ゆるゆるのまにまに
ゆるゆるのまにまに(1)



 ここ一ヶ月で自分の神経は随分と過敏になったようだ。
 資料をトントンと整えながら古林厚木(こばやしあつき)は思った。
 18時を超えた会社は女性社員が大半帰った後なのでやっと息をつける。蛍光灯は厚木の曇った顔を平等に照らし、隠してはくれない。

「古林さん、奥さんに逃げられたんだって〜」
「あはは。 細かいもんね、あいつ」

 どうせなら厚木に知られない方法で噂して欲しいものだ。
 給湯室には厚木だってコーヒーを入れに行くし、食堂には厚木だって昼食を食べに行くのだから。
 資料をキャビネにしまい、鍵を閉めると厚木は立ち上がった。腕時計を見ると、18時半だ。早く家に帰らねばならない。家には一人息子の樹(いつき)が厚木の帰りを待っているはずだ。
 部長に挨拶をして、タイムカードを通す。通勤手段は電車だから、駅からは徒歩で帰る。
 この時間でも空が暗くならないことに季節の流れを感じ、厚木はふぅっとため息を吐いた。

 −−妻が出ていって、三ヶ月だ。
 まだ帰ってくるかもしれないと思っている自分の愚かさが恥ずかしい。

 たとえ、冷蔵庫に離婚届が貼ってあろうと、妻の実家に電話しても取り次いでもらえないことがあろうとも、信じようとは思っていなかった。しかし、そろそろ観念する時が来たらしい。
 最近は電信柱の数が減ったな、と歩きながら思った。電柱につけられていた電灯も一緒に姿を消した。電灯に集まっていた虫の大群も、だ。ただ、暗い一本道を歩くのは、まるで自分の人生を示唆しているのではないだろうか、とさえ思う。
 資料も全て会社においてきたのに、かばんが重い。ここ最近で、家に帰るまでの足取りが数倍重くなった。

「ただいま」

 マンションの自分の部屋の明かりがついていないのを見て、厚木は眉間にしわを寄せた。
 妻がいないのだから、わざわざ玄関の電灯をつける人間はいない。しかし、リビングや他の部屋の明かりまでついていないとはどういうことだろうか。

「樹?」

 玄関から問いかけるが息子からの返事が無い。
 厚木はちっと舌打ちをした。これは面倒だ。
 樹はまだ小学生だ。こんな時間まで家に帰っていないのはおかしい。
 靴を脱ぎ捨てて、リビングを確認する。ランドセルがどこにも置いていない。朝、食べ物を胃に入れて、樹よりも先にこの家を出たその時と同じ状態だった。樹は家に帰っていない。
 厚木はスーツの上着をソファにかけると、鍵だけ持って家を飛び出した。
 小学校と家との距離は徒歩でたったの10分くらいの距離だ。樹はきっとどこかでほっつき歩いているのだろう。
 腕まくりしたシャツの袖の間から汗が伝い落ちる。
 例えば、妻がいなくなった三ヵ月後に樹がいなくなったとしたら、自分はどうなるのだろうか。変な焦りが出てきて、厚木を余計に走らせた。

「おーい、樹!」

 公園や道路、樹の友達の家をくまなく探したが、樹はいなかった。
 恐ろしい考えが頭をよぎるが、それをあえて無視する。

「そうだ、電話」

 何か知らせがあるかもしれない。携帯を確認したが、着信は無かった。けれどもし樹が学校で怪我をして、家に知らせるとしたら、まず家に電話をするだろう。
 厚木はきびすを返すと、マンションに向かった。
 鍵を差したまま、部屋に上がり、電話機を確認する。緑色のランプが点滅していることに気づき、厚木は息を吸うのをやめた。
 ボタンを押すと、見知らぬ男の声でメッセージが残されていた。

『あ、もしもし? 俺、同じマンションの最上階に住んでいる山本一紙(やまもとひとし)と申します。 お宅の樹君ですが今俺のところにいるので、帰ったら迎えに来てもらえませんか?』

