束させられていたはずだというのに。

「……うん」

 暗い顔で答えると、山本さんは首をかしげた。 

「何、どうかした?」
「僕……、ここに来たらお父さんに怒られるかもしれない」

 ぽつりとこぼすと山本さんが快活に「あ〜なるほど!」と言った。
 まるで甘えた子供の言い草になってしまった。
 樹は自分のことを少なくとも自分の行動だけなら責任はとれる人間だと思っていたが、山本さんは絶妙なタイミングで救いの手を伸ばしてくる。それを断るほどできた小学生ではなかった。

「でもそれなら大丈夫だから!」
「え」
「今日はちゃんと対策打ってきたから」

 山本さんのもっさりとした前髪の奥の方で右目がウインクしたように見えた。
 どんな対策を打ったかは教えてくれずに、山本さんは樹をダイニングテーブルの席まで誘った。どうやら外では夕飯の食材の買い物に行っていたらしい。ビニール袋から冷蔵庫へと食材が移されるのを樹はぼーっとした眼差しで見つめた。

「山本さん、料理するんだ」

 この家の有様を見る限りでは、山本さんの持つイメージは自分では料理をせずに弁当を外で買ってくるばかり、といった感じだ。この汚い部屋を持つ人間とマメに料理をする人間が結びつかない。そもそも今座っているテーブルの上の弁当がらが物語っている。
 樹の言葉に、葱と白菜を持った山本さんがくるりと振り向いた。

「うーん、鍋って料理って言うもん? 今日は一人でキムチ鍋の予定だったんだ」
「……今、夏だけど」
「いいんだよ。 鍋は一年中楽しんで!」

 食器棚の奥のほうからこの家には似つかないほど立派な土鍋が姿を現した。

「ちょっと待って。 そこにあるゴミ、どけるね」

 山本さんは土鍋と野菜を台の上に置くと、樹の前においてある弁当がらを取り除いた。と、言っても流しに置いただけだ。
 弁当がらはプラスチック容器だ。中身を捨てて、綺麗に洗ってリサイクルセンターに持っていく用のゴミ袋にまとめておかないといけない。父なら一瞬でそうするだろう。

「え。 それ、洗わないの? 新しくご飯作る時には、前のご飯はちゃんと処理しないと」

 見かねてつい口を出してしまった。
 山本さんは珍しいものをみるように樹を見た。

「それ、お父さんの受け売り? いいじゃない? あとで捨てても」

 そういわれると自分が言っていることがおかしいのか、とドキッとした。

「そんなんじゃないけど……。 うちはあの、いつもそうだから」

 母親がいつもそう言われていたのだ。
 例えば昼ごはんを作るときに朝ごはんを作った際の洗い物が片付いていないと、「なんで朝の洗い物を終えてから、昼の準備をしないんだ? そんなことも効率よくできないのか」と厳しい口調で父親が言うのだ。それに対して母は「ごめんなさい。 すぐに片付けるわ」と言ってサッと片付ける。母親はいつも反論はしなかった。
 山本さんは樹を非難するわけでなく、穏やかに微笑んだ。

「樹はお父さんが大好きなんだね」

 山本さんが手を石鹸で洗う。ざーざーと流れる水を見ながら、樹はぽつりと呟いた。

「そう、なのかな……。 本当は違うのかも。 だって、お母さんがいなくなってから、僕は時々息が詰まりそうになる」

 初めて外に出した本音だった。なんとなく、ずっとそんなことを誰かに言ってはいけないような気がしていた。
 山本さんは水を止めると、コップを取り出した。冷蔵庫から市販の2リットルのお茶を出し、それをコップに注ぐ。山本さんは何も言わなかった。
 樹は暗い表情で続けた。

「お父さんを本当は尊敬したいのに、お母さんがいなくなった理由を考えてしまうと、怖くなるんだ。 僕はお父さんの嫌な所をちゃんと知らないだけなのかも……」

 山本さんは二人分のお茶をテーブルに置くと、樹の向かいに座った。口を手で押さえ、「うーん」と唸る。
 次の瞬間、「あ、そうか」と声をあげた。

「樹はお父さんを好きで良いか戸惑ってるんだ」

 樹は目をまんまるく開けた。
 言い当てられてびっくりしたのだ。
 山本さんは自分のしゃべる言葉に納得しながら、その先も続ける。

「お母さんと樹は別の人間だからね。 お母さんがお父さんを嫌いって言っても、樹がそうあるべきということではないんだよ」

 樹の胸にひっかかってたもの。それを一つ取り外していくかのような言葉だった。

「樹は自分が思ったように、お父さんを好きでいていいし、もしくは嫌いでもいいんだよ」

 母親がずっと父親を立てていたから、自分も父親が好きだったのではないか。
 母親が父親を嫌いになり出て行ったから、自分も父親を嫌いにならないといけないのではないか。
 心の中にあった疑念が山本さんの言葉で分解されていく。

「でも、昨日のお父さんは樹を一生懸命探してたよね。 シャツがびっしょりになるくらい」

 樹が顔を上げて、山本さんを見た。
 昨夜、父親には叱られた。なんでこんな所に来たのか。なんでこんな男についていったのか。

「お父さんは樹が大好きなんだよ。 だから、樹がお父さんを好きでいることは全然おかしくないことだと俺は思うな」

 山本さんが樹ににこっと笑う。
 樹は首を深く縦に振った。
 そうだ。お父さんを好きでいても全然おかしくないんだ。
 たとえお母さんがお父さんを嫌いでも、僕はお父さんを好きでいたっていいんだ。
 肯定してもらえたことで、やっと自信を持てた。

「……うん!」

 自分が一番欲しい言葉をもらった気がした。
 父親を好きでいることに意味を持たそうとしていた自分に気がつく。本当はそんなに難しく考えなくても良かったのだ。
 ぽたりぽたりと落ちていく雫を見て、山本さんはまた笑った。樹が悲しくて泣いているのではないのが分かったのだろう。
 山本さんは樹の頭を撫でると、「さあ、鍋の準備手伝ってよ」とまな板の白菜に視線を移した。





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息子視点でした。まだびーえるにならない。
written by Chiri(10/11/2009)