 その一瞬で、男の涼しげな声が憎くなる。

 ちくしょう。

 慌てて外まで探しにいった自分にいらついた。

 そもそも、非常識だ。

 こんな時間に小学生を自分の家に連れて行くなんて。
 声の主に憎しみをぶつけながら、靴を再び履きつぶす。部屋に鍵だけかけると、厚木はエレベーターに駆け込み、最上階へと向かった。






 最上階には部屋が一つしかない。自分の階と作りが違う為、部屋の入り口さえも見つけるのに5分位かかった。
 扉の前で息を整えると、厚木は呼び鈴を押した。ぴんぽーんとのどかな音が鳴り、しばらくして、足音が近づく。

「あ、樹君のお父さん? いらっしゃい」

 扉を開けられた瞬間、飛び掛りそうになる気持ちをどうにか抑えた。
 よれよれのTシャツとジーンズ。ボサボサにはねている頭。年齢は大学生か新社会人くらいだろうか? 顔は髪が長いせいで良く見えないが、格好から見てろくな人間じゃないように感じた。
 汗だくで走り回っていた厚木の顔はどんなにか険しかろう。男の涼しげな顔が腹立たしくて仕方が無いから余計にだ。

「……樹は?」

 声を抑えて、男に聞いた。
 男はにこりとえくぼを作って笑った。

「中にいるよ」

 中を指差したので、中に入れという意味だろう。厚木は扉の中に足を踏み入れた。

「……?」

 入った瞬間にまるで異空間に入ったような違和感を覚えた。
 まず、空気の流れが違う。いや、そうではなく、長年閉じ込められた空気だ。くさい。
 瞳の視線だけで周りを見渡す。

「何だ、この部屋……」

 思わず口から漏れでた。

「ん? どうかした?」

 先を行く男がこともなげに振り向いた。

「いや……」

 流石に初対面の男にはいえなかった。
 どうしてこんなに汚いか、などとは。玄関だけでも何年も掃除されていない泥と砂が見れてとれたが、中はもっとひどい。
 点々と散らばる衣服。本、ちらし、新聞紙は既に床の上でばらまかれたままだ。奥のほうに機能を果たさないゴミ箱があり、そこに収納されるべきゴミの数々がテーブルの上や床に落ちている。足の裏でかすかに感じるザラザラ感も厚木をぞっとさせる。足の踏み場はかろうじてあるが、おそらくそれはそこを常に通路としているからだろう。
 まさに汚部屋、テレビで見たことある奴だ。
 清潔感を重視する厚木にとっては居るだけでめまいがする空間だ。

 おそらく本来ならダイニングと呼ばれる場所に連れて行かれると、樹がいたたまれない表情でダイニングテーブルの席に座っていた。目があうと、途端に顔を背けられた。胸にブワッと炎が燃え上がる。

「……樹、ここで何をしてるんだ?」

 樹は顔を俯けたまま、黙った。ひざの上にはランドセルを抱えている。

「あれ? なんか随分怖がってるね」

 男、確か「山本一紙(やまもとひとし)」という名前だったか−−が横から口を出す。厚木のイライラは一層増した。

「うちはいつもこんな感じだ」

 樹のことは妻にまかせっきりだったのだ。自分と樹の間には俗に言う家族的な空気は未だ無い。つなぎの母親をなくして、気まずい沈黙しかないのだ。
 山本はふぅんと呟いた。厚木を目を細くして眺めてくる。

「変なの。 まず心配したって言えばいいのに。 ずっと探してたんだろ? 汗まみれじゃないか」
「それはアンタがこんなとこに樹を連れ込んだからだろ!」

 カチンときて、語気が荒くなった。
 山本の涼しげな顔が一つも変わらないのが癪に障る。

「大体、非常識だ! こんな時間に小学生を連れ込むなんて!」

 樹が厚木の声にびくりと体を揺らした。心もとない視線がこちらに向く。

「お、お父さ……ご、ごめんなさ、僕が悪」
「お前は黙ってろ」

 一喝すると、樹はまた口を閉ざして、顔を俯けた。
 山本はその様子を見て、うーんと腕を組んだ。

「ごめんなさい。 俺、常識ってもんがないんだ。 心配かけたからそんなに気が立ってんだろ? すいませんでした。 だからそんなに怒らないでよ」

 素直に謝られて余計に怒りの行き場がなくなった。厚木はくそっと呟くと、ようやく深く息を吐いた。
 もういい。これはこれで。樹が無事だったのだから。

「……いや、俺もすまなかった」

 握っていた拳をゆっくりと解す。
 そうだ山本の言っている通り、自分は気が立っているだけだ。

「樹がなんで家に帰れなかったから聞かないの?」

 不意に山本が口を開いた。

「は?」
「だから、理由。 何事にも理由があるもんでしょ」

 この家に来るなり怒っていただけの自分に厚木はハッとした。

「樹、家に帰りたくなくてずっとマンションの前をウロウロとしてたんだよ」

 おさまったはずの汗がブワッと染み出る。
 いつも危惧していたことだ。樹は自分と一緒にいることが嫌じゃないだろうか。母親が居なくなった今、自分しか樹を守るものはいない。けれど、母親と本当は出て行きたかったのではないだろうか。

「樹もお父さんに早く言った方が良いと思うよ。 どうせばれるんだから」

 山本は樹の肩を叩くと、「ほら」と小さく何かを促した。樹はすがるような表情で山本を見つめ返した。
 なんだ?
 二人の様子に厚木はチリッと胸の炎を燃やした。何故自分が知らないことをこの男は知っているのかが腹立たしい。父親は自分だというのに。
 樹は手に持っていたランドセルを開けると中から何か紙を出した。

「あの……お父さん、これ」

 震える声で渡されたものは、……通知表だった。
 それを開いた瞬間、目を疑いそうになった。

「樹、この成績は−−」
「まあまあ、許してあげてよ。 とりたくてとった成績じゃないでしょ」

 山本に制されて、思わず厚木はパクパクと口を開けた。
 なんでお前がそれを言う! と叫びそうになる心を雁字搦めにして止める。自分は大人だ。だから、自分よりも5歳は若そうな若者に怒鳴りつけるのは我慢する。
 樹は伺うように厚木の顔を仰いだ。厚木はハァッとため息をついた。そのため息に樹は「ご、ごめんなさ……」と小さく呟いた。それ以上は言わせないように頭をポンポンと撫でてやる。
 樹はそれだけで少し安心したのか、息を深く吐いた。
 山本は壁によりかかって厚木と樹の様子を見ていたが、突然「うん! 良かったね、樹」と声を出した。樹は山本を見ると、「……うん」とにこっと笑った。
 厚木に対してはいつも萎縮している樹の笑顔をこうも簡単に引き出すとは。
 厚木は、山本に対する嫌悪感を隠しもしない表情のまま、「世話になったな。 もう帰る」と言った。
 厚木が樹の手を引いて、玄関に向かう時に後ろから声が追いかけた。

「またなんかあったらおいで」

 樹に対して言ったのだろうが、答えたのは厚木だった。

「よくもまぁそんなことが……」

 厚木の中では山本の印象は、樹をさらった人攫いだ。
 足を止めて、山本の方を振り返る。何ヶ月も掃除をしていないだろう空間の真ん中で小汚い人間がにこにこと笑っている。
 こんなところに樹をまた来させるつもりなんて無かった。
 山本は手を広げた。

「だって今日知り合いになったんだから。 次からはいいじゃないか」

 何がいいもんか。

「ダメだ、もうここに来ちゃダメだからな。 樹」

 山本の前で樹に約束させた。
 樹は一瞬だけ悩んでから、ほんの少しだけの角度で頷いた。
 それを見届けてから付け足す。

「あと、あの成績は今回は仕方ないけど、次は許さないからな。 打開策を自分で練って、提出しろ」

 ブハッ。
 山本の噴出す声が聞こえた。自分が今言ったことはそんなにもおかしいのか。
 ギロリと睨んだが、山本は口を手で押さえ、今にも笑い出しそうな目でこちらを見ている。

 そういうところが奥さんに嫌われたんじゃないの?

 笑った目の奥底から、そんな皮肉を問いかけられたように感じた。





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珍しく(比較的)真面目な話。
written by Chiri(10/10/2009)